34:理論値のカロリー
「屁理屈はよしてください。そのステーキ重は、本庁のスーパーコンピュータが、私の脳の消費電力からミリグラム単位で逆算した一万二千キロジュールです」
つくば本庁の社員食堂。
常陸牛特製ステーキ重の重厚な漆器の容器を、我が子を守るかのようにガッチリと胸に抱え込む小春に対し、第一センターのトップエースである九条は、機械のように感情を排した声で理詰めを開始した。
「それが一食分欠けるだけで、午後の防衛ラインにおける私の生存確率は四・七%低下し、構築した理論値が完全に崩壊する。返さないのであれば、規約違反――国家機密物資の強奪罪として、直ちに警備AIに通報しますが」
九条は手元の透過タブレットを操作し、食堂のセキュリティシステムへアクセスしようとする。
一ミリの狂いもないエリートの完璧な論理と正論による追い詰め。
普通であれば、ここで観念して弁当を返すか、警備AIに連行されるかの二択しかない。 しかし、追い詰められたクソゲーマーの脳(生存本能)は違った。
昨日、この男に手柄を完全に横取り(キルパク)されてタダ働きをさせられ、挙げ句の果てに硬いパイプ椅子で野宿までさせられたのだ。その分の宿泊費と残業代の現物支給であるこの常陸牛を、やすやすと手放すわけにはいかない。
常人なら絶対に選ばない最悪の選択肢――『システムログの逆利用』による反撃を、小春のゲーマー脳が弾き出した。
「盗んだ? 人聞きの悪いこと言わないでよ!」
小春は抱え込んでいたステーキ重を突き出し、九条の銀縁眼鏡の鼻先で堂々と言い放った。
「さっきあんた、一フレームの重量減少って言ったわよね? システム上、網膜認証が通ってからフタが開くまでのその一フレームの隙間は、誰の所有物でもない『所有者未定義のエラー状態』だったはずよ! つまりこの一万二千キロジュールはあなたのカロリーじゃなくて、システム上に浮いた『未定義のエラーオブジェクト』よ! それを私が回収したんだから、正当なデバッグ作業でしょ!」
「……は?」
「そっちの監査官が昨日『エラーを直せ』って言ったんだから、この宙に浮いたバグ容器を私が隔離して調査するのは、特務機関から委託された当然の承認プロセスよ!」
小春の口から飛び出したのは、もはや詐欺という枠すら飛び越えた宇宙規模の屁理屈だった。あまりにもくだらない。変なところでやたら頭の回転が速くなる。
現実の弁当泥棒を、システムの処理ラグを盾にデバッグ作業だと言い張るなど、狂気の沙汰である。
だが、この言葉が、本庁トップエースの脳に致命的なバグを引き起こした。
「な……、認証のタイムラグによる、所有権の空白……? 待て、スーパーコンピュータのログでは確かに、あの一フレームだけ配膳先の所有者IDが定義されていない……? つまりこれは私の弁当ではなく、システムの例外エラー……?」
九条の目が、あり得ないほどの速度で白黒と明滅を始めた。
彼のようなガチガチの理論派エリートは、「与えられたルール」の中で最適解を出すのは世界一得意だ。
そして何より、彼らは『スーパーコンピュータのログ(計算結果)』を絶対の真理として信仰している。
だからこそ、「現実の弁当」と「所有者が空白になっているログの事実」という、大前提の矛盾を突きつけられると、脳の計算リソースが完全にパンクするのだ。
「システム管理上、そのエラーオブジェクトは調理班の管轄、いや、情報監査班の……しかし肉の匂いは現実で……待て、現実と仮想の境界線が……?」
九条の口からブツブツと処理落ちしたような呟きが漏れ、銀縁眼鏡がズレる。
未知の例外エラーを処理しきれず、エリートの脳が完全に無限ループ(思考スタック)に陥り、その場にカクカクと不自然な挙動を残してフリーズした。
その光景を少し離れた席から見ていた夏目が、胃薬のアルミホイルを噛みちぎりながら、隣で呆然としているつくばの同期に向かって、達観した声で呟いた。
