第14話 柴田洋平
「それじゃあ、お大事に」
「ありがとねえ、柴田先生」
午前中の最後の患者を送り出すと、一時を過ぎていた。
看護師の女性たちが、診察室を閉める準備に取りかかる。部屋の前に「休憩中」の札がかけられると、柴田は電子カルテを書き終えた。残った雑務にも一区切りをつける。ようやく昼の休憩時間だ。午後の回診の時間まで、なにも無ければ今日は無事に休憩時間が過ごせそうだった。いつも聞き分けのいい患者ばかりなら助かるのだが。
柴田は部屋を出ると、ちらりと待合室を覗いた。既に外来患者の数も減り、同じ内科の診療室や他の科の同僚も休憩に入っているようだ。設置されたテレビでは、バラエティ寄りのニュース番組が映っている。闇バイトのニュースだった。このところ連日のように報道されている。
――まさか久保田がなあ……。
ため息をつき、友人宅で起きた痛ましい強盗殺人事件に思いを馳せる。久保田昌義は大学からの旧知の仲だった。同じ登山部の仲間で、七年前までは毎年のように登山に行っていた。闇バイトでの強盗殺人があるのは知ってはいたが、まさかそれが自分の周囲で起きるとは。同じ街というだけでなく、友人となると話が変わってくる。事件のせいか葬儀も親戚による家族葬だったと聞いただけだ。そのうちに仏前に花でも供えたかったが、まだ連絡のひとつもない。
「……」
本当に偶然だろうか。
闇バイトといえば、高齢者の住宅に押し入るのが常套手段だろう。若い男までいる家を狙うものだろうか。久保田の家には、確か大学生だか社会人だかの長男がまだいたはずだ。
――何がそんなに引っかかるんだ?
久保田は目線を逸らして、休憩に戻ろうとした。だがそのとき、ニュース番組から再び流れてきた音声を聞いた。
『……被害者は会社経営者の橘光博さんとその妻・奈緒美さん、長女の陽葵さんで、三人全員が自宅で遺体となって発見されました。現場には争った形跡があり、捜査関係者によると、一家は何者かに襲われた可能性が高いと見られています』
「……は?」
思わず小さく呟いてしまった。このニュースキャスターは、いま何を言ったのか。
『発表によると、容疑者グループは久保田昌義さんの事件と同じく、インターネット上で募集された、いわゆる「闇バイト」による犯行の可能性が高いとみられていて、警察は関連性を調べています。また、防犯カメラの解析映像や、募集ルートの特定などを進めるとともに、深夜に深夜に不審な物音などを聞かなかったかどうか、警察は周囲への聞き込みを行っており……』
柴田は手を震わせた。
テレビを見上げたまま一歩も動くことができなかった。患者や看護師たちが不思議そうな目で彼を見ている。柴田は急に意識を取り戻したようにハッとすると、胃の奥からこみ上げてくるものを感じた。
トイレに駆け込み、ほとんど空の胃の中から胃液だけを吐き出した。他に利用者がいなかったのだけが幸いだ。
こんな偶然があってたまるものか。柴田はトイレから出ると、休憩室にとってかえして自分の携帯電話を取りだした。最新のニュースは、テレビと同じ事を伝えていた。わずかに聞こえてくるテレビのニュース番組では、闇バイトに手を出してしまう若者たち、というような内容で、知ったような口ぶりのニュースキャスターと芸能人が、意味の無い議論を繰り広げている。
――なにが闇バイトだ!
