33:あゝ惨め
コンクリートの冷気と、合成皮革の無機質な感触が、背骨の節々に容赦なく突き刺さっていた。
茨城県つくば市・第一センターの本庁エントランスロビー。
小春は、待合室の隅に設置された硬い三人掛けの待合ベンチの上で、文字通り丸まったエビのようになって朝を迎えた。
越谷への帰りの電車賃の計算すら放棄して、時給五倍の契約書にサインして突撃した結果がこれだ。
前日の討伐報酬は無慈悲な零円査定、おまけに交通費は自腹。
一文無しとなった春日部班の非正規労働者たちは、国家の最高頭脳が集うハイテク施設の片隅で、野宿同然の夜を明かすハメになっていた。
「……ねえ夏目さん。女子中学生のシオンちゃんが、未成年保護の観点から女性用の一級仮眠室を割り振られたのは、百歩譲って納得するわよ? でもさ、なんで同じ女性である私の扱いが、このロビーのベンチで浮浪者一歩手前の野宿なわけ? メイクも落とせてないし、肌が完全にガビガビなんだけど。これ絶対、労基に駆け込んだら一発でアウトの案件よね?」
ベンチからパキパキと嫌な音を立てて身体を起こした小春は、寝癖のついたパーカーのフードを被り直し、懐の空っぽの財布を睨みつけながら呪詛を吐いた。
「俺に言うな……。春日部の予算を天井まで食い尽くしたお前のせいで、引率である俺の今月の残業代まで一律カットされてるんだぞ。お前たちに朝飯を奢ってやる小銭すら、今の俺の口座には残っていない」
そんな夏目は、見るからにさっぱりとした顔をしていた。
彼は正規雇用の特務機関正社員という身分に約束された福利厚生により、本庁舎内の快適なカプセルホテル型仮眠室で温かいシャワーを浴び、制服のプレスまで済ませていたのだ。
「あ、夏目じゃないか。お前も災難だな」
そこへ、つくば本庁所属のIDバッジを誇らしげに胸に輝かせた長身の男が、コーヒーカップを手に歩み寄ってきた。
夏目の特務機関・新人研修時代の同期であり、現在はトップエースである九条の専属サポートチームを率いるエリート正社員だ。
「こんな、どこの馬の骨ともわからない野良犬みたいな非正規どもの手綱を握らされて、地方の二等センターから左遷されてくるなんてさ。どうだ? もしお前がまだ出世を諦めていないなら、俺が本庁の統括監査官に口利きをして、つくばのバックアップ班に引き抜いてやってもいいんだぞ?」
同期の男は、ベンチの小春たちをゴミを見るような目で見つめながら、同情の皮を被った完璧なマウントを仕掛けてきた。
夏目は無意識にスーツの上から胃の辺りを強く押さえ、顔の筋肉をひきつらせて苦笑いを返すしかなかった。
その横では、同じくロビーの床でひもじい夜を明かした桐生が、「なるほど……、これもまた、我が心身を鍛えるための断食行……」と、虚空を見つめて現実逃避の呟きを漏らしている。
◇◆◇
午前十一時三十分。つくば第一センターが誇る全面ガラス張りの広大な社員食堂は、最先端の自動化システムの恩恵を一身に受けていた。
だが、その華やかな空間の最果て、ウォーターサーバーが設置された給湯コーナーの隅で、春日部班の底辺非正規たちは悲惨な境地――いや、明確な『格差』を突きつけられていた。
「おいしいです……。本庁特製の成長支援ランチ、ハンバーグが口の中でとろけます……っ。特務機関の未成年保護規定、最高ですね……!」
星野シオンは、テーブルに並べられた豪勢な無料ランチを頬張りながら、感動の涙を浮かべていた。
「ちょっと! なんであんただけそんな豪華なご飯食べてんのよ!」
胃袋が自身の内臓を消化しそうなほどの空腹感に襲われ、紙コップの白湯をすすっていた小春が、血走った目でテーブルに身を乗り出す。
「食堂のおばちゃんが、『十八歳以下のテスターには、本庁の福利厚生で専用の成長支援ランチが無料で支給される』って言ってました。大人である師匠たちは有料だそうです。ま、当然ですね」
もぐもぐとハンバーグを咀嚼するシオンの横で、十九歳(成人扱い)の桐生は「これも断食行……」と白湯をすすり、引率の夏目もまた、残業代をカットされた金欠のため紙コップを握りしめて胃痛に耐えていた。
そんな惨めな白湯組のテーブルへ、豪華なランチトレイを持った男がわざわざ相席してきた。ロビーで会った夏目のエリート同期だ。
その時。食堂の中央に設けられた特別仕様のVIPレーンを、一台の最新鋭自動配膳ロボットが滑らかな静音走行で進んできた。
ロボットの強化透明アクリルのケース内には、黄金色のタレが美しく輝く、最高級の「常陸牛特製ステーキ重」が四つ、湯気を立てて鎮座していた。本庁のトップエースたちだけへの配給物資だ。
「おいおい、見ろよ。あれが本庁の贅沢の極みだ」
夏目の同期が、待ってましたとばかりにドヤ顔で解説を始めた。
「あのステーキ重は、本庁のスーパーコンピュータが、エース九条の脳の疲労度と消費カロリーをリアルタイムで逆算して調理させた完全特注品だ。ケースのハッチは、エースの社員IDと高度な網膜認証を同時通過させないと、一ミリたりとも開かない絶対管理の仕様になっている。お前たちのような、ただ飯を食いに来た非正規が触れることすら叶わない代物さ」
鼻で笑うエリートの言葉など、小春の耳には届いていなかった。
彼女の視覚センサー(眼球)は、アクリル越しに見える常陸牛の、完璧なミディアムレアの断面だけに完全にロックオンされていた。
漂ってくる香ばしい醤油と肉の脂の匂い、そして目の前で一人だけ豪華な無料ランチを満喫する弟子への理不尽な八つ当たりが、小春の脳内の強欲スイッチを致死レベルまで一気に押し上げた。
(……待ちなさいよ。昨日、私を散々デスワープのデリバリーボットみたいに走らせてタダ働きさせた挙句、パイプ椅子で野宿させたのって、あの眼鏡(九条)よね? だったら、あの肉のカロリーは、私の正当な残業代であり宿泊費の現物支給として、私がキルパク(横取り)するのが労働者の当然の権利じゃないのよ……!)
