11:フレーム回避と、インフラエンジニアたち
メニュー画面が開かない。ログアウトボタンが灰色に濁ったまま、いくら脳内でタップしても虚空に弾かれる。
世界のすべてが真っ黒なノイズの波に呑み込まれていく幕張エリアで、数十人の一般テスターたちは完全に狂乱状態に陥っていた。
「ログアウトできない!?」
「おい、嘘だろ! これじゃ現実に戻れないぞ!」
避難エリアの浮島に避難していたテスターたちが、バグによって強制軟禁された恐怖に悲鳴を上げる。
ひび割れたビルの外壁にしがみついたままのシオンもまた、涙目で自分のアサルトライフルを握りしめていた。
「プログラムが……完全にロックされてます。外部からのウイルスコードのせいで、安全装置が機能してない……。私たち、ここで空間ごと消去されて、脳を焼かれて死ぬんだ……!」
天才プロゲーマーが絶望に打ちひしがれる中、ただ一人、別のベクトルで怒り狂っている者がいた。
プロップサーフィンで空中に浮いたままの小春である。彼女はアバターが激しく明滅するノイズに侵食されながらも、怒髪天を突く勢いで虚空を睨みつけていた。
「ログアウト不可? あいつ、クソゲーの強制イベントによくある軟禁バグを仕込みやがったな!? ふざけやがって、タダ働きさせた上に帰らせないとか、どこの労働基準法違反よ……!」
彼女の脳内にあるのは、命の危機などではなく、労働に対する対価が支払われないことへの底知れぬ怒りだけだった。
◇◆◇
その頃、現実世界の第二センター管制室は、さながらシステム障害を起こした巨大IT企業の対策本部のようになっていた。
壁一面に並ぶ巨大なモニター群には、真っ赤なエラーログが滝のように流れ落ち、何十人ものオペレーターたちが怒号を交わしている。
「駄目です! ジャミングによるコードの書き換えが早すぎる!」
サーバー運用保守班のリーダー、御手洗晴也が青ざめた顔でキーボードを叩きながら叫んだ。
「このままでは千葉の第三サブサーバーの物理基盤ごと、幕張エリアにダイブしている数十人のダイバーの脳が熱暴走で焼き切れます! 今すぐ回線を物理的に切断(LANケーブルを結合)しなければ……!」
「待ちなさい! そんなことをしたらテスターたちの意識が完全にデータ領域の宇宙へ迷子になります!」
経理・予算管理担当チーフの財前が、御手洗の横で髪を振り乱してタブレットを突きつける。
「サーバーの強制破棄にかかる特損、さらには数十人分の遺族への見舞金と、隠蔽のための法的な処理費用……! 我が経理部の予算が、文字通り塵一つ残さず消し飛びます!!」
「規約第18条『予期せぬシステム不具合による生命の損失は免責』を適用すれば、全員一身上の都合による退職処理にできますが?」
法務・コンプライアンス部の人間が、冷酷極まりないブラックな提案をボソリと呟く。
「ばか!! まだなんとかなるでしょ!? てかしなさい!!」
そんなシリアスとブラックが交錯するパニックの最中、デバッグ・QA班の変人チーフである車谷大河だけは、モニターに映る小春の挙動を見て、狂ったように目を輝かせていた。
「おい見ろ! あの新人……黒瀬小春、逃げるどころかウイルスの中心核に向かって直進してやがるぞ! なんだあの異様な動きは!」
幕張の空。海のさらに上空に、空間を侵食する黒いウイルスの巨大な水晶――『ウイルスコア』が脈動していた。
◇◆◇
「無理です! 戻ってください!」
空中を蹴ってウイルスコアへと突き進む小春の背中に、シオンが叫ぶ。
「あのコアから放たれている黒い波は、触れた瞬間にアバターの全データを強制消去する即死判定です! かすっただけでも終わります!」
「即死判定? そんなの、粗悪なアクションゲームじゃ日常茶飯事よ」
小春は速度を緩めない。
ウイルスコアが禍々しい光を放ち、空間全体を押し潰すような黒いデリート波が、津波となって小春の目の前に迫る。
直撃まで、あと数フレーム。
「ハッッッ!!」
小春は押し寄せる黒い絶望に向かって、あえて自ら飛び込むように『前転回避』を入力した。
アバターが前方に一回転する、地味で、ありふれた回避モーション。
刹那、デリート判定の黒い波が、小春の体を完全に突き抜けた。
「……え?」
ビルの外壁でそれを見ていたシオンが、息を呑む。
消滅するはずのアバターは、何事もなかったかのように無傷のまま、前転を終えて着地(空中静止)していた。
