19:デスルーラ
視界を埋め尽くしていた真紅のエラー画面が、ガラスの割れるような電子音と共に弾け飛んだ。
緊迫したアラートの残響を置き去りにして、小春、夏目、桐生、シオンの四人が降り立ったのは、あらかじめ告知されていた江戸の町並みのアップデートマップなどでは断じてなかった。
そこは、上下左右の概念すら消失した、底なしの暗黒が広がる空間だった。
はるか深淵の底から、生物の臓器を思わせる巨大な赤い光の脈動がドクン、ドクンと不気味な音を立てて響いてくる。
かつて関東大震災の震源地であり、すべてのバグと次元断層の元凶が眠る極秘エリア
『相模トラフ・ディープベース』。
一般テスターには決して明かされない、世界の終わりの最前線だった。
「くっ……、あ……、なんだこの、圧倒的な情報圧は……! 息が、まともに、できない……ッ!」
真っ先に膝をついたのは、エリート正規隊員である夏目だった。
白銀の甲冑が空間の重圧にメリメリと軋み、アバターの輪郭から激しいブロックノイズが噴出している。
「ひ、ひえぇぇ……っ! 身体が、一ミリも動かない……! システムログが、見たことないエラーの文字列で埋まってますぅ……!」
「フフ、フハハ……! なんという邪悪な気配……! だが、この俺の右腕が、恐怖で震えて……いや、マジで硬直して動きません!」
シオンは涙目で自分のアサルトライフルにしがみつき、桐生は無駄にスタイリッシュなポーズのまま虚空で完全に固まっている。
特異点が放つ凄まじい精神負荷のデバフの前に、並のダイバーであればダイブ直後に発狂しかねない地獄絵図だった。
だが、そんな絶望的な空間の最中、アキバのジャンク屋で組んだ違法な自作ダイブデバイスを懐に忍ばせた小春だけは、全く別のベクトルで顔をしかめていた。
彼女は死んだ魚のような目で暗黒の空間を見回すと、退屈そうにチッと舌打ちをする。
「はぁ? 何これ。新マップとか言って、ただの真っ暗闇じゃん。オブジェクトも配置されてないし、壁のテクスチャも貼られてない。開発陣、さては納期に間に合わなくて『未実装エリア』のまま放置してリリースしたわね?」
「君は……っ、この状況で、まだ運営の手抜きを疑っているのか……! これはそんな生易しいバグでは――」
夏目が息を絶え絶えにツッコミを入れようとした、その時だった。
脈動する赤い光の奥底から、空間そのものを物理的に引き裂くような、巨大すぎる影が蠢きながら浮上してきた。無数の触手と幾何学的な紋様が混ざり合った、この現実世界を滅ぼす元凶――『原初の神骸』。
視界の端で、特務機関のシステムアラートが、今まで見たこともない速度で明滅し始める。
『エラー:対象のデータを解析不能。危険度が測定限界を超過しています。全ダイバーは、直ちに手動でのログアウトを推奨――』
ボスの頭上に表示されるべきHPバーすら、バグって画面外に突き抜けている。圧倒的な「絶対に勝てない存在」を前に、小春は一瞬でやる気のスイッチを完全に切った。【V-ARC】を肩に担ぎ直し、回れ右をする。
「あーはいはい。分かったわ。こちらのレベルや装備に関係なく、イベントの進行上絶対に全滅させられる、クソRPG特有の『強制負けイベント』ね。付き合ってらんないわ。時間の無駄だし、さっさと帰って寝るよ」
「待て、小春……! メニュー画面が開かないんだ! ログアウトのボタンが灰色に濁っていて、入力が受け付けられない……!」
夏目が蒼白な顔で叫ぶ。
その瞬間、小春の自作デバイスが、強烈な混線ログと共に、現実世界の管制室の音声をノイズ混じりに拾い上げた。
『――ダイバー四名が第0層に墜落! システムが完全にロックされ、外部からの救出は不可能です!』
運用保守班の御手洗の絶叫。続いて、センター長の岸泉と、経理の財前の引きつった会話が、スピーカーのバグによって小春の脳内に直接流れ込んでくる。
『まさか、こんなに早く原初の神骸の防衛トリガーが引かれるとは……! 財前くん、まだ彼らを、この世界を維持するための『防波堤』としてサーバーに捧げるには早すぎる……!』
