35:休日の金策と無料リソースのしゃぶり尽くし
つくば本庁での理不尽な出張命令から一夜明けた、土曜日の朝。
第一センターのエントランスロビーで、小春はスマホの銀行アプリの画面を恨めしそうに睨みつけていた。
そこに表示されている残酷な数字は『一四二〇円』。
昨日の弁当泥棒の対価として押し付けられた千葉・九十九里浜への出張は、あろうことか「交通費自腹」という最悪の条件付きだった。
ここからつくばエクスプレスに乗り、秋葉原を経由して総武線を延々と乗り継ぎ、房総半島の奥深くにある千葉の海まで向かうとなれば、片道だけでも二千円近く飛んでいく。
往復の交通費すら捻出できず、施設から一歩も動けない完全な詰み(スタック)状態だ。
「はぁ……。まじで最悪。最近、野宿とサビ残ばっかりで肌が荒れまくってるし。私も、たまには高級なスキンケアくらいしたいわよ……」
小春が手鏡を見ながら、カサカサになった自分の頬を突いてギリッと唇を噛み締めていると、ロビーの自動ドアが開き、私服姿の男たちが優雅に通り過ぎていった。
夏目のエリート同期だ。
手には最新のVRゴルフ用の、重厚な専用スイングデバイスが収められたケースが握られている。
「いやあ、休日はやっぱり本庁舎内の会員制スパとVRゴルフに限るな! 非正規どもが底辺で這いずり回ってる間に、俺たちエリートはこうして優雅に汗を流す。これが国家機関の正社員の特権ってやつだ」
勝ち誇ったような同期の声が、小春の鼓膜を物理的に逆撫でした。
小春に向かってわざと聞こえるように。
まあ、彼らや、夏目。財前といった「特務次元保安局の正社員」たちの間では小春はやっかいなテスター(業務委託)という噂が広まっているのも確かだ。
彼女の活躍の恩恵もあるが、それ以上に膨大な迷惑を掛けられているのだからある意味自業自得ではあると言える。
(……あいつら。私をタダ働きさせた税金で、ふんぞり返ってゴルフですって……?)
小春の眼球の裏で、ドス黒い炎がボワッと燃え上がった。
千葉への交通費の捻出。そして、ふんぞり返るエリートたちの血税(無料リソース)を限界までむしり取ってやるという、底辺フリーターの生存本能の覚醒だった。
「シオンちゃん、桐生くん! ちょっとツラ貸しなさい。本庁の福利厚生を、限界まで骨の髄までしゃぶり尽くしにいくわよ」
小春は弟子二人を引き連れ、エントランスの隅に設置された巨大な自販機のような機械の前へと陣取った。
それは来客用の『完全自動アメニティ・試食機』だ。
高級な美容液のサンプルボトルや、一個で一食分の栄養が摂れる高価なゼリーが並んでいる。
ただし、機械の正面には無慈悲な文字で『最新AI顔認証により、お一人様一回まで無料』と書かれていた。
「一人一回まで……。つまり、あのカメラに『別の人間』だと誤認させれば、何度でも無料でもらえるってことよね」
小春は不敵に呟くと、前髪をグシャグシャに下ろして両目を隠し、下アゴを極端に前に突き出し、両頬を思い切り横に引っ張った。
まるで福笑いの失敗作のような、極めてアナログな『変顔』を完成させる。
今どきの小学生でも思いつくか分からない、なんとも呆れるくらい低次元な抗い。
『ピピッ。新規来訪者を認証しました。ようこそ、第一センターへ』
機械のAIが、見事に小春の変顔を「先ほどとは別の人間」として誤認した。ガコン、という音と共に、高価な美容液サンプルと栄養ゼリーが転がり出てくる。
「よっしゃあ! 新規のお客さんとして認識されたわ! シオンちゃん、桐生くん! あんたたちも顔を歪めなさい!」
「ええっ!? し、師匠、いくらなんでもこれは……」
「つべこべ言わない! これはプロゲーマーに必須の、顔面筋の精密なコントロールよ!」
「なるほど……! これも腹筋と表情筋を極限まで鍛え上げる、呼吸法というわけですね!」
シオンが涙目で寄り目をし、桐生が武術の呼吸と称して白目を剥きながら口をへの字に曲げる。
