36:無限落下加速
「ちょっと! 天地が逆転してるし、サーフボードで空飛んでるし、重力の計算式どうなってんのよここぉぉぉ!!」
小春の絶叫が、千葉県・九十九里浜の異常なバグ空間に木霊した。
本来なら足元にあるべき青い海のグラフィックが、頭上の空のテクスチャにべったりと張り付いて不気味に波打っている。そして砂浜のポリゴンは、まるで断崖絶壁のように九十度の垂直な壁となって天へとそびえ立っていた。
空を飛ぶべきカモメのデータは座標軸が狂って海中に沈んだまま羽ばたき続け、代わりに魚のテクスチャが空からパラパラと降ってくるという、この世の終わりとしか思えない地獄のようなグリッチ空間だ。
だが、そんな天地逆転の異常空間において、最高に場違いな歓声を上げて空(海)を飛び回っている者たちがいた。
「ひゃっはー! きたきたきたあ! 最高だぜこの波!!」
奇抜なタトゥーのペイントをアバターに施した、ヤンキー気質の不良ダイバーたちだ。
彼らはサーフボード型の移動用アバターに乗り、反転した重力によって生じている『不自然に隆起したバグの波』に器用に乗って、空中の海を滑走していた。
「おいおい、つくばの坊ちゃんどもが迷い込んできたぜ。ここは俺たち『九十九里ローカル』のシマだ! お前らみてえな真面目ちゃんに、この波には乗れねえだろ!」
頭上から煽り散らしてくるドロップアウト組のテスターたちを見上げ、夏目が胃の辺りを押さえて呻いた。
「なんだあいつらは……。鹿島(第三センター)の修験者たちとは全く違う。厳しい修行とブラックな労働環境から逃げ出し、この辺境のバグマップでサボって遊んでいる不良テスターか……!」
真面目なエリート隊員である夏目にとって、勤務中にバグを利用して波乗りを楽しんでいる彼らの存在は、もはや理解の範疇を超えていた。
夏目が顔をしかめる横で、小春の眼球は極めて冷ややかにヤンキーたちを見下していた。
「……くだらない。ただ発生した地形のバグに、受動的に流されて遊んでるだけじゃない。能動的に仕様の穴を突けない素人が、ゲーマーぶってイキってんじゃないわよ」
プロの? クソゲーマーとしての純度百%のプライド。
そして何より、小春の脳内には燃えたぎるような時給への執念が渦巻いていた。
「他人の金(五千円)をカツアゲしてこんな辺境まで来て、成果ゼロのタダ働きで帰れるわけないでしょ! 絶対にボスを秒殺して、時給五倍の出張手当を分捕るわよ!」
小春が懐の自作デバイスを構えて歩き出そうとした瞬間、空からヤンキーたちがサーフボードごと降り立ち、徒党を組んで立ち塞がった。
「おいコラ姉ちゃん。ここは俺たちのシマだって言ってんのが聞こえねえのか? 勝手に狩場を荒ら――」
ヤンキーの威嚇を完全にBGMとしてミュートし、小春は垂直にそびえ立つ砂浜と、頭上の海とが交わる『ポリゴンの継ぎ目(境界線)』に向かって一直線に突進した。
そして、壁の隙間めがけて、懐に隠し持った自作デバイスの物理キーを叩き割るような勢いで『しゃがむ』と『立ち上がる』の入力を交互に連打し始めた。
ガガガガガガガガッ!!!
