7 異次元世界ユーゲニア
その名を異次元世界ユーゲニア。
このような異次元世界は、世界創造の際にこぼれ落ちたカケラの一つ。
それも真世界に比べれば非常に小さなカケラだ。
空を見上げても無限の広がりを感じさせるような星の輝きはなく、移り変わる季節の色合いもない小さな空間。かろうじて人間が居住可能な大地には、それを取り囲むような目に見えない次元の壁が存在する。すなわち天然の牢獄だ。
一定の風景に囲まれた、一定の刻限だけを見る空。
ぼかしのかかった茜色が鮮やかな夕闇が永遠と続く世界。朝も夜も存在しないこの異次元世界の空を支配するのは、圧倒的な夕焼けである。
そうして外界から閉ざされたユーゲニアは、閉ざされた社会を形作る。この地に暮らす人々は永遠の黄昏世界の中で生まれ、育ち、その多くが外の世界を知らぬままに死んでいくのだ。
その中心となる人々の拠点が、第一都市アヴェルレス。
数百年の歴史ある異次元世界ユーゲニアにおいて、その初期から絶えることなく現代まで存続する唯一にして最大の都市であって、長き伝統を誇る暗黒街だ。
帝国政府による正式な調査の手が届かないため正確な実情は不明だが、その規模はベアマークにも匹敵するといわれている。
もともとは天然の牢獄として利用された流刑地だったものの、当時の帝国政府の方針転換により、犯罪者などの流刑は数百年前に中止されている。実際に流刑が実施されたのは、わずか数十年程度だったとの古い記録が、わずかながらに残されるばかりだ。
以後、帝国政府とアヴェルレス市民議会政府の長年にわたる慣習によって、基本的には異次元間の人々の出入りを禁止している。
現在のアヴェルレスには、数百年前に異次元世界へ閉じ込められた「流刑犯罪者や被征服民、当時の奴隷階級、危険と判断された魔法使いなどの人々」の子孫が暮らしており、その総人口は六十万人を越えるとも言われているが、残念ながら正確な戸籍は存在しないためこれも不明。
そんな流刑犯罪都市として誕生したアヴェルレスは現在、市民の代表をうたうアヴェルレス市民議会政府が統治しているが、この政府は形ばかりのものであり、実際には機能していない。
現実のアヴェルレスは、民主政治とは程遠い不自由な街だ。
数百年前に都市が誕生した時点からほとんど変わらず、いわゆる“マフィア”と呼ばれる暴力組織が、独裁的にアヴェルレスを支配しているのである。
紆余曲折あった血なまぐさい歴史の末、現在のアヴェルレスには合計で五つのマフィアが組織されており、互いの支配領域を巡って睨み合うように存在する。
そのため、慢性的な死病にも似た街の治安は非常に悪い。
さて、その五つあるマフィアの総元締め的な存在であり、最強にして最大規模を誇るマフィアにして、実質的なアヴェルレス政府とも呼べるのが、血の尖兵と恐れられるブラッドヴァンである。
他の四つのマフィアはこのブラッドヴァンの下部組織に過ぎず、市民の代表を期待されるアヴェルレス市民議会政府も、実際にはブラッドヴァンの操り人形だ。
今宵――といっても、アヴェルレスの空はいつだって赤い――そのブラッドヴァンの本拠地とされる街の中央でも北部寄りに存在する湖に浮かぶ孤島の、鉄壁の要塞にもたとえられる巨大な屋敷には、下部組織としてブラッドヴァンの“おこぼれ”を巡って対立する四大マフィアの幹部達が雁首をそろえて集っていた。
わざわざ幹部クラスの彼らが足を運んでまで一箇所に集まっているのは、たった一つの理由のため。
この街を支配するブラッドヴァンの首領であり、この異世界の誰もが恐れる最強最悪の支配者ダンス・オドレイヤが主催するパーティに出席するためである。
――誰もが恐れる。
いや、この言葉は撤回する必要があるだろう。
「しっかりパーティにはお誘いしたはずだがね。我が愛しのフレッシュマンの回答は?」
列席者の注目を集める壇上。