三人が凄まじい変顔を繰り返しながら、無料コーナーの前を何十周もグルグルと無限ループする赤面必須な地獄絵図が、つくば本庁の美しいロビーに展開された。
「……お前ら。国家機関の最新鋭AI顔認証を、福笑いみたいにアナログにバグらせて備品を窃盗するな!!」
それから数時間後。VRゴルフから帰ってきた夏目が、両手いっぱいに美容液とゼリーの山を抱えた小春たちを発見し、胃を強く押さえながら絶叫した。
「窃盗じゃないわよ。お試しサンプルをちょっと多めにもらっただけじゃない。おかげで肌もツヤツヤよ」
何十周も回って高級美容液を塗りたくった小春は、二十二歳の潤いを取り戻した頬を叩きながら、夏目の横にいた同期のエリートをねっとりとした目で見据えた。
「あ、そうだエリートさん。あんた、私たちみたいな哀れな非正規に同情してるんでしょ? だったら、千葉までの交通費、五千円くらいカンパしてくれない?」
「はぁ!? ふざけるな。非正規に金を貸すなど、本庁の規約違反だ」
同期が鼻で笑って一蹴する。だが、小春の顔から一切の笑みが消えた。
「へえ、規約違反ね。じゃあさ、昨日の昼、九条が弁当のことでキレてた時、あんた後ろでこっそり施設予約の画面開いてたでしょ? 業務時間中のVRゴルフの予約履歴、私バッチリ見させてもらったわよ。本庁の監査官に、この予約時刻とあんたのID、チクってもいいのよ?」
「なっ……!?」
「業務時間中のサボり。これ、エリートの査定に響くんじゃないの?」
小春の口から飛び出したのは、もはやゲームの屁理屈ですらない、ただの生々しいリアルな恐喝だった。
同期の男の顔から、みるみるうちに血の気が引いていく。
「わ、分かった……! 貸す、貸すから黙ってろ!」
同期は震える手で財布を開き、五千円札を小春に握り取らされた。
「よっしゃあ! これで千葉の海まで行けるわ! 交通費クリアよぉぉぉ!」
「……お前、エリート正社員から小遣いをカツアゲする非正規がどこにいるんだよ……」
夏目が頭を抱えて崩れ落ちる中、小春は大量の栄養ゼリーと他人の金(五千円)を握りしめ、意気揚々とつくばエクスプレスの改札へと向かっていった。
◇◆◇
つくばエクスプレスで秋葉原へ出て、そこから総武線の固い座席に揺られ、果てしなく長い時間をかけて房総半島の奥深くへと進む。
疲労困憊のフリーターたちがようやくたどり着いたのは、千葉県・九十九里浜の沿岸部にポツンと設営された、プレハブ小屋のような臨時ダイブポイントだった。
「なんで本部の施設じゃないんだよ……」
夏目が潮風でベタベタになったスーツの襟を引っ張りながらぼやく。
鹿島にある第三センターの本部が、昨日からバグの逆流でパンク寸前になっており、
彼らのような外部からの応援部隊は、こうした劣悪な臨時施設に回される羽目になったのだ。
エリートは綺麗な本庁舎でゴルフを楽しみ、非正規は潮風のプレハブ小屋。格差社会ここに極まれりである。
重い足取りで粗末なカプセルに入り、千葉防衛エリアへとダイブした小春たちが目を開けた瞬間、そこには信じられない光景が広がっていた。
「うわあああ!? な、何だここは!?」
夏目が叫ぶ。視界の上下が完全に狂っていた。
本来あるべき青い海のグラフィックが頭上の空に張り付き、砂浜のポリゴンが断崖絶壁のように垂直にそびえ立っている。
さらに、その重力法則を完全に無視した異常な空間の中で、ヤンキーのような奇抜なタトゥーを入れたダイバーたちが、サーフボード型のアバターに乗って空の海を飛び回っていたのだ。
「ひゃっはー! ここは俺たち『九十九里ローカル』のシマだぜ! つくばの坊ちゃんどもはすっこんでな!」
「ちょっと! 天地が逆転してるし、サーフボードで空飛んでるし、重力の計算式どうなってんのよここぉぉぉ!!」
小春の絶叫が、最高にご当地バグの効いたクソゲー空間(千葉の海)に響き渡って――。




