10:重力反転と、空飛ぶ守銭奴
現実世界の地下施設で響き渡った財前の悲痛な絶叫など知る由もなく、小春は意気揚々とダイブしていた。
千葉・幕張エリア。次元断層の影響で、物理法則が完全に死を迎えていた。
本来なら地上にあるべきビル群が逆さまに空へ向かって突き刺さり、見上げれば巨大な海面が渦を巻いている。小春がダイブした直後、全身を襲ったのは強烈な浮遊感だった。
「……あー、天地反転バグか。またこれ? 開発、マップのZ軸設定コピペミスってない?」
真っ逆さまに空(海)へ落ちていく中、小春は無表情で腕を組む。
パニックに陥るどころか、この論理崩壊した空間を「クソゲーの仕様」として冷静に分析していた。
「おい、なんだこの重力!?」
「空に落ちていくぞ!」
「マニュアル通り、一番近い避難エリアの浮島へ退避しろ!!」
周囲では、特務機関がマニュアル通りに訓練した数十人の一般テスターたちが、慌てふためきながら付近に浮かぶ残骸へしがみついていた。
彼らはシステムに最適化された、ある意味でまともなプレイヤーたちだ。
そんな彼らの姿を、小春は「動きが硬いNPCみたい」と一瞥する。
「ひ、ひえぇぇぇ! 助けてくださぁい!!」
ひときわ甲高い悲鳴が響いた。
小春の横を落下していく、逆さまのビル。その外壁にしがみつき、涙目で絶叫している小柄な少女ダイバーがいる。
「……あ、星野シオンじゃん。この前のFPS大会で優勝してた、あの子。なんであんな子がこんなクソゲーのテスターに??」
ゲームニュースやランキングを眺めるのが好きな小春は、彼女の顔を知っていた。
精密な弾道予測とエイムを武器にする、FPS界隈の若き天才プロゲーマーだ。
「し、新人が落ちていく!? 待って、私のプログラムが、重力異常で弾道計算できなくて……うわぁぁぁ!」
FPSの天才も、想定外のバグ空間(重力異常)には全く対応できず、完全に置物と化している。
「天才プロも、クソゲー環境じゃただの初心者ね」
小春はため息をつくと、慣性の法則を完全無視するTポーズで空中停止を試みる。
空中でインベントリを開き、『安い回復ポーション』の小瓶をドロップした。
そして、落下していくその瓶の上に自分の足を乗せ、アバターと瓶の当たり判定を無理やり干渉させる。
システムが「プレイヤーを押し出そうとする力」と「反転した重力」が反発し合い、小春は『プロップサーフィン(物理乗り)』を成立させ、空中でピタリと静止した。
「は……? い、アイテムの上に乗って空飛んでるんですか!?」
「え、あいつの挙動おかしくないか!? システムエラー!?」
シオンと、遠くの避難エリアに固まっている一般テスターたちが、物理エンジンを破壊した小春の姿に目を丸くして困惑している。
その時、二人の眼下、空(海)の底から、巨大なクジラと潜水艦が融合した異形の神骸『リヴァイアサン・エラー』が浮上してきた。
ボスの周囲では、重力場が一秒ごとに上下左右に切り替わっている。
触れれば即座に肉体が押し潰される、殺意に満ちた乱数攻撃だ。
「ダメです! あんな重力場の乱数攻撃、絶対に近づけません!」
シオンが叫ぶが、小春の目は円マークに輝いていた。
「あー、あんな乱数に付き合ってたら酔うし、時間かかるし、時給効率悪いわね」
小春は瞬時に計算した。
ボスの重力場を強引に突破し、一撃で内部から破壊する――そのためには、音速を超える加速が必要だ。
「いくよ、《《シオンちゃん》》。私の『時給三倍』のために、その極上デコイ(囮)っぷりでヘイト稼いでおいて!」
「えっ!? 私なにも撃てないのにデコイ!?」
小春はポーションを蹴り飛ばし、反転する重力場を利用して、背後の見えない壁に向かって『バックステップ』をスパム入力し始めた。
一秒間に数十回という異常な速度の入力。
システムがその処理を正しく行えず、溜まった慣性がオーバーフローを起こす。
ズズズズズズズッ!!
いわゆる『ケツワープ(コリジョン加速)』。
小春のアバターが、音速を超える大砲の弾(人間ミサイル)と化して、乱高下する重力場ごと強引にぶち抜いてボスへ向かって発射された。
「いっけええええ! 私の時給三倍アターック!!」
超加速を得た小春(Tポーズ)が、ボスの装甲を文字通りブチ破って内部へ貫通する。
ボスの内部(ポリゴンの裏側)に入り込んだ小春が、標準武装のV-ARCを乱射。
内部判定の多段ヒットにより、巨大なクジラ型神骸が悲鳴を上げる間もなく崩壊した。
「ええええええっ……」
シオンと一般テスターたちは、常識を破壊する小春のプレイスキルに唖然として口を開けたまま固まっていた。
「ぐへへへ、基本給の三倍! 概念ドロップ回収、完了!」
水しぶきが舞う中、小春が光り輝く報酬データを掴み取った、その瞬間だった。
『警告:未知のパケットを受信。報酬データに不正なフラグを確認』
ドロップアイテムが、突如として真っ黒なノイズに包まれる。
それはチーターの『V』が仕込んでいた『時限爆弾(トロイの木馬)』だった。
小春の腕を伝ってノイズの侵食が広がり、アバターが激しく明滅し始める。
『――見事に釣られたな、強欲なイレギュラー』
空間全体に、Vの歪んだノイズ音声が響き渡った。
「え!!?? また!? しつこっ!!」
『そのデータは罠だ。お前の卑しい執着心が、この幕張エリアをデリートする起爆剤になった。お前のアバターごと、その空間を完全消去させてもらう』
「……は?」
小春の表情が、一瞬で凍りついた。
自分がアバターごと消滅する恐怖よりも、百万円相当の報酬データが罠だったという事実に、脳内の生存本能が強烈な『強欲』へと塗り替えられる。
「倒したのに報酬データが偽物!? つまりタダ働きってこと!?」
『……はっはは! 哀れだな、そのままデータ領域の藻屑と消えろ』
「ふざけんな時給泥棒おおおおお!! 私の労働の対価を返せえええ!!」
ウイルスが空間の基底コードを破壊し、足場となるビル群や空の海が次々とノイズに飲まれて消去されていく。
「なになに!? ご立派な開発会社並べて、やすやすとチーターがはいれるくらいガバって……」
絶望的な空間の崩壊が始まる中、小春は自分の命よりも「報酬ゼロ」という現実にガチギレし、V-ARCの銃口を虚空へ向けて吠え猛った。
タダ働きで帰るなど、この最悪のフリーランスが許すはずもない。
幕張エリアが文字通り「0」になるまでのカウントダウンが、今始まった。




