表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
脳心儀  作者: 八島秦
33/38

第三十一話 偽りの月を囲む千の計略、梟雄渡港、龍脈に渦巻く疑惑

 滄海の風雲は止まることなく、玄界の盤上に沈黙など一瞬たりとも存在しない。


 香港の華やかな地表の下には複雑に絡まる暗い潮流が流れ、千年に渡る陰謀が音もなく潜んでいる。善き姿を偽り、人の憐れみを利用して天羅地網を張る者もいれば、頂点に座り二千年に及ぶ大業を一手に握りながら、出口のない窮地に立たされる者もいる。人が一人旅に出ること、救いを差し伸べること、犠牲を払うこと、さすらうことのすべてが縁によるものとは限らない。それは太古の陰魂が数年がかりで時機を計算し、緻密に打った一手に過ぎないのだ。


 大浪湾、龍隠山荘の地下深層。


 冷たく湿った地気が古い岩の割れ目からゆっくりと染み込む。四方は暗く静かで光も人声も届かず、墨のように重たい冷気が年中この地を覆っている。


 枯れて傷んだ生気のない銀杏の木片が、暗い隅に静かに佇んでいた。


 木の内に潜むのは離志遠、世間では隠世の善人・離隠大師と呼ばれる存在だ。


 世の人は桂林一登古寺の銀杏に宿る二つの魂のことしか知らない。蒼生を憂い邪気を封じ護る一登大師の正魂は知っていても、古木の地下深くに眠る千年の怨念が、同じ木に宿る一登大師の魂の周期を完全に読み取り、その霊力が衰える時刻をすべて把握し、人の心を惑わす慈悲の仮面を身にまとい、古木を離れ人を媒介に世に出る好機を待ち続けていたことは誰も知らない。


 この計略の最も重要な転機には綿密な事前の計画があり、月化娘が気まぐれで一人散策に出たわけではない。


 月化娘が広西深山の古村で長く養生し、体内の邪毒が一時的に鎮まり傷も安定した時、離志遠は二つの魂が同源であるがゆえの感応を通じ、当日が千年の間で一登大師の残魂の霊気が最も弱まり束縛の力が底まで落ちる日だと察知した。これは古木の束縛から逃れ、人を騙して自分を寺から連れ出してもらう唯一の絶好の機会で、逃すわけにはいかなかった。


 そこで彼は密かに月化娘の心を誘導し惑わせ、古寺のことを心配し隠世の高人の安否を案じる念を植え付け、少しずつ彼女を説き伏せて隊を一人離れさせ、桂林一登古寺へ向かわせた。千年の間枯木に囚われた離隠大師を見舞う、という名目で。


 古寺に足を踏み入れた月化娘の目に映るのは荒れ果てた景色と傷んだ銀杏の幹だった。一登大師の正魂は力尽き、木の深部に潜む陰魂の計略に気づく余裕もない。離志遠はこの隙にすべての邪気を完全に抑え、封印に苦しむ孤高の清修者としての姿を演じ、千年の孤独と誰にも救われない悲しみを生き生きと見せつけた。


 月化娘は精巧に作られた慈悲の偽りに完全に惑わされ、尊敬と憐れみの念に満たされ、目の前の存在が数千年枯木に囚われ誰からも助けられず消えかかっていると信じ込んだ。離志遠は弱みを見せ哀れな姿を演じ、彼女と共に古地を離れ人の気運で魂を養わなければ消滅すると訴え、一連の罠を張り巡らせた。月化娘は自ら進んで自分の魂の器である銀杏の枯れ木を手に取り寺から持ち出し、海を渡って香港へ戻り、大浪湾龍隠山荘の地下に潜ませることになる。


 陰魂が月化娘と共に香港へ遠く逃れ古木の束縛を完全に断った後、秦陌たち一行がようやく一登古寺へたどり着いた。その時銀杏の木に残るのは力尽きた一登大師の空殻だけで、離志遠は千里先へ逃れ痕跡も残さない。その後秦陌が銀杏の幹を切り、一登大師の正魂を伴って北上する流れさえ、離志遠が事前に推測した盤の内側だ。


 木を持って古寺を離れたその日から、月化娘の一挙一動はすべて離志遠の長き計略に収まった。


 その後香港へ赴き秦陌を命がけで救ったのも、彼女自身の善意ではない。乱世の偶然の出会いや救いではなく、離志遠が長らく計画し、玄界の核心の盤に踏み込む重要な一手に過ぎない。彼は各方勢力に警戒されない無垢な駒を必要とし、命がけの救いという芝居を通じて自然に龍隠山荘に近づき徐福の勢力と接触し、二千年続く天地の盤に根を下ろそうとした。