静かなる怒りに目をたぎらせたオドレイヤに首をつかまれて問われたのは、とある下部マフィアのボスであるフレッシュマンから、今宵のパーティーへの使者として送られた代理人の男性である。
息の根を止めんと首にまとわりついたオドレイヤの指が絞まるのを承知で、フレッシュマンの代理を任された彼は臆することなく堂々と答える。
「あなたの首がパーティの余興に提供されるなら、ぜひ喜んで――と」
死を恐れず正直に答えて不敵に笑ったのが代理人の彼なら、命知らずを見て皮肉げに笑ったのがオドレイヤである。
「その言葉を聞いて安心したよ。遠慮なく怒りを爆発させられるのだからな」
「――爆発するのはあなたの命だ!」
突如、まなじりを決して血気盛んに叫んだのはフレッシュマンの使者である男だ。
あっけにとられる群集の眼前でただ一人、窮地に追い込まれていた彼は、晒し者から暗殺者へと勇気ある変貌を遂げた。
一瞬の動作で正装のジャケットを脱ぎ捨てると、その内側から出てきたのは、火薬を用いた小型の手投げ爆弾。魔法の威力を詰め込んだ魔道具とは違って、威力は低くなってしまう代わりに誰にでも扱える文明の利器だ。
通常、オドレイヤのような高レベルの魔法使いを相手にして、魔力のない武器は通用しないものだが、この至近距離なら――。
「させてごらんよ。できるものならね?」
暗殺者による死の危険が間近に迫っているにしては、ひどく落ち着いた様子のオドレイヤ。
それもそのはず、この程度の攻撃はアヴェルレス最強の魔法使いでもある彼にとって、恐れるに足りない些事なのだ。
たかが小型爆弾である。
つまらないといったように不機嫌な顔をしたオドレイヤに、きつく首を絞められた男。もがき苦しむ彼の姿が、何事かを呟いたオドレイヤの手元から放出され始めた黒い煙に覆われていった。
すると見る見るうちに黒い煙は繭状の実体を持ち、その男の全身を包みこんでいく。それから彼の体がすっぽり繭の中に包まれて消えてしまうのに、まばたきは数回程度。
内側に男を閉じ込めた”それ”は全体が丸く、小さく、やがて球形の塊となって、オドレイヤの手のひらの上に転がった。
プチンと、凝縮された小さな繭がつぶされた音は、あまりにもあっけなく響き渡る。
オドレイヤは人間一人をいとも簡単に消し殺してみせたのだ。
男が所有していた爆弾ごと、魔法で固めて丸めて一瞬で始末したのである。
「ああ、なんと愚かな選択を取ったのだフレッシュマンよ。従順なまま私の配下にあれば、今頃は次期ドンの座を正式に認められていただろうに……」
わざとらしい振る舞いで大げさに肩をすくめると、彼は壇上から列席者の面々を悠々と見下ろした。その瞳には闘争的で情熱的な炎が宿っている。
明確な敵の存在が彼を勇ましくさせるのだ。
つまりフレッシュマンの反抗を本音では嬉しく思っているのである。
「まさか絶対権力者の私に反旗を翻し、この命を堂々と狙ってくるとはね。しかも下部マフィアの一つを丸ごと乗っ取り、自身の手駒として用意していたなんて驚きだ」
彼の言う驚きとは、もはや喜びの感情表現である。血に飢えた獣の遠吠えに過ぎない。
オドレイヤに忠誠を誓う四大マフィアのうち、その一派が、新しいボスとなったフレッシュマンの扇動によって、この街を支配する親組織ブラッドヴァンへの“戦争”を宣言したのだった。
その最終目標はもちろん、アヴェルレスの支配者オドレイヤの打倒である。
さて、ところで今宵のパーティに集まっている下部組織の幹部連中は、唯一の敵対者フレッシュマンの代理人がオドレイヤの魔法で殺されたことによって一つ減ったため、残る三大マフィアからのみの出席である。
これまでにも下部組織である四大マフィア同士の争いは血みどろに繰り広げられてきたが、その忠実な犬四頭の飼い主であるブラッドヴァンに立ち向かった猛犬は、アヴェルレスの歴史上ほとんどいなかった。
過去に存在したとしても、そのすべてが例外なく残酷なまでに粛清されていったのだ。