柴田は、確信していた。久保田だけだったら偶然だった。だがその次が橘となれば、もはやこれは偶然ではない。橘の家だって、まだ高齢者とは言えない。こんな偶然があるものか。何度もその考えを否定しようとしたが、もはや確信に変わっていた。これは絶対にただの金銭目的ではない。復讐だ。七年前の復讐を誰かがしているのだ。
でも、誰が。
七年前の恐ろしい記憶が蘇ってくる。画面に並ぶ文字が掠れ、あの日の雪山が蘇ってくる。ホワイトアウトした視界。髪も衣服も吹き付ける雪で真っ白になり、誰がどこにいるのかもわからなくなった。そんな状況でも、熊谷から流れる赤い血だけが鮮明に色づいていた。それだけだった。絶望的な状態。命を賭けた極限の状況。生きて帰れるのかどうかさえ見失ったあの現実……。だからあの声が聞こえてきたときは、幻覚だと思った。それでも幻覚に縋らないといけないほどに追い詰められていた。
白い闇からはっきりと聞こえてくる声。
「助かりたいなら……」
地獄の底から響いてくるような、不快な声。
自分達が助かるためには、言う通りにするしかなかった。
あの怪物の言う通りに……。
「……先生!」
柴田はハッとして、過去の記憶から意識を取り戻した。
周囲は雪山ではなく、白く清潔な印象の病院だ。総合病院の休憩室で、携帯電話を片手にしていたところだ。
「あ――ああ。どうした?」
ここはあの日の雪山ではない、と自分を叱咤する。
「大丈夫ですか? 顔が真っ青ですよ」
「な……、なんでもない。疲れたのかな」
なんでもないことはない。大学からの友人が強盗殺人の被害者になったのだ。本来であれば哀しむべきところだ。だがそのどちらも、あのときの生き残りだ。おそらく次は自分だ。看護師を見送り、いったいどうすればいいのか柴田は考えあぐねていた。
――そうだ、確か……。
少し前に、熊谷の妻からの封書が届いていた。
それは毎年来ているものと変わりのない内容だった。七年前から、律儀にも毎年やってきていた封書。意図的に内容を頭に入れないようにしていた手紙。しかしひとつだけ例年と違っていたのは、七年目を区切りとして家に来てほしいといった内容だった。そう不自然なものではない――七年が区切りになるかは別として。
――やはり、あのときの事を知っていて……?
ありえることだ。熊谷の妻が何らかの事情で七年前の真相を知って、あの二人を……もとい家族ごと殺したか。あるいはテレビでやっているように、誰かを雇って殺したか。
――それとも、まさか。熊谷健一が戻ってきた?
そんなはずはない。
熊谷は間違いなく死んでいる。
――あいつは目の前で……。
そこまで思い出そうとして、再び胃の奥からこみあげてくるものがあった。飛び散った赤い血。吹雪の轟音で耳を塞ごうとしても聞こえる、肉を咀嚼する音……。雪崩に巻き込まれたという証言がどこまで信じてもらえたのかわからないが、病院の真っ白な壁を見ていると、気分が悪くなりそうだった。怪物に供物を差し出し、怪物は約束を守った。だれも裏切ってはいないはずだ。
どうする。警察に連絡するか。だがどう言えばいいのだろう。そもそも熊谷のことをどう説明すればいいのか。
――それともあの怪物が幻覚で、熊谷は生きていたのか?
そうだ。そう考えればつじつまがあう。そして七年前の復讐として、自分たちを殺しているのだ――柴田はそう結論付けた。ならば、いちばん怪しいのは。
――やはり、自分の妻のところか……!
それなら。
きっと熊谷本人はいま隠れているのだ。世間では死んだことになっている男なのだから。自分の妻に、いまもまだ見つかっていないように偽装させて、おびき寄せようとしたのだ。そして、闇バイトを偽装して久保田と橘を殺したに違いない――柴田はそう結論付けた。怒りがこみ上げてくる。この病院での医者としての地位。愛する家族。それらをすべて壊されてたまるものか。
――殺される前に、やるしかない……!
向こうが隠れているのなら、殺したところでわかるはずもない。柴田はそんな思考に駆られていた。準備を整えなければならなかった。
柴田は休憩室から戻ると、ナースセンターへと顔を見せた。
「柴田先生?」
「急用ができた。今日の回診は中止してくれ。もし用事があれば携帯電話に直接掛けてきてほしい」
「えっ? わ、わかりました……?」
その有無を言わせない様子に、看護師はそう答えるしかなかった。