 こうして月化娘の優しさは彼が世に出るための架け橋となり、

 月化娘の義侠心は彼が潜むための盾となり、

 月化娘のすべての犠牲は彼の道を敷く足場となった。


 飛行場での一戦、徐福の神識を受け重傷を負い瀕死となった月化娘が再び広西深山の古村に身を隠すのも、離志遠が事前に定めた筋書きだ。重傷を負い無力に見せることで香港の最前線から離れ、徐福の鋭い探知の目を避け、深山の厚い地気で陰魂を養い、香港に戻る好機を待つためだ。


 数ヶ月に渡る潜伏の末、風雲は移り変わる。


 今日、香港の領内に並外れた頂点の気勢を持つ存在が境を越えて入り、街全体の風雲を重く押し沈めた。


 地下の暗い隅、枯れ木の中の離志遠がゆっくりと目を覚まし、冷たい笑みを浮かべる。全局を見通す冷徹さと、人の心を計り尽くす冷酷さがその表情に滲む。


 彼は横を向き、千年の罠にまだ気づかぬ月化娘に視線を向け、淡く、しかし骨に刺す冷たさを含んだ声で語る。


「完璧無比の絶世の躯が、今香港に到着した。」


 月化娘の心に緊張が走り、清らかな瞳に警戒の色が浮かび慌てて問う。


「誰のこと?」


 離志遠は玄界全体を揺るがすその名をゆっくりと口にする。言葉は淡いが底に底知れぬ貪欲と陰謀が隠れている。


「守霊司の大当家——百神幕だ。」


 この名を聞き、月化娘の表情は一気に重く沈む眉間に憂鬱が広がる。


 長く玄界の乱局に身を置いた彼女は、この梟雄の底知れぬ恐ろしさをよく知っている。世間の凡庸な強者とは比べものにならない。


「この人は善人などではない。」


 月化娘は穏やかだが警戒に満ちた口調で続ける。


「百神幕の修業は底知れず、心機は深く手段は苛烈。玄界の頂点に立つ最も相手にしにくい梟雄で、手を出すのは刃に身を寄せるようなものだ。」


 離志遠はその言葉を聞いても薄い笑みを崩さず、この世の頂点の威圧など眼中にない、余裕に満ちた口調で胸に秘めた考えを告げる。


「当然、お前に手を出させるつもりはない。」


「私には私の考えがある。」


 一言の淡い言葉に千年の陰謀が秘められている。


 長年潜み、一登大師の魂が最も弱まる日を計算し月化娘を誘って寺を離れさせ、彼女を媒介に乱世に踏み出し山林の地気を頼りに身を隠し天地の時機を待ち魂を養った。時機が熟し梟雄が香港に現れた今、彼の次の大盤は静かに開かれる。


 月化娘を操り乱世に引き込み香港の風雲をかき乱した後、離志遠の視線は百神幕の比類なき完璧な躯にしっかりと定まった。


 新たな躯奪取の計略が、音もなく練り上げられていく。


 ――


 一方、香港太平山の山頂。


 雲海が湧き風が虚空を渡り、香港の繁栄、山海の景色がすべて眼下に広がる。


 山頂に佇む一軒の豪邸は人里離れ雲上に孤立し、勢いに満ち、香港の地脈を最も遠く鮮明に眺められる場所だ。


 徐福は大きな窓の前に一人佇み、静かな姿に厳しい面持ちを浮かべていた。


 彼は月化娘が銀杏の枯れ木を携え大浪湾龍隠山荘に潜んでいることを最初から把握していた。月化娘が負傷してこの地に身を隠した時から警戒を緩めず、千回の試練を経た精鋭の控魂使徒たちを数名派遣し、雑役や山遊びの旅人に偽装させ山荘周囲の密林、村落、山道の要所に潜ませ監視させている。日夜山荘の細かな動きの情報が届き、少しの異変も見逃さないよう徹底させていた。


 だが連日届く報告は平穏な内容ばかり。月化娘が一人養生し時折独りで過ごす様子だけが記され、地下にもう一つの重たい陰魂が潜んでいる事実は誰も察知できなかった。徐福は疑念を抱きながらも確かな手がかりを掴めず、使徒たちに監視を続けさせ変化を待つしかなかった。


 彼の掌には幽藍の光が絡む古い器具が浮かび、光が明滅し内部の気流が荒れ狂っている。


 脳心儀。


 器の深部の封印に閉じ込められた太古覇王の残魂は日に日に狂暴化し暴走しつつある。


 万古の凶悪な覇気が封印を打ち続け神器の光を揺らし、鎮圧できる限界の時限が迫り、もう猶予はない。


 徐福は神器を見つめ沈んだ声で、二千年の計略を背負った重圧と無念を込めて独り言をつぶやく。


「時限が迫っている。」


「これ以上脳心儀に封じられた太古覇王の残魂を抑え融合できなければ、私が二千年かけて積み上げた計略と苦心は水泡に帰す、あまりに惜しい。」


 彼は一生、盤を操り慎重で疑い深く、天の恵みなど安易に信じず幸運を期待しない。窮地に立たされても心を落ち着かせ思考を澄ませていた。


 だがこの絶望的な膠着状態の中、思いがけない現象が起きた。


 遠く大浪湾龍隠山荘の地下深くより!


