第119話 取り戻した朝
朝早く目を覚ますのが、長年の習慣だった。それが、その日に限って、七時まで、ぐっすりと眠り込んでしまっていた。
ベッドから、ゆっくりと体を起こす。いつもなら、真っ先に襲ってくるはずの痛みが——来ない。
回復薬の効果が、確かに表れている。鷲尾は、そう実感した。
体に異常がないか、腕を回し、屈伸をし、腰をひねってみる。動かしてみても、特に、違和感はなかった。
洗面台に向かい、顔を洗う。鏡に映る、自分の顔を見て、思わず声が漏れた。
「む!」
心なしか、肌に張りがあるように感じる。これも、効果の一つだろうか。
身支度を終えたところで、電話が鳴った。
「おはようございます、総理。今日は、ごゆっくりなのですね。こちらから、ご連絡差し上げました」
「あー、すまん。今から向かう」
気遣いのできる秘書からの電話を受け、数分後には、官邸へと移動していた。足取りが、いつもより軽いことに、自分でも気づいていた。
「おはようございます」
そう迎えられ、鷲尾は、執務室へと入っていく。
「総理、何か……雰囲気が、変わりましたか?」
秘書が、不思議そうに、そう尋ねてくる。
「昨日は、しっかり眠れたからな。ハハハ」
そう笑って誤魔化しはしたものの、秘書もまた、何かしらの違いに、気づいているようだった。
―――
鷲尾の朝が、静かに変わり始めていた頃、日本国内の書店では、また別の変化が起きようとしていた。
グレーカレコ王国の本の発売が、ついに始まったのだ。
第一弾となったのは、グレーカレコ王国に伝わる神話の冒険譚と、王国魔術協会監修の、基本魔術手引書だった。
見た目は、現地の原本に似せて作られている一方、実際の中身は、日本の紙で製本されていた。魔術協会監修の一冊については、原本が羊皮紙であることに合わせてか、ずいぶんと分厚い仕上がりになっている。
大手書店の本店では、宣伝を兼ねて、現地の原本をケースに入れて展示するという演出が行われた。
特に、大々的な宣伝は打たれていなかった。それでも、書店での反応は、上々だった。
―――
一方、アメリカ経由で情報を掴んだ隣国もまた、動き始めていた。
「生意気にも、我が国へ連絡もせぬとは、何事か」「世界一の民族たる我らが、あの鋼材を、真に世界一の鋼材にしてやろうではないか」「あの下等民族どもが考えたなどと言っているが、元はと言えば、我らの技術を盗んで作ったに違いない」——そういった思い込みのもと、担当者は、行動に移った。
数日後、経済産業省に、新素材担当者との面会を求める人物が現れた。
「そのような鋼材は、扱っておりませんし、担当部署も存在しません」
「貴様、同盟国たる我が国を、侮辱するつもりか」
「侮辱も何も、そもそも部署自体が、存在しないのです」
「担当者が来るまで、ここで待たせてもらう」
埒が明かないと判断した職員が、警備に合図を送る。すぐに、警備員が駆けつけた。
「失礼いたします。お客様は、隣国から派遣された、正式な方でしょうか。身分証を、拝見いたします」
「きさまー!」
男は、そう叫びながら、警備員に手を上げた。
「確保」
短い号令とともに、男は、その場で拘束され、連行されていった。
「歴史も文化も、すべて、我が国が教えてやったというのに——この態度は、一体、どういうことだ!」
連行されながらも、男は、そう叫び続けていた。
この一件は、翌日、小さな扱いながら、ニュースとして報じられることになった。
翌日、釈放された男は、数名の仲間と共に、再び経済産業省の門前に姿を現した。
不当逮捕への抗議だと称し、事前に野党の国会議員へ協力を要請し、テレビの取材クルーまで動員していた。三十分ほど、ちょっとしたお祭り騒ぎのような抗議活動を繰り広げ、撮影が終わると、あっさり解散した。
数日後、男は、帰化した隣国出身の弁護士を伴い、防衛省を訪れた。新素材を使ったステルス機の見学を、改めて要求するためだった。
「総理からの許可書を、拝見いたします」
その一言に、男は、激高した。
弁護士が、必死に止めに入ったものの、危うく、その場で逮捕されかねない状況だった。興奮した男は、施設内の備品を蹴り飛ばし、器物損壊の現行犯として、隊員にその場で拘束された。
この一件は、隣国側に正式な抗議として伝えられ、男は、以後の入国を拒否されることになった。
帰国した男は、SNSを通じて、この顛末を世界に向けて発信した。だが、実際に反応があったのは、隣国内のみ——百万インプレッションという数字も、あくまで、国内限定のバズりに過ぎなかった。
一方、隣国内のアメリカ軍基地では、新素材に関する情報統制が敷かれ、フェイク情報が出回っている実態について、基地内で注意喚起がなされていた。その情報は、帰国した男の耳にも届いていたが、当の本人は、すでに、陰謀論系の発信者として、独自の活動を続けていた。