小春のアバターが、人間の関節構造を完全に無視したスパム入力により、不気味な痙攣を起こしながら壁のテクスチャの奥へと強引にめり込んでいく。
物理エンジンが異常を検知して激しく反発し、不快なグリッチ音が周囲に撒き散らされる。
「なっ、なんだあのキモい動きは!?」
ヤンキーたちがドン引きして後ずさる中、小春の身体の半分が、砂浜と海の境界線に完全に埋まった。
「おい小春、何をしている!? また自滅する気か!」
夏目の叫びに、小春は痙攣しながら得意げに解説した。
「上向きの重力と下向きの重力が衝突する座標にめり込むのよ! 上下の重力判定の間に挟まることで、システムが私を『空中に落下中』だと延々と誤認し続ける。これでマイナス方向への『落下速度』だけが、上限なく無限に蓄積されていくわ!」
「落下速度の、無限蓄積だと……!?」
それは、古いアクションゲームのRTAなどでよく用いられる『無限落下加速(後ろ幅跳びバグ)』の応用だった。
数秒間、ガタガタと激しく痙攣してマイナスの慣性を極限まで溜め込んだ小春は、ニヤリと笑って一ミリだけ座標を横にズラし、壁のめり込みを解除した。
ドォォォォンッ!!!
蓄積された無限の速度データが一気に解放された。
小春のアバターは、まるで弾道ミサイルのような超絶スピードで射出され、ヤンキーたちをごぼう抜きにすると、波を蹴散らして空の彼方(海の奥)へと凄まじい勢いでぶっ飛んでいった。
「す、すげえええええ!!」
あまりにも異次元すぎるバグの波乗りに、ヤンキーたちの口がアホのように開いた。
「なんだあのスピードは!? 波に流されるんじゃねえ、バグそのものを自分で作って乗りこなしてやがる!!」
「姉御ぉぉ! 俺たちを舎弟にしてくれぇぇ!!」
能動的なハメ技の圧倒的な格の違いを見せつけられ、不良テスターたちが一瞬にして小春を崇拝し、砂浜の壁に向かって土下座の姿勢を取った。
「なっ、新参のチンピラどもめ! 師匠への忠誠心なら負けん、一番弟子の座は絶対に譲らんぞ!」
桐生が謎の対抗心を燃やしてヤンキーたちに凄む。
「あぁ!? 新入りはテメェだろ! 俺たちの方が姉御の『波乗り』の凄さを深く理解してんだよ!」
「ふん、素人が! あれは波乗りなどではない、武術の極意だ!」
痛い奴らの不毛な派閥争いが勃発し、シオンがその地獄のような光景を見て深いため息をついた。
「……うわぁ、痛い舎弟が増えちゃった。師匠のパーティー、どんどん民度が下がってますね……」
ロケットダッシュの慣性が切れ、ノロノロと戻ってきた小春は、土下座するヤンキーたちを見て高笑いした。
「ふははは! いいわ、時給五倍の働き蜂として、あんたたち全員、私のハメ技のデコイ(肉の壁)として使ってあげる!」
地元勢を舎弟にし、時給のための手駒を手に入れて有頂天になる強欲フリーター。 だが、その両津勘吉のような俗物全開の振る舞いをシステムが許すはずもなかった。
『――警告。対象エリアに高位の神骸反応を検知』
突然、天地逆転した空間全体が激しく揺れ、頭上の海面がドス黒く濁り始めた。
現れたのは、巨大なサメと、高層ビルすら軽々と飲み込むような津波のテクスチャがグチャグチャに融合した、画面全体を覆い尽くすほどの理不尽な巨大エフェクトの塊だった。
「来たわね! 行け、ヤンキーども! あんたたちが肉の壁になってヘイトを稼いでる間に、私が後ろから――」
小春がヤンキーを囮にして安全地帯から殴ろうとした、その瞬間だった。
天地反転バグのせいで海と空のテクスチャが完全に重なり合ってしまっているため、巨大な津波のボスの『攻撃の当たり判定』が、視界の奥から手前まで、三六〇度すべてを覆い尽くすようにバグって広がってしまったのだ。
「は!? ちょっと待って! 回避スペース(安置)が物理的に存在しないんだけどぉぉ!?」
肉の壁もクソもない。
逃げ場ゼロの理不尽なバグ津波が、有頂天になっていた小春と舎弟たち全員をまとめて飲み込もうと迫り来る、絶体絶命のクリフハンガーで――。