『……仕方がありません。こうなったら、彼らの意識データを強制的に空間のスタック領域へ繋ぎ止め、数十年だけでも世界崩壊のパッチ(時間稼ぎ)にするしか――』
ブツッ、と不快なノイズと共に通信が途切れた。
それを盗み聞きした小春の瞳から、完全に光が消え失せる。
汚濁のような強欲の炎が、地獄の底から静かに燃え上がった。
「『防波堤』……? ああ、なるほどね。あのクソ運営、私たちが一千万の追加報酬に目が眩んだのをいいことに、安い時給で過酷なタンクを強制して、そのまま帰さない気だったわけだ。冗談じゃないわよ、そんなサービス残業、死んでもお断りだわ!!」
「解釈が、お前はどこまで……!? 命を使い捨てにされる瀬戸際だぞ!」
夏目が這いつくばりながら絶叫するが、小春はすでに懐の自作デバイスをカチカチと狂ったように操作していた。
眼前からは、原初の神骸から放たれた、触れた瞬間にアバターのデータを完全に消去する漆黒の触手が、津波となって迫り来ている。
メニュー画面のログアウトは完全に機能していない。
「通常の方法でログアウトが塞がれてるなら、力技でシステムのエマージェンシーを引きずり出すまでよ」
「な……、何を企んでいるんだ……?」
不敵に笑う小春を見て、夏目の背筋に極大の戦慄が走った。
小春は自分のインベントリを開くと、特務機関から支給されている標準防具――致死ダメージを一度だけ耐えるロングコート『リアクティブ・データコート』の仕様を、自作デバイスの不正コードで強引に書き換え始めた。
「いい? このコートには、ユーザーが即死するのを防ぐための安全フラグが仕込まれてるの。これを自作のツールで無理やり『無効』に書き換えて……、それから【V-ARC】のアンチウイルス弾の火力を最大値に設定して、アバターの内部から一気に暴発させる」
「しょ、師匠……? それって、まさか……!」
シオンがプロゲーマーとしての恐怖を察知し、ガタガタと顎を震わせた。
「昔の仕様がガバガバなクソゲーじゃ定番の裏技よ。セーブポイントの街へ一瞬で戻るための――『デスルーラ(自主的全滅による強制送還)』よ!!」
「正気かあああああッ!!」
夏目が、この日一番の悲鳴を暗黒の空間に轟かせた。
「ゲームとワケが違うんだぞ! 現実への係留値が低い君が、そんな方法で自主的に致命的なデータ破損を起こしたら、強制ログアウトの前に本当に脳が死ぬぞ!!」
「そうです、師匠! 格ゲーやFPSのデスワープとはワケが違います! それ、マジのデスペナルティ(死)ですって!! 本気でやめてください!!」
シオンが涙をボロボロと流しながら、必死に小春のジャージを引っ張って止めようとする。
二人のダイバーにとって、小春の提案はただの自殺志願にしか聞こえなかった。
「バカね。世界がバグってエラー落ちして消滅したら、私の五百五十万の口座残高も、これから毟りとる予定の一千万も全部パーになるのよ!? そんな損害を出すくらいなら、脳の一個や二個、先行入力のラグ計算で耐えきってみせるわよ!!」
小春の生存本能のメーターが、狂ったように数値を振り切る。
彼女はシオンと桐生、そして夏目のアバターの安全フラグを、自作デバイスから放った不正パケットで強引に一斉に書き換えてロック解除した。
「いくよ! 全員まとめて、初期リス地(現実)へ強制送還よ!!」
小春が【V-ARC】の引き金を引いた瞬間、四人のアバターの内部から、圧縮されたアンチウイルス・データが爆発的に大暴発した。
安全装置を失った肉体が、凄まじいブロックノイズの嵐となってカクカクと激しく痙攣し始める。
眼前からは、原初の神骸の巨大な触手が、彼らを飲み込もうと完全に肉薄していた。
「私の時給一千万、しっかり帳簿にツケとくからねクソ運営ええええええ!!」
小春の絶叫が響き渡ると同時に、四人のアバターは完全にポリゴンの塵となって爆発四散し、世界のシステムは致命的な『例外エラー』を検知して――。