 広大で古く世の凶悪な気をすべて抑え込む強大な魂の気息が、何の前触れもなく一気に噴き出した!


 霊力は厚い地層を突き破り暗闇の靄を蹴散らし広がり、香港全体の龍脈を覆う。


 何より衝撃的なのは、この魂の本源が先天的に脳心儀の中で暴れる太古覇王の残魂を抑え、封じ、制する性質を持つことだ。


 その抑圧の力は極めて精密で万人に一つしか存在せず、今の彼に欠かせない唯一の打開策となる。


 瞬く間、脳心儀の荒れ狂う凶気は数分間静まった。


 この異変を目の当たりにした徐福は安易に喜ぶどころか眉を一層強くひそめ、疑念が胸に渦巻く。


 龍隠山荘に潜むのは月化娘一人だと把握し、周囲には長年監視する自らの控魂使徒が張り巡らされているにもかかわらず、報告のどこにも太古覇王の残魂を抑えるほどの膨大な霊力の波動など記載されていない。


 これほど膨大で純粋、凶魂を的確に抑える霊力が、龍隠山荘の地下に唐突に生まれるはずがない。


 徐福の瞳に強い警戒の色が過り、指先を軽く捻り山下に潜む控魂使徒に伝令を飛ばし、即刻山荘の地下へ潜入し霊力の源を探らせようとする。


 霊力は本物、抑圧の力も本物、生き残るきっかけも本物だ。


 だがその出所は不可解で唐突、前触れもなく極めて不自然だ。


 彼は大浪湾の方角を遠く望み、ビルや山々を越え地下の暗い潮流が渦巻く区域を眺め、無数の考えを巡らせる。


 この力が自分を絶望から救い二千年の大業をつなぐ可能性があることは理解している。


 しかし同時に彼ははっきり知っている——


 何の理由もなく訪れる活路には、理由もなく訪れる危機が伴うものだと。


 この地に龍が隠れている可能性もあれば、謀が潜んでいる可能性もある。


 徐福は異変を察し、直ちに外に潜む使徒に地下へ潜入し真相を探るよう命じつつ、胸の奥に湧く僅かな欲と安堵を抑えきれない。


 遠隔の感知で地下に何が潜むか見通せず霊力の持ち主を追跡できないため、疑念を胸に秘め推測を進め使徒の報告を待ちながら、得難い活路を見守るしかない。


 彼は到底予測できなかった——


 この天から降った唯一無二の太古凶魂を鎮める霊力が、


 龍脈の恵みでも天地の聖霊でも山水が生んだ奇跡でもないことを。


 それは一登大師の魂が最も弱まる日を計算し事前に計略を張り月化娘を誘って古寺へ向かわせ、彼女を媒介に古地を離れ香港へ潜り、銀杏の枯れ木に身を隠し千年の偽善で月化娘を欺き、多くの控魂使徒の監視をすり抜け、彼の勢力の目の前最深部に潜む千年の宿敵、離志遠自身の力だった。


 陰魂は深淵に潜み、梟雄は港に降り立つ。


 山頂の男は疑いを抱き探査を命じたが、地下の魔は既に網を張り終えていた。


 本章の伏線

 月化娘が一人古寺へ赴き枯れ木を携えて香港へ戻る、それ以前に秦陌を身を挺して守った一連の選択は、まるで何者かに見えない糸で導かれているかのようで、背後には長年緻密に練り上げられた計略が隠れている気配が漂う。


 長き間封じられていた存在がついに欲を芽生えさせ、香港に降り立ったばかりの百神幕に視線を定め、その無双の躯を狙う陰謀が水面下で練り上げられていた。


 徐福は常に控魂使徒を派遣し龍隠山荘を監視させていたが、地下から唐突に脳心儀の凶魂を鎮める膨大な霊気が湧き上がる。不可解な異変に強い疑念を抱き、直ちに地下深くへ潜入しその出所を探るよう命じた。


 二千年に渡る盤の行方を左右する均衡の力の正体とは何か。地下深くに身を隠し、幾重もの監視をすり抜けた謎の存在は、やがてどれほど収拾のつかない大波乱を引き起こすのだろうか。


 第三十一話 了

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