「……おい。あいつの屁理屈に正面から付き合うな。ただの屁理屈と言い訳に過ぎないんだから……」
「い、今よ! ターゲットのNPCがフリーズしたわ!」
九条が目を白黒させて硬直している一フレームの隙を、小春は絶対に見逃さなかった。
「シオンちゃん! 桐生くん! 援護しなさい!」
「了解です! オブジェクト大量配置の刑ですね!」
「承知! これぞ古流・足止めの陣!」
白湯だけで飢えを凌いでいた桐生と、本庁特製の成長支援ランチを完食してカロリー満タンのシオンが即座に動いた。
二人は給湯コーナーに大量に積まれていた無料の「お茶用の湯呑み」を数十個抱え込むと、フリーズしている九条の足元の周囲に、円を描くように高速で並べて敷き詰めていった。
その手際は無駄がなく、プロゲーマーの精密なエイムと武術の無駄のない歩法が、こんな下らない嫌がらせのために遺憾なく発揮されている。
古いRPGでよくある、NPCの進行ルートにアイテムを置いて身動きを封じる『スタック(通行妨害)』の現実応用だ。九条の脳が再起動した時、彼の足元は数十個の湯呑みによって完璧なバリケードと化していた。
「なっ……足元に無数の障害物判定が……。進行ルートが再計算できない……!」
「あばよ、理論値エリート!」
「はあ……もう恥ずかしい……」
と、夏目はその光景を見て、うなだれる。
当然他のつくばの職員たちも「ドン引き」でその光景を見ているわけだ。
足元を湯呑みでスタックされ、動けなくなった九条を置き去りにし、小春はステーキ重を抱えたまま、食堂の出口へと向かった。
無駄な歩行モーションを一切省略した、すり足での『強制スクロール移動(逃走)』である。
肉だ。一万二千キロジュールの肉が手に入る。完全な泥棒(デバッグ回収)が成立し、安全地帯へと逃げ切れると思ったその時だった。
ピコン、と不気味な電子音が鳴った。食堂の天井に設置された監視カメラの赤いランプが一斉に激しく点滅し、スピーカーから、感情の抜け落ちた事務的な合成音声が響き渡った。
『――そこまでです、春日部の泥棒猫』
つくばの統括監査官の声だった。
「黒瀬テスター。その『エラー容器(弁当)』の回収を、正当なデバッグ業務だと主張するのですね?」
「そ、そうよ! これは労働の成果よ!」
『いいでしょう。ならば、あなたのその熱心な主張を公式に認め、つくば本庁の権限により、あなたに新たな【出張デバッグ業務】を命令します』
「……え?」
小春のデバイスが震え、最悪の通知ポップアップが表示された。
『新規業務命令:第三センター(鹿島)管轄・千葉防衛エリア。時給五倍(ただし成果ゼロなら全額自腹移動)』
『つくばのスーパーコンピュータが自動修正しきれなかったバグの余波が、千葉の九十九里浜の空間座標をグチャグチャに変形させています。あなたは弁当を回収するほどデバッグに熱心なようですから、その泥臭い力技で、千葉のバグも処理してきなさい』
「はあぁぁ!? ちょっと、時給五倍でも交通費自腹ってどういうことよ!」
画面に非情に表示されたテキストを前に、小春の顔からすべての血の気が引いた。
「どうやって千葉の海まで自腹で行けっていうのよ! ここからつくばエクスプレス乗って秋葉原経由して、さらに総武線とか乗り継いで房総半島まで行く交通費と時間がどれだけ最悪か分かってんの!?」
小春が絶叫するが、スピーカーからの音声はすでに切れていた。
手に入れたステーキ重のカロリーと引き換えに、再び時給五倍という名の『交通費自腹の片道切符の罠』に掛けられ、次なるご当地バグマップ「千葉・九十九里浜編」へと強制左遷される。
因果応報の泥沼に引きずり込まれた強欲フリーターの生々しい悲鳴が、つくばの美しい論理空間に虚しく響き渡って――。