生存本能が暴走を始めた。小春はゆらりと立ち上がると、両腕を水平に広げ、無駄な歩行モーションを極限まで削ぎ落とし、床のタイルの目地を正確になぞるような現実世界での『すり足移動』を開始した。
配膳ロボットの光学センサーの検知範囲と、死角となるコンマ数度の角度の隙間を完璧に突いた、Tポーズ滑りの現実応用プレイだ。
ロボットが九条のサポートチームのテーブルに到着する。つくばの正規隊員が、ケースの前で網膜認証のレーザーを顔面に受けた。
ピピッ、と電子音が鳴り、アクリルケースのロックが解除され、フタが上部へとスライドを始める。
小春のゲーマー脳が、その瞬間の処理ラグを明確に捉えた。
(ケースのフタが完全に開ききるまで、零・五秒。人間の網膜認証の判定がサーバーに同期され、ロボットの手前に対象物の所有権が発生するまで――わずか一フレーム、六十分の一秒のラグがある!)
小春の右手が、電光石火の速度で突き出された。
自作デバイスのハードウェア連射スイッチを指先で叩くような、人間の限界を超えたコマンドスパムの肉体駆動。
小春は開きかけたアクリルケースの隙間へ、骨が軋むのも構わずに強引に腕をねじ込むと、最上段に置かれていた「常陸牛特製ステーキ重」の重厚な漆器の容器を、その細い指先で鮮やかに掠め取った。
フタが完全に開ききった時には、小春はすでに元のすり足移動で、自分の席へと平然とした顔でロールバック(逆戻り)を完了していた。
手元には、ずっしりとした肉の重量感。
完璧な、現実世界での同期ズレ窃盗の成功だった。
「……おい。おい小春! 網膜認証の隙間から腕を突っ込んでステーキ重だけ回収するな!! それはハッキングじゃない! ただの未来技術への力技だ!!」
夏目が座席から飛び上がり、絶叫した。
桐生が「肉だあぁぁ!」と狂喜乱舞の声を上げるが、その歓喜を完全に凍りつかせる、足音が響いた。
コツ、コツ、コツ。
無機質で、一歩のストライドに一ミリの狂いもない正確な歩調。歩くモーションすら最適化されているかのような男。
振り返れば、そこには銀縁眼鏡を冷たく光らせ、手元の透過タブレットを恐ろしい速度でスクロールしている男――第一センターのトップエース、九条慧が直立していた。
九条は、配膳ロボットの前に残された三つの弁当と、小春の胸元に抱えられた一つの弁当を交互に見つめ、感情を完全に排した声で淡々と言い放った。
「配膳エラーを検知。重量センサーのログを解析しました。認証通過からフタの開放にいたるプロセスの中で、わずか一フレームの不自然な重量の減少を確認。――黒瀬テスター。あなたが今、私の午後の演算リソースとなるはずだった、一万二千キロジュールのエネルギー(弁当)を不正に掠め取りましたね。私の理論値スケジュールが狂うので、速やかに返却していただこう」
「はぁ!? 何言ってるのよ! これは私が昨日タダ働きさせられた分の、正当な現物支給の残業代よ! 一キロジュールたりとも返すわけないでしょ!!」
日本の最高峰の論理が詰まったつくばセンターの食堂の片隅で、ステーキ重の容器を必死に抱え込む飢えたクソゲーマーと、一フレームの計算の狂いも許さないTASエリートによる、世界一高度で世界一セコすぎる屁理屈バトルの火蓋が切って落とされた――。




