23:マネーロンダリングの疑い
「――フハハハ! 見事だ、愚かな一般ユーザーよ! まさかただの処理落ち(ラグ)で原初の神骸をフリーズさせるとはな!」
真っ青なブルースクリーンへと染まり、強制シャットダウンが始まっていた第0層の空間に、突如として耳を刺すような不快な電子ノイズが割り込んできた。
視界の端で激しく点滅する紫色のハッキングエフェクト。
世界の崩壊を固定したはずの空間の裂け目から、あの悪質チーター『V』の合成音声が響き渡る。
『だが、お前が意図的なオーバーフローで開いたそのセキュリティの穴、私の外部ツールで有効に利用させてもらう! この最深部の莫大なエラーログ(バグ)の奔流を、そのまま他拠点――第三センターのサーバーがある鹿島へと流させてもらうぞ!!』
(うわ……。また出てきた……。なんなのあいつ、まじでニートとかじゃない?)
画面が激しく明滅し、システムが『警告:外部チートツールによるデータの強制転送』を検知してアラートを乱舞させる。
他拠点への被害拡大。
それは、世界が再び終わりの危機へと直面したことを意味するシリアスな大事件だった。
しかし、視界の片隅で手動のログアウト待機カウントダウンを見つめていた小春は、鬱陶しそうに眉をひそめただけだった。
「……。あっそ。他拠点がどうなろうが知ったこっちゃないわよ。私の定時退勤画面の前に、邪魔なポップアップ広告みたいなチートノイズを挟まないでくれる? もう三十分のシフト時間はきっちり終わってんのよ!」
『な……っ、何だと!? 世界のインフラが再び危機に瀕しているのだぞ!?』
「こっちは業務時間外のサビ残を断固拒否してんの! じゃあね、引きこもり時給泥棒。二度と私の労働環境を荒らさないでよ」
小春はVの演説を完全に無視し、強制エラーの波に乗ってログアウトボタンを先行入力で叩きつけた。
システムが限界を迎えて弾け飛ぶ瞬間、四人の意識データは現実世界へと完全に排出(退勤)された。
◇◆◇
プシュゥゥゥ……ッ!!
現実世界、春日部・第二センターのカプセルルーム。
ハッチが勢いよく開き、激しい白煙と共に四人のダイバーが生還を果たした。
第0層の完全なる論理崩壊は防いだものの、エラーが鹿島へと飛び火したことで、管制室側はかつてないほどの大パニックに陥っていた。
「駄目です! 第0層から逆流したバグデータが、鹿島(要石駐屯地)の第三センターサーバーへ直撃しました! あちらの論理障壁が次々と損壊しています!!」
インフラ班の御手洗が髪を振り乱して叫ぶ。
その横では、センター長の岸泉が、顔を真っ青にして「至急、内閣府の本庁へ報告書だ! それから緊急の対策会議を開くぞ!」と、保身のために怒号を飛ばしていた。
「くっ……。一時的な休眠に追い込んだとはいえ、まだ何も解決していないというのか……ッ」
カプセルから這い出た夏目が、VR酔いの吐き気を堪えながら、エリートとしての責任感から痛々しく顔をしかめる。
彼は床に手をついたまま、必死に声を張り上げた。
「俺は……俺は正規隊員としての責任がある! このまま残って事後処理の対応と、深夜の対策会議に出席する! シオン、桐生! 非常事態だ、君たちも残って報告書の作成を手伝ってくれ!」
「ええええっ!? まだ目も頭もチカチカするのに、ここからブラックな残業地獄ですかぁぁぁ!?」
シオンが涙目で絶叫し、桐生も「くっ、これが組織という名の暗黒の檻か……ッ」と肩を落とす。
非正規のアルバイトとしてシフトに縛られた彼らは、強制的なサービス残業の泥沼へと引きずり込まれていく。
だが、そんな修羅場と化した管制室を尻目に、小春だけは恐ろしい手際でジャージから私服のパーカーへと着替え、お気に入りのリュックを背負って出口へと歩き出していた。
「おい、小春! 世界が、他拠点の鹿島が危ないんだぞ!? 君も残って手伝いを――」
「夏目さん、何言ってんのよ」
呼び止める夏目に対し、小春は振り返りもせず、冷酷に、そして誇らしげに言い放った。
