21:フラグクラッシャー
真紅のエラーログの嵐が吹き荒れる『相模トラフ・ディープベース(第0層)』。
再び境界防衛戦の最深部へとダイブした四人の視界には、空間そのものが放つドス黒い情報圧が、強烈なデバフのノイズとなってまとわりついていた。
アバターの関節がミシミシと物理演算のエラー音を立て、呼吸すら困難なシリアスな重圧が戦場を支配している。
「くっ……!! 二度目だが、やはりこの階層の過負荷は異常だ……ッ。意識の係留値が削られていくのが分かる!」
夏目が大盾を構えながら顔をしかめ、歯を食いしばる。
シオンもまた、アサルトライフルの銃身を震わせながら、恐怖を堪えるように周囲の暗黒を警戒していた。
だが、パーティの先頭に立つ小春だけは、完全に虚無の表情のまま、不満げに鼻を鳴らした。
「ハァ……。何この息苦しい演出デバフ。画面が暗くなる上に移動速度まで低下するとか、ただの露骨な時間稼ぎ(タイムロス)じゃないのよ。そんな無駄なグラフィック描写に付き合ってる暇はないの。一刻も早くこのクソゲーを終わらせないと、私の五百五十万がエラー落ちして消滅しちゃうんだから」
世界を滅ぼさんとする原初の神骸への恐怖など、彼女の脳内には一微塵も存在しない。
あるのは、一千万円の手当を確実に毟り取り、己の口座残高を防衛するという極限の俗物根性だけだった。
『さあ新人ちゃん、裏回線での自作デバイスの同期完了、タイマースタートだよ!』
小春のジャージの懐から、猫山の声がノイズ混じりの音声で響いた。
現実世界の管制室で、財前たちの目を盗んで通信網をハッキングしている元RTA走者のナビゲーションが開始される。
『視界の端に過負荷限界までのタイマーが表示されたでしょ? 現在の残り時間は二九分五九秒。まずは正面にある、いかにもボス部屋へ続いてそうな正規のルート……は、百%完全無視して、開始地点の『真後ろの壁』に向かって!』
「了解」
小春は即座に反転すると、ロードが未完了のまま真っ黒なテクスチャで放置されている背後の壁へと直進した。
「桐生くん、ちょっとそこにしゃがんで」
「はっ!? し、師匠の直々の御指名……ッ! これが古流武術の、影を踏ませぬ極意の足場ですかっ!?」
状況を何も理解していない桐生が、嬉々としてその場に膝をつく。
小春は一切の容赦なく、桐生のアバターの頭の上に自分の足を乗せた。
アバターとアバターの当たり判定が不自然にめり込み合い、座標の計算エラーが発生する。
小春はその異常な座標のブレを維持したまま、真っ黒な壁の隙間に向かって『しゃがみスライディング』のコマンドを狂ったようにスパム先行入力し始めた。
ガガガガガガガピピピピピピピピシィィィンッ!!!
「よし、コリジョン・ギャップ(判定の隙間)を発見。抜けるわよ」
「えっ……!? ななな!! うわぁぁぁぁっ!?」
シオンが悲鳴を上げる。
四人のアバターが、不快なグリッチ音と共に真っ黒な壁のテクスチャを物理的に突き抜け、ゲーム空間の「裏側」へと完全に抜け落ちた。
世界の裏側――そこは、何も描かれていない完全な無の暗黒空間だった。
四人の身体は、正規の床(判定面)を失い、重力加速度に従って奈落の底へと真っ逆さまに落下していく。
「うわあああああッ!! せ、世界の裏側に落ちているぞ!? 正規の攻略はどうしたんだぁぁぁ!!」
落下しながら、夏目がエリートとしての常識を完膚なきまでに破壊されて絶叫した。
甲冑の隙間を風が通り抜け、はるか上方に、さっきまで自分たちがいた第0層の床のポリゴンが、まるで薄い板のようにスケスケの状態で遠ざかっていくのが見える。
『大丈夫、全部計算通りだよ夏目くん!』
自作端末から猫山の楽しそうな声が響く。
『このまま座標軸のZ軸(高さ)の数値だけを自由落下で一気に落として、途中の面倒くさいギミック階層は全部物理的に『貫通』するから! これぞフラグ全飛ばしショートカットの醍醐味だね!』
「なるほどね。正規のイベントフラグを踏まないように、マップのデータ領域の外側を通ってラスボスの初期位置(座標)まで直行するわけね。まさにRTAの基本だわ」
猛烈な速度で暗黒を落下しながら、小春は無表情のまま深く納得していた。
自由落下の速度が限界値に達したその時、四人の横を、ゲームの進行上必ず戦わなければならないはずの『中ボス』たちのエリアが高速で通過していった。
突如としてマップ外から降ってきた四人に対し、システム側が慌てて演出用の『中ボス登場デモムービー』を強制発動させる。
空間に重厚なパイプオルガンのBGMが鳴り響き、からくり細工の巨大な影が、威圧的なモーションで大見得を切ろうとした。
『――我は、深淵の底に這い寄る、原初の影……ッ。理不尽なる人間の、分不相応な……。え、ちょっと待って、速すぎ――』
ズドォォォォンッ!!!
