7:即日振込希望
空中の水しぶきすらも静止した、完全なフリーズ空間。
ネットワークの通信遅延を示す『Ping値』が限界値の9999msに達した水没都市・新宿で、ダイバー『V』は嘲笑っていた。
特務機関に属さず、外部ツールを用いて空間自体を改ざんする悪意あるハッカーであるVにとって、このフリーズ空間は己の独壇場だった。
「哀れだな、運営の犬共。世界の時間を止められれば、手も足も出まい」
ノイズ交じりの合成音声で呟き、Vは奪い取ったばかりの『歌舞伎夜叉』のレアドロップ――百万円相当の概念データを弄ぶ。
そのまま悠々と空間の亀裂からログアウトして逃亡しようとした、その時だった。
カクッ……、カクッ……。
静止した世界の中で、不自然なコマ送りで動く影があった。
金銭的脅威を検知し、エゴ(生存本能)の攻撃性が致死レベルの999%に跳ね上がった彼女の全身からは、漆黒の殺意が立ち上っていた。
「な……ぜ動ける!? サーバーの時間は強制停止させたはずだ!」
Vが驚愕の声を上げる。
小春は、画面の端でガクガクと震える自分の腕を無理やり前に押し出しながら、地獄の底から響くような声で吐き捨てた。
「あんたが止めたのは『サーバー側』の処理でしょ。私の脳波……つまり『クライアント側』の入力デバイスまでは止まってないのよ!」
「クライアント側だと……!? だが、同期が取れなければアバターは動かないはず――」
「ラグいならラグいなりに、十秒先の未来を予測して『先行入力』しとけば、後から判定が追いついてくるのよ!」
小春はクソゲーで培った、入力遅延を先読みして体を動かす異常な技術『先行入力』をフル稼働させていた。
「常時回線落ち寸前の『荒野のガンマン・オンライン』で鍛えた私に、通信ラグで勝てると思うな! 泥棒猫!!」
その異常な執念に、Vは舌打ちをした。
「たかがバグ利用のプレイヤーが……調子に乗るな!」
Vが外部ツール(チートコマンド)を展開する。
小春の目の前に、触れた瞬間に座標そのものを消去する『即死判定のキューブ』が複数出現した。
静止した空間の中で、王道で正統派な戦闘スタイルを持つエリート隊員の夏目勇太は、声も出せないまま絶望に目を見開いていた。
正規のセオリーでは絶対に回避不可能な、理不尽なハッキング攻撃だ。
しかし、小春は回避行動をとらなかった。
彼女は即死キューブに向かって直進しながら、視界のインターフェースで異常な速度のスパム入力を開始した。
わざと通信パケットを詰まらせるような、無意味なコマンドの連打。
直後、小春のアバターが即死キューブに触れた――瞬間。
ビターンッ!!
小春の体が、まるでゴム紐のように強烈な勢いで後方へ引き戻されたかと思うと、次の瞬間にはキューブの『向こう側』へと瞬間移動していた。
「なっ……キューブをすり抜けた!? いや、違う。座標が飛んだのか!?」
「オンラインゲームあるある、『同期ズレ(ラバーバンド現象)』よ。クライアントとサーバーの座標位置がズレた瞬間に判定を押し付ければ、壁抜けなんて余裕なの!」
純粋なクソゲーマーによる仕様の悪用が、チーターの絶対的な攻撃を完全にすり抜けた瞬間だった。
「ひったくりは警察呼ぶわよ! 私の百万返しなさい!!」
完全に予想外のラグワープで懐に潜り込まれたVに対し、小春は一切のスタイリッシュさがない、ただの「泥棒へのタックル」を敢行した。
小春はそのまま、アサルトライフルと高周波ブレードに変形する標準武器【V-ARC】を銃身のままVのアバターへと強引にめり込ませた。
異界のバグを書き換えるアンチウイルス・データが至近距離で暴発し、Vの腕からレアドロップがポロリとこぼれ落ちる。
「チッ……!」
ダメージを受け、激しいノイズに包まれたVは、小春の異常なプレイヤースキルと金への執着に驚愕しつつも、どこか楽しげに口角を上げた。
「……面白いバグだ。また会おう、強欲なイレギュラー」
Vはそう言い残し、空間の亀裂へと溶けるように消え去った。
◇◆◇
Vが消滅した瞬間、限界に達していたPing値が正常に戻り、水没した新宿の時間が再び動き出した。
「うおおおおッ!? な、何が起きたんですか師匠!?」
「おおい!! 無事か!?」
中二病全開の新人・桐生と夏目が慌てて駆け寄ってくる。
そんな二人をよそに、小春は奪い返したドロップアイテムを愛おしそうに頬ずりしていた。
「よしよし、私の百万円。危なく時給ゼロのタダ働きになるところだったわ……ひっひっひっ」
一方、場面は変わって現実世界の第二センター【春日部・地下神殿バッファ】の管制室。
地下水路に偽装された荘厳な地下空間に並ぶモニターの前で、数人の正規職員たちが深刻な顔を突き合わせていた。
「……今のは、ただの空間バグや処理落ちじゃないね」
一足先に別現場の任務を達成し、ゲーミングチェアの上であぐらをかく先輩隊員、猫山愛が珍しくキャンディを噛み砕いて険しい声を出した。
「ログを解析したけど、外部から意図的に『BORDERLINE(境界)』のコードを崩壊させようとするクラッカーの痕跡があった。だってさ……。あのチーター、ただの愉快犯じゃないよ」
「最悪ですね。神骸の討伐だけでも手一杯だというのに、外部からのハッキング集団まで現れるとは……」
常にタブレット端末を持ち歩く経理・予算管理担当のチーフ、財前玲華が眉間のシワをさらに深くしてため息をついた。
世界を揺るがすかもしれない、新たな脅威の登場。
管制室はかつてないほどの重苦しい緊張感に包まれていた。
ピコンッ。
そんなシリアスな空気の中、財前のタブレットに一件の通知が届いた。
送信元は『黒瀬小春』。
「……?」
財前が怪訝な顔でメッセージを開くと、そこにはでかでかと請求書のPDFが添付されていた。
『特殊個体討伐報酬:百万』
『桐生クン(囮)生存ボーナス:五十万』
『悪質チーター撃退・防犯手当特別上乗せ:五十万』
『合計請求額:二百万円 ※即日振込希望』
「あの《《下衆バカ》》、どさくさに紛れてまたふざけた請求を……!!」
世界の危機よりも明日の予算を心配する経理チーフの怒号が、地下神殿に空しく響き渡った。