「私は完全歩合制の『業務委託』だから。雇用契約の書類に『シフト時間外の拘束力なし』ってきっちり明記されてるのよ。定時だし帰るね。あ、財前チーフ。さっきの約束通り、大型アップデート防衛手当の一千万円、明日までに私の口座に振り込んどいてね。お疲れ様でしたー」
「一千万……ッ。一回の突発任務で、今期のデバッグ予算が完全に吹き飛びました……ッ!!」
小春があっさりと自動ドアを抜けて退出していく後ろで、経理チーフの財前が、タブレットを握りしめたまま血の涙を流してその場に崩れ落ちていた。
特務機関の予算の枯渇。
それは、強欲なフリーターに対する、運営(財前)の恐ろしい逆襲の火蓋が切られた瞬間でもあった。
◇◆◇
「ふふ、ふふふふふ……ッ。本当に、一円の狂いもなく着金してるわ……ッ!」
翌日。埼玉県越谷市の安アパート。
万年床の上に寝転んだ小春は、ひび割れたスマホの画面を見つめながら、仏のような下種な笑顔を顔いっぱいに広げていた。
銀行アプリの口座残高には、燦然と輝く『一千五百五十万一千四百二十円』の数字。
前回のボーナスと合わせ、一瞬にしてしがない底辺フリーターから、一千五百万円超えの資産家へと成り上がったのだ。
「ピンポーン」
タイミングよくアパートの呼び鈴が鳴る。
小春は万年床から跳ね起きると、ドアを開けて手持ちのなけなしの現金で支払いを済ませ、届いたばかりの『特大サイズのデリバリーピザ』と『二リットルのコーラ』を部屋へと運び込んだ。
「あー、やっぱり命の懸かってない、普通の平和なクソゲーは最高ね。正社員の夏目さんたちは、今頃あくせく働きながら上の人に怒られてサビ残地獄の真っ最中かしら。フリーランスの自由って本当に素晴らしいわ」
小春は宅配ピザの具を口に放り込み、コーラで流し込みながら、携帯ゲーム機でインディーの粗悪なクソゲーを遊ぶという、最高に堕落した休日を謳歌していた。
大金持ちの余裕に浸りきり、最高の現実逃避に身を委ねる。
ピロリン、とスマホが短い着信音を鳴らしたのは、ピザを半分ほど平らげた頃だった。
画面を見ると、メッセージの送信元は、昨日の決戦で裏回線からナビをしてくれた先輩隊員の猫山だった。
『やっほー、新人ちゃん! 昨日は見事なフラグクラッシュだったね! お互いきっちりシフトを守るタイプだし、今日はオフでしょ? 美味しいお店奢るから、新宿の最新VRゲーセンでちょっとデートしよ〜!』
効率よく働き、効率よく休む。
元RTA走者である猫山もまた、無駄な残業を嫌う同類だった。
「奢りなら行くに決まってるでしょ」
一千五百万の貯金があろうとも、他人の奢りと聞けば一フレームで釣られるのが小春という守銭奴だった。
彼女はゲーム機を放り出し、「タダ飯最高」と鼻歌交じりにウキウキで私服のパーカーを羽織り、部屋を出るための準備を始めた。
しかし、強欲なクソゲーマーが笑顔で部屋を飛び出した、まさにその直後。
主を失った万年床の上に放り投げられたままのスマホの画面が、不気味に青白く点灯した。
そこに表示されたのは、特務機関のバグなどよりも、現実世界の人間にとって遥かに恐ろしい、無機質な『社会のシステム』からの警告通知だった。
『銀行AIセキュリティ警告:実態不明の法人からの不審な大口短期送金(マネーロンダリングの疑い)を検知しました。規約に基づき、該当口座の預金引き出し機能を一時的に完全凍結します』
さらに、時を同じくして。
二〇四五年の高度に電子化された社会において、マイナンバーと直結した国のAI監視システムは、底辺フリーターの口座への異常な入金を逃さなかった。
アパートの一階にある錆びついたポストの隙間には、小春が意気揚々と踏みつけていった階段の下で、一枚の恐ろしい圧着ハガキが静かに滑り落ちていた。
そこには赤黒い文字で、こう印字されていたのだ。
『税務署からのお知らせ:短期における巨額の雑所得に関する、緊急確定申告および課税調査のご案内』
神骸の即死攻撃はバグで避けられても、現実の社会システム(税金と口座凍結)からは壁抜けできない。
大金を手にした途端に忍び寄る、最悪の転落への足音が、ウキウキで新宿へと向かう小春の背後で不気味に響き始めて――。




