ニコスハーデンの『聖女様』 11
「じゃあ、次は反対向きになって、水面に顔を――」
そういや、こっちにもマスクだとかゴーグルだとかみたいな道具はあるのだろうか?
顔を水面につけずに泳ぐ方法だってあるけど、あるのとないのとでは段違いだ。それとも、こっちの世界じゃ、魔法でその辺りを解決してんのか?
ここまで誰も持っていない所をみるに、売っていなかったんじゃないかとは思うけど。
俺やレアード王子は、水着だけ見てさっさと買い物を済ませてしまったけど、女子組は買い物の時間も長かったからな。
まあ、なくちゃならないってものでもないし、構わないか。
「――顔をつける練習から」
「わかった」
さすがに初歩過ぎたかと思ったけど、レアード王子は迷うことなく実行してくれている。
その様子を見ていて、俺はひとつ思うことがあったので、息を吸うために顔を上げたレアード王子に提案してみる。
「すみません。後からになって悪いんだけど、今気付いたもんだから」
「いや、構わない。それで、気付いたことというのは?」
顔についた海水を腕で拭うレアード王子の前で、俺は空気の球を作り出す。それだけじゃ無色透明でわかりにくかったから、指で突いてみたりする。
「これで顔の周りを覆ってみるってのはどうだ? もちろん、深く潜る場合には量とか、色々と計算する必要が出てくるかもしれないけど、浅瀬で、顔をつける訓練だとか、泳ぎの練習をする分にはこれで十分ゴーグル……あ、いや、目が開けられるようになるってのは、かなりのメリットだと思うんだけど」
「なるほど、たしかにそうかもしれない。色々と考えてくれているんだな、ルシオンは」
いや、こんなのは俺が考えたことじゃなくて、ちょっと潜水タンクだとか、水中眼鏡だとか、マスクだとかの知識があったってだけのことだ。
「まあ、それはともかく、やってみて貰え……ますか?」
「わかった」
外から見た感じじゃわかり辛いけど、レアード王子はどうやら顔の周りに空気の膜を作ることに成功したらしい。
もっとも、ただそれだけで、他に意識とかはしていないため、すぐに中の空気はなくなって膜も壊されることになったけど。
「あれでよかっただろうか?」
「多分。あ、でも、先に俺が試して、本当に大丈夫かどうか確認してきます」
これでもし、水中に潜ってみたら、水圧だとか、流れだとかに耐えられず、すぐに割れてしまって、パニックを起こして……なんてことになるのは避けたい。
俺はその場で膝をつくと、さっきと同じように空気の膜を、今度は自分の頭の周りに造り出し、ゆっくりと、泳いで沖の方、足のつかない所まで向かい、潜ってみる。
頭の回り、という座標を指定して――自分で考えたわけじゃないけど、どうやらそういうものとして魔法が作用したらしい――いたためか、吐いた息のようにすぐに上がっていったりしてしまうこともなく、問題なく、空気の膜は、ゴーグル、あるいはマスクの役割を果たしてくれていた。
「問題ありません。慌てなければ、それなりの時間は保つことができるでしょう」
戻ってきてレアード王子に告げる。
慌てないこと。これが最も重要だ。
人間は黙っていれば水に浮くんだから、たとえ水中で空気がなくなっても、力を抜けば浮き上がることができるし、そうすれば呼吸に困ることもない。
「俺がすぐ傍にいて、いつでも動けるようにしていますから、何も心配せず、安心して、顔をつけてみてください」
それに、何も潜る必要があるわけじゃない。
クロールにしても、平泳ぎにしても、あるいは何だって、水面に浮かんでできる。
まあ、空気の膜で顔を覆っているわけで、これで本当に顔を水につけたことになるのかどうかってのは疑問があるけどな。
「わかった」
レアード王子は、すぐに俺の事を信用して、同じように空気の膜を作り出すと、そのまま一気に水中へと顔を沈めていった。
気泡が激しく上がってきて、ものの数秒でレアード王子は顔を上げ、荒い息を整えるように胸に手を当てる。
「レアード王子。目は開けられましたか?」
空気の膜を作り出すことの目的は、呼吸するための空気を確保することじゃない。
もちろん、初心者――どころか、今日初めて海で泳ごうとしているレアード王子にはそれも重要なことだったんだけど、視界を確保すること、そして、水に慣れることだ。
視界不良の状態では、落ち着くのはやっぱり難しいからな。
「いや、だめだった」
すまない、と頭を下げられるが、これは俺も悪かった。
俺も一緒に潜って、同じようにやってみせるべきだったんだ。
「わかりました。では、次は俺も一緒に潜りますから、ゆっくりでいいので、目を開けてみましょう。大丈夫です。レアード王子は魔法の練習も日々頑張っていますよね? それに、こうして水中でなければ、空気の膜を作り出すことに何の抵抗もありませんでした。なら、水中でも変わりはないはずです」
空気がなくなるのが不安だというのなら、大きめのものを作ればいい。
泳ぎ――この段階なら、水に慣れることに集中してしまって、魔法までうまく手がまわらない、という事態を防ぐために、絶対安心だと、手を繋ぐことで伝える。
「それじゃ、もう一度、作って貰えますか?」
「ああ」
レアード王子が空気の膜を作るのに合わせて、俺も自分用に空気の膜を形成する。
なんなら、全身覆うように、大きな膜でも造ってしまえば泳ぐ必要もなくなるんじゃないかと思うけど、今日のところは泳ぐ訓練だから、それじゃ意味ないしな。
空気を温存するため、俺は指でカウントをとり、同時に水面下へと頭を沈めてゆく。
そのまま周りの景色とかも確認してみたいところだったけど、今はレアード王子のことが重要だ。
前を見てみれば、レアード王子は、空気の膜を作り出すことには成功していたものの、目は固く閉じたままで、空気の膜の消費もまた早い。
このままじゃ、さっきと同じだ。
俺は掴んでいたレアード王子の手をより強く握る。
大丈夫、俺はここにいると、たとえ今見えていなくても、はっきり伝わるように。
レアード王子はしばらくうつむいたままでだったが、ゆっくり、少しづつ、瞳が開かれて正面を向いたところで俺と目が会う。
レアード王子の瞳が驚きに見開かれ、俺は頷いて見せた後、片手だけ離して、丸を作ってみせる。
水中じゃ会話が難しいのが残念だ。もしかしたら、魔法でどうにかなるかも、とは思うけど、今はそれより、大事なことがある。
俺は指でレアード王子の視線を誘導するように、自分の背後を指さす。
見えるのは、魚、それから、おそらくは珊瑚だったり、海藻だったり、海の世界だ。
水面から差し込む光が、反射して砂が白く見えている。
潜る前から見えていたけど、やっぱり、透明度が高いな。
まあ、とりあえずの確認はこのくらいでいいか。
「どうですか? 水には慣れましたか?」
海面から顔を出し、確認すれば、レアード王は感動した様子で頷いて。
「ああ。素晴らしいな。礼を言う、ルシオン」
「いや、お礼を言うのはまだ早いですよ。まだ、泳ぎを教えたわけではないですからね」
今のはまだ、顔を水中につけたってだけだ。
レアード王子はわずかに口角をあげ。
「そうだったな。では、よろしく頼む」
「そうですね。じゃあ、楽な平泳ぎから――」
「あー! お兄様とルシオン、いたわ!」
声が聞こえたのでそちらを向けば、マリエッタ姫を先頭に、全員がゾロゾロとこちらに向かってきているのが見えた。
「お兄様だけ泳ぎを教わるなんてずるいわ。あたしにも教えて、ルシオン」
シスネに聞いたのか。
そう思って顔を向ければ。
「いいじゃない。私も一緒に教えるからさ」
シスネはそう言ってウィンクをしてきて。
まあ、構わないか。
水泳教室みたいなところじゃ、多人数を一緒に教えているわけだし。とはいえ、俺はインストラクターじゃないけど。
「ルシオン。私も、泳ぎを教えて欲しいです」
ルミナリエが近付いてきて、俺の指をぎゅっと握る。
「レアード王子」
個人的には構わないけど、これを言い出したのはレアード王子だし、そちらにも確認をとるべきだろう。
「ああ、そうだな。皆一緒の方が励みにもなるかもしれないな」




