第12話 静かな訪問者
寮の食堂で、拓也が朝食を済ませて席を立とうとした時、管理人がふと声をかけてきた。
「中野くん、最近、外からの電話が増えてるんだよね」
軽い調子だったが、拓也は内心で身構えた。
「電話、ですか」
「うん。最初は保護者の問い合わせかと思ってたんだけど、途中から、ちょっと違う感じの人も混ざってて。記者かどうかは分からないけど、聞き方が妙にしつこいんだよね」
管理人は困ったように笑いながら、それ以上は深く突っ込まなかった。代わりに、拓也の肩をぽんと叩いて、
「別に、中野くんのせいじゃないからね。気にしないでいいよ」
とだけ言って、奥に戻っていった。
気にしないでいい、と言われても、気にしないでいられるはずがなかった。半年前の自分なら、ここまで周りに迷惑をかけることもなかったはずだ。
その日の昼休み、道場の脇を通りかかった時、二年の先輩に呼び止められた。
「八番、最近なんか妙な噂聞くけど、大丈夫か」
いつもの軽口のはずだったが、声の奥に、わずかな心配が滲んでいるのが分かった。
「大丈夫です。すみません、変な話に巻き込んでしまって」
「いや、お前のせいじゃねえだろ。気にしてねえよ、こっちは」
先輩はそう言って笑ったが、拓也には、その笑い方がどこか以前と違って見えた。心配されること自体は、悪いことではないはずだった。それでも、自分のために周りが気を遣う場面が増えていくのは、思っていたよりも重く感じられた。
担任に呼ばれた時も、似たような空気だった。
「中野、その後、何か変なことはないか」
「特にないです。すみません、お手数かけて」
「いや、構わない。お前が無理して隠す必要はないからな」
言葉は優しかったが、拓也には、その優しさの分だけ、自分が誰かに気を遣わせているという事実が重なっていくように思えた。
半年前は、目立たないことが当たり前だった。今は、目立った分だけ、周りの誰かが少しずつ重荷を引き受けている。剣道で結果を出すこと自体は、何も間違っていないはずだ。それでも、その結果が呼び込んだものまでは、誰も引き受ける義理がない。
考えても、答えはすぐには出なかった。せめて、と思い、放課後、もう一度食堂に顔を出した時、管理人に小さく頭を下げた。
「色々、すみません。ありがとうございます」
管理人は一瞬驚いた顔をして、それから、いつもの調子で笑った。
「いいよ、いいよ。そういうの、たまには言われると嬉しいけどね」
それだけのやり取りだったが、拓也の中で、少しだけ気持ちの置き場所が定まった気がした。何も解決していない。それでも、黙って受け止めるだけではなく、せめて一言返すことくらいはできる。
―――
その日の夕方、寮の入り口に、見覚えのある女性が立っていた。
聖女の母親だった。
前回——自宅の玄関先で目の縁を赤く染めながら、最後に深く頭を下げて帰っていった、あの時と同じ、静かな佇まいだった。連れはいない。アポイントもなかったらしく、管理人が困った様子で対応しているのが見えた。
「あの、中野くんに、少しだけお話できればと思って……」
管理人が拓也を呼びに来て、応接室に通された。
部屋に入ると、聖女の母親は深く頭を下げた。
「突然、すみません。少し前から、来ようかどうしようか、迷っていて」
声は小さく、落ち着いていた。賢者の母親のような疑念の色はなく、ただ、静かな何かを抱えているような表情だった。
向かい合って座ると、部屋の中の空気が、これまでの来客とはまったく違うものに変わった気がした。怒りでも、圧でもない。ただ、静かに重いものが、そこにあった。
「ちゃんと、ご飯食べてる? 無理してない?」
拓也が予想していた言葉とは、まるで違う問いだった。
「……はい、大丈夫です」
「そう。良かった」
短いやり取りが、いくつか続いた。剣道の調子、寮の生活、これからの予定。普通の世間話に近い内容だったが、その奥に、何か別の感情が静かに流れているのが分かった。
ダンジョンの最後の場面が、不意に頭の奥で蘇る。崩れる床、伸ばした腕、投げ渡した重み。あの瞬間のことを、目の前の人は何一つ知らないはずだった。それでも、こうして向き合っていると、何かを見透かされているような気がしてくる。
最後に、聖女の母親は少しの間、視線を膝の上に落とした。
「……これは、ただの、私の感じ方なんですけど」
そう前置きして、ゆっくりと言葉を続けた。
「あの子は、誰かに守られていた気がするんです。理由は、説明できません。母親の、ただの直感みたいなものです」
その言葉に、拓也は何も言えなかった。否定も肯定もできない。ただ、自分の中の何かが、静かに揺れた気がした。
「ごめんなさい、変なこと言って」
聖女の母親は小さく笑って、それから、また深く頭を下げた。
前回と同じ一礼だった。あの意味を、拓也はまだ正確には分からない。それでも、今回だけは、その重さの輪郭が、少しだけ掴めた気がした。
「……ありがとう、と言いたくて。理由は、自分でもよく分からないんですけど」
それだけ言って、聖女の母親は立ち上がり、静かに部屋を出ていった。
拓也は、しばらくその場に座ったまま、動けなかった。
賢者の母親の怒りも、弁護士の圧も、記者の探りも、それぞれに重かった。だが、今のこの重さは、それらとは種類が違っていた。責められているわけでも、疑われているわけでもない。ただ、誰かの静かな祈りのようなものを、黙って受け取ってしまったような感覚だった。
窓の外は、もう薄暗くなっていた。
拓也は、ゆっくりと息を吐いた。何も言わずに済んだことに、安堵していいのか、それとも、何か言うべきだったのか——その答えは、まだ出ない。
ただ、これまでの訪問者の誰よりも、彼女の言葉だけが、長く胸の中に残りそうな気がした。




