30:強欲のその果てに
手取り一千万を奪われ、二百万の借金を背負わされたフリーターの、『私の残業代を返せ』という純度百%の殺意が、ハメ技の先行入力の輝きとなってブレードに宿り始め――小春の指先が、怒濤のキー入力を仮想キーボードへと叩き込んだ。
ボスの車輪がワープを完了するその一フレーム前、小春の身体はすでに神骸のグラフィックの内部、描画の裏側に存在する判定の隙間へと完全に重なっていた。
ガガガガガガガガガガガガガガガガガガッ!!!
小春は【V-ARC】を高周波ブレードモードのまま、空間の当たり判定を無限に重複させるため、自作デバイスの「ハードウェア連射スイッチ」を最大にぶち上げ、ボタンを叩き割らんばかりの狂気的な速度でスパム入力を押し付ける。
チートによるプログラム改ざんではなく、ただの泥臭い機材による物理的な入力の暴力。一秒間に数百回という異常な負荷の多段ヒットが、車輪のオブジェクトの中心核へと直接叩き込まれた。
プログラム上の限界を超えた演算負荷が、マップ全体のフレームレートを急激に垂直落下させていく。
理不尽なワープや先出しの炎エフェクトを乱舞させていたボスは、断末魔のモーションを再生するリソースすら残されておらず、ただのバグったエラーログの文字列となって、ノイズと共に虚空へ霧散した。
完全なる地形ハメ、そして秒殺である。
「あ、あり得ない……。つくばのスーパーコンピュータが数時間かけても導き出せなかった最適解を、このような、例外エラーの暴力だけで処理するだなんて……!」
地面に転がり、ショートした論理兵装からパチパチと惨めな火花を散らせていた監査官が、信じられないものを見たというように愕然と声を震わせた。
国家エリートとしてのプライドも、完璧だったはずのマニュアルも、エミリーの粗悪なパッチと小春のクソゲーマー理論の前に、跡形もなくへし折られていた。
ボスをハメ殺した小春は、手元のブレードを無造作に消去すると、カクカクとしたTポーズ滑りで監査官の真ん前へと移動した。
そして、彼の最新鋭の壊れたアーマーを親指で小突いてみせる。
「ねえ、監査官さん。あんたのその、開発に何十億もかかってそうなバカ高いおもちゃの修理調書を本庁の経理に回すのと、私のさっきの借金二百万をチャラにするの、どっちが組織の書類審査をスムーズに通るかしら?」
「な、何だと……!?」
「今回は特別に、私がこのクソパッチの致命的なセキュリティホールを最前線で実証してあげたわけ。つまり、これは正当な『デバッグ・コンサルティング料』。その二百万の相殺請求を今すぐつくばの予算で肩代わりしなさい。嫌なら、そのバカ高いアーマーの減損処理の報告書、自分で始末書書いて内閣府に提出する?」
小春の口から繰り出されるのは、あまりにも汚らしく生々しい恐喝だった。
「師匠、さすがです……! これぞ敵の財務状況までをも完全に行き詰まらせる、財政ハメ……!」
「いや桐生くん、ただのたちの悪い脅迫だよ、あれ。でも、あの監査官、実力で完敗した上にデータの整合性でも言い返せなくなってる……」
桐生が目を輝かせて崇拝し、シオンが完全にドン引きした目で見守る中、監査官は歯を食いしばりながら、手元の透過タブレットを血走った目で操作せざるを得なかった。
「……くっ、合意、せざるを得ませんね。黒瀬テスター、あなたの第二センターに対する損害賠償二百万円は、我が第一センターの『システム検証費』の名目で全額相殺――帳消しとします」
「よっしゃあ! 借金ゼロ! 完全なる労働者権利の勝利ね!」
小春はデバイスに届いた『天引き解除』の通知を確認するや否や、勝ち誇った顔で空中に拳を突き上げた。
マイナスからゼロに戻っただけだが、強欲なフリーターの脳は、すでに大金を稼ぎ出したかのような錯覚を起こしていた。
一度気が大きくなったクソゲーマーの欲望は、そこで止まるはずがなかった。
小春は指先でチャリン、チャリンと小銭を数えるようなジェスチャーをしながら、監査官の顔を覗き込んだ。
「なんならさぁ、つくばの潤沢な国家予算で、私を専属の特別一級テスターとして雇いなさいよ。時給五倍、それと越谷からの交通費も全額経費。その条件なら、そっちの第一センターに湧いたボスも、バグの隙間に挟んでサクッとハメ殺してあげるわよ?」
「やめろ、小春! 余計な欲を出すな!」
後ろから夏目が、無意識に胃の辺りを強く押さえながら蒼白な顔で叫んだ。
彼は、その瞬間に監査官の眼鏡の奥の瞳が、感情の抜け落ちた捕食者のそれへと切り替わったのを見逃さなかった。
「……ほう」
地面から立ち上がった監査官は、泥を払い、論理派エリートの顔を取り戻して薄笑いを浮かべた。
「我が第一センターの防衛ラインに、あなた自らが出向くと? いいでしょう。時給五倍の特別出張契約、今この場で承認します」
「まじで!? やったわ、超ホワイト環境見ーつけた!」
小春は歓喜の声を上げ、監査官が空間に提示した電子契約書のホログラムへ、一フレームの迷いもなくサインの先行入力を叩き込んだ。
「ば、馬鹿者が……! なんてことをしてくれたんだ……!」
夏目がその場に頭を抱えて崩れ落ちた。
「夏目さん、何よ。時給五倍よ? これで行き遅れた最新ゲーム機が三台は買えるわよ」
「何も分かっていないな、小春! 第一センター(つくば本部)のサーバーは、この春日部や鹿島のガバガバな環境とは根本的に仕様が違うんだ! あそこは本庁のスーパーコンピュータがミリ秒単位でシステムを監視し、発生したバグやラグを『その瞬間に自動修正してロールバックする』、完全無欠の超・最適化空間なんだぞ!!」
「……へ?」
小春の動きがピタリと止まった。
バグが使えないなら、自分はただの体力がないだけの底辺フリーターではないか。
「つまり、お前が得意とする壁抜けも、インプット・ラグの悪用も、Tポーズ滑りも、発生した瞬間にシステムに検知されて『正常な位置』へ強制的に巻き戻される! お前のようなクソゲーマーにとって、あそこはバグが一切使えない、最も相性の悪い地獄の職場(ガチゲー環境)なんだよ!!」
夏目の悲痛な叫びが、バグマップの空間に虚しく響き渡る。
事の重大さに気づき、小春の顔からサァッと血の気が引いていく。
それを見た監査官は、屈辱に塗れた眼鏡の奥で、底知れぬ暗い笑みを深めていた。
「ええ、その通りです。バグの使えない真っ当な高難易度空間で、あなたがいかに無力にへし折られるか、我が本庁の論理の檻でじっくりと『現場監査』して差し上げましょう。それでは黒瀬テスター、つくばの本部でお待ちしております」
欲を出しすぎた強欲フリーターが、自らの手で最悪の奴隷契約書にサインし、地獄のガチ攻略環境へと飛び込んでいく――因果応報の足音が、絶望する夏目の胃痛と共に、不気味に響き渡って――。