無謀なるフレッシュマンの成れの果てを想像して、哀れに思う者は多数。いや、しかし、この中にはオドレイヤの不幸を祈ってひそかにエールを送ったものもいただろう。
ここは信用ならないマフィアがはびこる暗黒街アヴェルレス。
裏切りや面従腹背は通過儀礼のひとつみたいなもので、誰もが従順な騎士ではないのだ。
「今日はパーティだからね。私への嬉しいサプライズは一つだけかな? なっはっは、ひょっとすると他にも裏切り者がいて、私の首を狙っているかもしれぬなぁ?」
恐怖の支配者の一言で、背筋に悪寒が走った全員がぎょっと首をすくめる。
この日オドレイヤ邸で開かれたものは、パーティとは名ばかりの異端諮問会。オドレイヤへの忠誠を確認する儀式である。
少しでも疑われた者の命は、その場で消えうせる。あるいは組織ごと、無慈悲な粛清の憂き目を見るだろう。
「かつてのフレッシュマンは、私が側近にまでした可愛い部下だった。あいつはまだ若い。殺すまでには今しばしの猶予を与えよう。説得すれば謝ってくれるかも、と期待してね?」
投げやりに言い捨てると、体の向きを変えたオドレイヤは控えていた部下を呼び寄せ、赤い酒の入ったグラスを受け取った。
彼はいつもこれを血に見立てる。とりわけ反逆者の血液だ。
それを列席者達も知っているので、各々は手近にあったグラスを掲げて、音頭をとるオドレイヤに遅れまいと歓声を上げた。
「永遠の血統を祈って乾杯!」
それはブラッドヴァンの、そしてブラッドヴァンに敬意を示すマフィアたち、ひいてはアヴェルレス全体に浸透した合言葉だ。
ここで祈られる血統とは、個人のそれではない。組織としての伝統、つまり正統性だ。
すなわちこれは、ブラッドヴァンの永遠の繁栄を約束するための宣誓だった。
ただし、最大にして最強のブラッドヴァンを創設時代から代々率いてきたリーダーは、そのすべてが例外なくオドレイヤ一族の血を引く人間だったことは注釈しておくべきだろう。したがって、もちろんオドレイヤ一族の血統を神聖視している面も大いにある。
後継者争いが熾烈さを増した混乱の時代もあったが、歴代のオドレイヤ一族の人間は誰もがみな魔法能力に恵まれており、そうでない他者を圧倒し続けた。
ところが現在のドンたるダンス・オドレイヤは、老いてなお独身の未婚者である。彼の親族となる直接の後継者がいないことが、長らくアヴェルレスの火種となっていた。
ブラッドヴァンを継ぐべき正統な若頭がいないのも、そもそもの原因は彼にある。
次期ドンの座を巡ってマフィア同士で争った三十年前、同じく後継者の座を狙っていたオドレイヤ一族の名だたる親族たちを相手取り、己の地位を確定させるため、なんと彼は女子供まで一人残さず“オドレイヤの姓を有する人間”を惨殺してしまったのだ。
身内殺しのダンス・オドレイヤ。
その地位にある彼の覚悟と残虐性を痛感させられるエピソードも、今なお彼を恐れる人間が多い理由の一つだ。
結果として、五十代に至るまで未婚のオドレイヤには血のつながった人間が一人も残っていない。
次期頭首として期待されていた若きフレッシュマンが離反してからは、ブラッドヴァンの後継者争いが下部組織を巻き込んで再燃しており、アヴェルレスに混乱の火蓋を切って落とさんと待ち構えていた。
だからだろう。いつしか、こんな暗黙の了解がすべての構成員によって共有されていた。
――オドレイヤの首を取った者が次期ドンの座を得られる、と。
単純明快にして、しかし無理難題。
誰もが納得せざるを得ない唯一の絶対条件だ。
「今宵のパーティーのクライマックスといこう!」
大多数の人間にとっての緊張と不安の時も過ぎ、茶番に過ぎないパーティーがようやく終わりに近づいて、すっかり満足げなオドレイヤが列席者全員に向かって語りかけた。
「ダンス。そう、ダンスだ! さぁ、私のために躍り狂ってくれたまえ!」