中ボスがセリフを言い終わるより遥か前に、小春たちはものすごい落下速度でそのエリアの描画範囲を文字通りぶち抜き、セリフの途中で中ボスをはるか上空へと置き去りにして通過していった。
「ええええええっ!? 今の中ボス戦ですよね!? 登場ムービーの途中でガン無視して通り過ぎましたよっ!?」
シオンが落下中の風圧に耐えながら、目を丸くして驚愕の声を上げる。
プロゲーマーとしてのゲームへのリスペクトが、小春の非道なプレイスタイルによって粉々に粉砕されていた。
「RTAにイベント戦やムービーなんて無用の長物よ。フラグは全部へし折って進むのが、時給効率を極限まで高めるための鉄則なんだから」
小春が冷酷に言い放った瞬間、懐の端末から猫山の鋭い合図が飛んだ。
『みんな、そろそろ最深部の底面(床判定)に到達するよ! カウントに合わせないと落下ダメージで即死(全滅)だからね! 三、二、一……着地ッ!!』
「ハッッッ!!」
小春は猫山の叫びと完全に同じフレームで、全員の『前転回避』を自作デバイス経由で強制実行した。
接地するわずか六十分の一秒(一フレーム)前。
アバターが地面に激突する寸前、ドッジロールのアニメーション開始時に発生する『〇・二秒の完全無敵時間』が、落下速度による極大の即死ダメージ判定を完全に上書きし、相殺する。
ストォン。
信じられないほど軽い音を立てて、四人は無傷で暗黒の底へと着地した。
周囲を見渡せば、そこは本来なら何日もかけて幾多の死線を越えた者だけが到達できる、最深部のボス部屋だった。
開始からわずか三分足らずの大幅ショートカット。
「う、嘘でしょ……。本当にノーダメでラスボスの部屋まで来ちゃった……」
シオンがガタガタと震えながら、目の前の空間を見上げて立ち尽くす。
そこには、世界のすべてのバグの根源であり、首都直下型地震のトリガーそのものである、あの巨大な『原初の神骸』が、禍々しい漆黒の触手を蠢かせて鎮座していた。
正規のルートを通らずに現れた不法侵入者たちを検知し、ボスの過負荷データが急激に跳ね上がっていく。
「……。ふふ、フハハハッ!! ついに現れたな、世界の命運を懸けた真の宿敵よ!!」
桐生が剣を引き抜き、中二病全開の笑顔を浮かべる。
ボスは完全に起動モードへと移行し、触れた瞬間に全データをデリートする漆黒の触手を、四人へ向けて一斉に振り上げようとしていた。
「さあ、ここからが本当の残業(本番)よ」
小春は【V-ARC】を高周波ブレードモードへと変形させ、顔いっぱいに悪魔のような下種な笑顔を浮かべた。
「待たせたわねクソボス。さっさとアンタを意図的オーバーフローでエラー落ち(強制休眠)させて、私は一千万円の残業代を毟り取って、三十分以内に定時退勤してあげるわよ!!」
世界の命運を懸けた、前代未聞のラスボスハメ殺しコンボの先行入力を開始する直前、小春のブレードが不正なパケットの輝きを放ち始め――。