「うそだろおおおおお!? あいつ、デリート判定をフレーム回避しやがった!?」
管制室のモニターを見ていたQAチーフの車谷が、椅子から跳ね上がって絶叫した。
「前転回避のアニメーション開始時に発生する、仕様上のわずか『0.2秒の完全無敵時間(無敵フレーム)』を、即死波の当たり判定の1フレームに完璧に重ねて相殺しやがった! バグじゃねえ、純粋な仕様の悪用だ! あいつは天才か!?」
「ふざけるな! 誰があんな即死イベントをフレーム回避でゴリ押していいと言った!!」
奥のデスクに座っていたバランス調整・プランナー班のチーフ、鵜飼エミリーが、クリエイターとしてのプライドを粉々に砕かれてノートパソコンを叩きつけた。
「あのデリート波は、プレイヤーが絶望してリタイアするのを楽しむ想定(仕様)で作ったのよ! それをただのドッジロールでノーダメですり抜けるなんて、ゲームデザインに対する最大の侮辱だわ!!」
「エミリー、お前の私怨はどうでもいい! 御手洗、ログを追え!」
車谷が興奮で鼻息を荒くする中、小春は無敵フレームの連続入力という狂気のステップでデリート波をすべてすり抜け、ついにウイルスコアの目の前へと肉薄していた。
巨大な黒い水晶が、強固なプロテクトの輝きを放ちながら小春を拒絶する。
だが、小春は【V-ARC】で殴りかかることはしなかった。
彼女はコアに密着すると、視界のインターフェースを開き、ある特定のコマンドを狂ったように連打し始めた。
「超高圧縮されたシステム改ざんデータ(ウイルス)……。これだけ純度の高いデータ塊なら、現物としてインベントリに『強制収納』して運営に売りつければ、さっきの百万より高く換金できるでしょ!!」
彼女がやっているのは、クエストアイテムでも何でもない巨大な背景オブジェクトやボスを、無理やりアイテム欄に突っ込む『インベントリ・キャプチャバグ』のスパム入力だった。
ピピッ、ピピピピピピピピピピッ!!!
プロテクトの解析など無視した、不正な座標判定の押し付け。
システム側が、巨大なウイルスコアの体積データを処理しきれず、エラーを起こす。
ポンッ。
空間を崩壊させていた凶悪なウイルスコアが、信じられないほど軽い音を立てて消滅し、小春のインベントリの1スロット(『謎の黒い塊×1』)へと綺麗に収まった。
(……。本当にいけるんかい……。このゲーム会社、多分先はないわね)
直後、幕張エリアの崩壊がピタリと停止した。
黒いノイズが霧散し、灰色だったログアウトボタンが、鮮やかな青色へと戻る。
「エ、エラーログが……完全に消失しました……?」
管制室で、インフラ班の御手洗がモニターを見つめたまま、魂の抜けたような声を上げた。
世界が救われた。ダイバーたちの脳の爆発も防がれた。
しかし、システム障害対策本部に集まった大人たちの顔は、一様に引きつっていた。
「……あの守銭奴、世界を滅ぼしかけたウイルスを、物理的にポケットに入れて持って帰りやがった」
経理の財前が、冷や汗を流しながら我が目を疑うように呟いた。
◇◆◇
プシュゥゥゥ……。
第2センターのカプセルルーム。ハッチが開き、小春がのっそりと起き上がった。
彼女はジャージのポケットからひび割れたスマホを取り出すと、そのまま真っ直ぐ、管制室から血相を変えて走ってきた財前、御手洗、車谷、そしてエミリーたちの前へと歩み寄った。
そして、小春は手元のタブレットの画面を、財前の鼻先にドンッ!! と突きつけた。
そこには、手書きのデジタル文字で、悪魔のような請求書が作られていた。
「はい、これ。さっき回収したVのヤバいウイルスの現物データね。運営のガバガバなセキュリティのせいで、シフト外なのに無断出勤させられて命の危険に遭ったんだから……『ウイルス特別回収費』『ガバセキュリティ慰謝料』『休日出勤手当の三倍』込みで、ざっと一千万円ね。経理でも法務でもいいから、今すぐここにハンコ押しなさい」
命を救ったヒーローの顔ではない。
そこにあるのは、完全に組織を脅迫して金を毟り取ろうとする、最悪のフリーランス・デバッカーの邪悪な笑顔だった。すっかり反省の「は」の字すら忘れた下種な笑顔。
「……一、一千万円だとぉぉぉぉお!!」
財前の怒号が、地下施設に響き渡る。
世界を救う戦いは、ここにきて過去最大の金銭トラブルへと発展しようとしていた。




