第120話 切り札の使い道
緒方の屋敷に、本屋を模した一角の増設が始まっていた。
当初は、届いた本を平積みにして並べているだけだったが、「もっと分かりやすく整えたい」というエレーナの提案から、本格的な整理作業が始まっている。
屋敷で働く奴隷や使用人たちにも、届いた本には自由に目を通してもらうことにしていた。各自、気に入った本には、点数をつけたしおりを挟み、選書の参考にする仕組みも取り入れられている。
幼いミラも、その輪に加わり、真剣な表情で本を読み込んでいた。
今のところ、屋敷内の事務方から特に評価が高いのは、実用書の「複式簿記の基礎教科書」だった。加えて、文字が読めない者でも楽しめるよう、児童書やマンガの類も、しっかりと揃えられている。
―――
あれから、一週間が経っていた。
体の調子は、すこぶる良い。大袈裟に言えば、三十代の頃の気分だった。頭頂部の薄毛も、心なしか、目立たなくなってきている。
鷲尾は、真剣に考えていた。
——これは、戦略物資になる。
権力者にとって、最大の関心事は、健康だ。誤った決断かもしれない。それでも、ごく一部の者のために、この薬を使う価値はある。何しろ、これは、この国にしかないものなのだから。
「神崎くん、話がある……」
数日後、アメリカから連絡が入った。
「決定的な追加資料がある。エテリムを、原価に近い価格で売ってくれ。年間、五百万トン」
鷲尾は、即座に断った。
「月産、数十トンが限界だ。その量は、物理的に不可能だ。無理をしても、十トンが限界だろう」
「では、価格はどうだ」
「価格交渉は抜きにして——アメリカは、いくら出せる」
「現在購入しているチタンの価格の、五割引きなら、その追加資料の価値に見合うと思うが」
「それは、また大胆な価格ですね。三割引き、今後十年間の契約では、いかがですか」
「ふん。三割、十年では、追加資料の価値には見合わん」
「では——お土産を、追加いたしましょう」
「特殊な加工技術でも、あるのか」
「そちらは、まだ未完成でして。お土産には、なりません」
「なら、何だ」
「以前、大統領のご長男のご子息が、危険な薬物のトラブルで、入院なさっていると、メディアで知りました。まだ、入院中で?」
「……ああ。可哀想な孫だ」
「特効薬を、ご用意できます。正式には——中級回復薬と申します」
電話の向こうで、沈黙があった。
「それは……効果は、あるのか」
「一概には申し上げられませんが、十二時間ほどで、効果が現れます」
「分かった。すぐに送ってくれ——いや、こちらから、取りに行く」
「今、手持ちが十本ございます。まずは、そちらをお試しください」
―――
大野が手がける、異世界の本を日本で売る計画は、静かに滑り出していた。
週を追うごとに反響が高まり、四週目に入って、一気に火がついた。全国の書店から、注文が殺到する事態になっている。業界内では、ちょっとしたバブルとまで言われ始めていた。中には、原本そのものを欲しがる声すら、出てきている。
社内では、次回作の選定会議が開かれた。今回からは、その作品に合った人気作家に、現代人向けの仕上げを任せる方針で、話がまとまった。前回までは、社内の編集者が手直しして仕上げていたが、今回からは、やり方を変えることになる。
最初の作家が手がけることになったのは、緒方の妻・エレーナのお気に入りの一冊だった。その作家が、すでにある現代語訳を読んで、いたく気に入ったことから、この企画が実現した経緯がある。原本の作者は、すでに亡くなっていると聞いている。著作権については、株式会社中野物産が管理する形になっていた。
魔術書関連では、SNSを通じて本を読み、実際に火の魔法を実演してみせる者まで現れていた。それに釣られる形で、「私も」「俺も」と真似る者が数人現れ、ちょっとした流行になっている。つい最近まで、スピリチュアル系の配信者として活動していた、ある人物などは、今では「魔法の専門家」を名乗り、SNSで活動を続けていた。
本物の魔法を知る立場の大野からすれば、呆れるしかない光景だった。それでも、話題になればなるほど、本の売り上げにも繋がる。大野は、生温かい目で、その様子を見守ることにしていた。