そして彼、その名もダンス・オドレイヤは壇上で歌を口ずさんだ。
ただの歌ではない。魔法的な意味合いを持つ不思議な歌である。
この日オドレイヤ邸に足を踏み込んだ人間全員に対して、パーティへの参加状の代わりと称し、とある術式を施していたのだ。それは彼の詠唱によって、その場で踊りださずにはいられなくなるという、余興にも似た操作系の高度魔法。
「決められた音楽が鳴ったら愉快に踊れ」と、そんな条件付けによって飼い犬をしつけるのと同じ感覚だ。オドレイヤの支配欲求は、年齢を重ねるごとに歪みつつ強化されていた。
「なっはっは! まるでマリオネットだ! そのまま壊れてしまったって――んん?」
操り人形のように踊る群集を高みから見物して、上機嫌で悦に入っていたところ、会場の片隅に違和感を発見したオドレイヤ。
興を削がれたと不機嫌になりつつも、かろうじて体裁を保って優雅に壇上を飛び降りると、カツカツと甲高い足音を響かせて“そこ”を目指した。
群衆は恐怖の主催者のために左右へ別れて道を譲り、目的地までは一直線でたどり着く。
「ご老人、なぜ踊らない?」
オドレイヤが覚えた違和感の正体は、とある老人だ。
これも下部組織の幹部の一人だろう。
殺気をしのばせるオドレイヤの貫禄に恐れおののいた老人は上ずった声で答える。喉を襲う戦慄が、年老いた彼の声を高めたのだ。
「お、踊らないつもりなどございません。しかしながら、すでに老齢の私は、見ての通り足腰が弱く、体が言うことを利かないのです……!」
かさかさに乾ききった両手で杖を支えて、やっと立っていられるという風貌の男性。反抗の意志ゆえにではなく、ただ老いがゆえに、彼は一人だけ踊ることができなかったのだ。
もしかすると、事前にオドレイヤの施した“踊りを強制するための術式”が弱かったのかもしれない。自分よりもわずかに老齢の紳士に対して、無意識のうちに術式の効力を加減したのかもしれない。
「私への忠義より老体が大事か? 私の魔法より、自身の老化した身体に従うと?」
「め、めっそうも――」
「ございません、か! そんな言葉に意味はない!」
――踊らずんば、死を!
瞬間、パーティ会場に恐怖の色を帯びた驚愕が広がった。
射殺さんとする鋭い目つきのオドレイヤににらまれた老人の体が、まるで爆弾の直撃を体の内側に受けたかのように、人としての原形をとどめず粉々に弾けとんだのだ。
ここで、ブラッドヴァンの構成員に伝わる掟を紹介しよう。
胸の鼓動が三つ以上鳴る時間、至近距離でオドレイヤと目を合わせてはならないというものだ。
そのわずかな時間さえあれば、高位魔法能力者であるオドレイヤは相手の命を掌握することができるのである。周囲に漂う魔力の流れを意図的に操って、視線を合わせている目を通して相手の体内に集めた魔力を膨張させると、その体を内側から爆散させる。
至近距離でしか効力を発揮しない攻撃魔法だが、至近距離なら殺したい相手と目を合わせるだけでいい。これを食らえば普通の人間はひとたまりもなく死んでしまうのだ。
人呼んで処刑魔法。
オドレイヤが駆使するいくつかの魔法のうちの一つだ。
「さて、一つ確認しておこうか」
壇上に戻ったオドレイヤは全体をねめ回すように目線を動かした。
会場の誰もが目を合わせることを恐れながら、だからこそ顔をそむけることができない。
なにしろ忠誠を誓わなければ、裏切り者とみなされて同じように殺されてしまうのだ。
そばだてられた無数の耳に、帝王の威厳をはらませたオドレイヤの声が響いた。
「ここアヴェルレスは私の天下だ! 私こそ生ける神であり、私こそ生ける法だ! 富と権力と暴力の三重奏、ダンス・オドレイヤとは私のことである!」
高らかな反響は沸きあがった盛大な歓声に打ち消される。もはやオドレイヤの発言に反論するものは誰一人として存在しなかった。
……少なくとも、パーティ会場の内側には。




