第二十四話 古寺の残影、四海より局に赴く
【前書き】
世に起こる最大の波濤は、決して轟音を響かせる殺戮ではない。
それは誰もが音もなく立ち上がり、山海を隔てて同じ墓場へと駆け寄ることだ。
広西の古寺に見知らぬ者が隠れ、マカオの隠れた院で棋譜が見つめられ、日本の波濤が凶刃を運び、香港の夜闇が枯れた魂を隠す。
大幕が上がる前に、四方の駒は既に盤に置かれている。
――
広西、桂林の奥深き山間に佇む一登寺。
年中晴れることのない山霧が、古寺全体を死のような白に包み込んでいる。
回廊の木々は老け、数百年の風雨に削られ、木目には厚い埃が積もり、時にすべてを吸い尽くしたような寂寥感が漂っている。空気は冷え切り、軒先を渡る風さえ、古寺に眠る秘密を妨げまいとするように音を潜めている。
秦陌、秦正霆、紀慕雲、紀慕雪の四人が禅房の扉の前に立っていた。
寺全体が異様な静けさに包まれている。
離隠大師の姿はどこにもなく、中庭は空っぽで古木も音を立てない。ただ閉ざされた扉の奥から、かすかな呼吸音が漂ってくる。
生きた人間のものでもなければ、幽霊のものでもない。
その気配は重くゆっくりと、千年眠り続けた山が扉の奥で呼吸をしているかのようで、胸を圧迫し、思わず息を潜めさせる。
秦陌の掌にある逆龍印がうっすらと熱を帯びる。
激しい灼熱ではなく、遠くから引っ張られるような感覚で、体内を巡る血脈が寺の奥深くに眠る古き存在に引き寄せられている。中庭の千年イチョウの木の匂いが扉から漂い、さっぱりとしつつも枯れた年月の匂いが混ざり、禅院の清々しい空気に馴染めずにいた。
紀慕雪は剣の指を少し硬くし、背筋を張り、周囲の陰りを目で追うが、邪悪な気配はどこにも見つからない。
秦正霆は眉を顰め、ゆっくりと首を振る。
「妖異でも山精でもない。この寺に残されているのは、過ぎ去った時代の『霊気』だ」
紀慕雲は長い間、閉まった扉を見つめ続けた。
そして最後に指を上げ、扉に触れる。
扉は冷たく、深山の数百年分の冷気が染み込んでいる。
深く息を吸い、ゆっくりと扉を押し開ける。
蝶番が鈍い音を立て、空っぽの寺の中に響き渡り、長き間封じられていた歴史の頁が開かれるようだ。
扉が開く。
寒気も殺気も、恐ろしい光景もない。
淡い金色の光が靄のように禅房全体に広がっている。
光の真ん中に、半透明の残影が宙に浮かんでいた。
やせ細った体に色あせた僧衣をまとい、輪郭は金の靄の中で揺れ、風と共に消え去りそうだ。眼窩は空っぽで瞳はなく、二つの金色の光だけが揺れている。長い年月に削られ尽くした、魂の残り香のような気配が漂っている。
四人は一瞬足を止め、無言の警戒心が胸に広がる。
これは離隠大師ではない。
残影がゆっくりと頭を上げ、空洞な視線を四人に向け、幽かな声を響かせる。
「やっと来てくれたか……」
その声は儚く、何世紀もの時を経て届いたようだ。
紀慕雲は驚きを抑え、一歩前に出て、警戒を含んだ声で問う。
「貴様は何者か?」
「一登寺の離隠大師はどこにいる?」
残影はすぐには答えない。
揺れる体が金色の靄の中で微かに震え、最後の霊力を振り絞っているようだ。静かな空気の中、百年に渡る因縁が明かされようとしていた。
――
同じ刻。
数百キロ離れた香港、九龍の夜。
街のネオンが濃い霧に飲み込まれ、赤と青の光が湿った空気に滲み、都市全体が重苦しい靄に包まれている。街は車と人でにぎわっているが、裏側では波濤が静かに湧き上がっている。
月化娘が香港に戻ってきた。
タクシーが九龍の入り組んだ路地を走り、夜が窓を圧迫する。
彼女は座席にもたれ、無関心な表情で窓の外の景色を眺め、右手を胸に当て続けている。
胸元には白い布で包まれたイチョウの枯れ枝がある。
枯れ枝はくすんで輝きもなく、深山の古木の一部に過ぎないように見える。
なぜ彼女が広西からこの枝を持ち帰ったのか、誰も知らない。
この枯れた枝の中に、暗界の勢力図を揺るがすほどの微弱な魂の気配が封じられていることを、誰も気づかない。
車は路地に入り、九龍の濃い闇の中に消えていく。
誰も知らない計画が、彼女の帰還と共に香港の混乱の中心に落とされた。
――
海を隔てたマカオ、路環の奥深い山間。
都会の喧騒から離れ、古い隠れた院が時の中に佇んでいる。
年中海霧に濡れた石板路は滑らかに光り、塀には濃い緑の蔦が這い上がり、院内をすっぽりと隠している。錆びた銅環の古い扉は数百年人が訪れず、山間を渡る海風さえ、ここでは穏やかになる。
月の光が木々の隙間から降り注ぎ、中庭に銀の砂を撒いたように輝く。
月露聖女が月の光の下に立っていた。
濃い黒の長衣は質感が重く、襟元や裾には細やかな紋様が暗く浮かび、飾りのない落ち着いた佇まいだ。銀灰色の長い髪を烏木の簪でまとめ、頬には数本の髪が垂れ、透き通るような白い肌を際立たせている。
背筋を伸ばした姿は冷たい水のように静かで、澄んだ瞳には感情がなく、高貴で神秘的な雰囲気が漂っている。
軽い足音が院の外から響く。
同じ黒い衣をまとった門徒が音もなく歩み寄り、聖女の三歩手前で頭を下げ、低い声で報告する。
「聖女。二つの情報が届きました」
「一つ目、月化娘が広西から九龍に戻り、一登寺から持ち出した謎の古物を携えています。気配が隠されており、正体は不明です」
「二つ目、エジプトの遠征軍が出発し、近日中に香港の海域に到着します。目標は華南の暗界の核心です」
海風が蔦を渡り、塩気のある空気が聖女の髪をなびかせる。
彼女はゆっくりと瞳を上げ、澄んだ目に微かな波紋が広がる。静かな表情の裏に、全局を見通す覚悟が宿っていた。
「妹はいつも先回りして計画を立てる」
「一登寺にわざわざ入って品を持ち出すのは、ただの気まぐれではない」
清らかな声が、静かな中庭に響く。
白月化教が二千年の間守り続けてきた鉄の掟は、ただ一つ。
秦氏の血脈を守ること。
世界の均衡も、勢力の争いも、陰謀の駆け引きも、教団には関係ない。
秦氏の命が危ない時だけ、教団は立ち上がらなければならない。
月露聖女は香港の闇を眺め、遠くから棋譜を見つめるように静かに考える。
「命令を伝えよ」
「全域の月紋監視網を起動し、香港と九龍の動きを追え」
「月化娘の古物、エジプトの遠征軍、両方を記録せよ」
「自ら局に入るな、先走って混乱させるな」
「だが秦氏の血脈が危機に瀕した瞬間、白月化教は即刻介入せよ」
風がやみ、月は静かに輝き続ける。
院は再び静けさに包まれ、黒い孤影だけが嵐の訪れを待ち続けていた。
――
日本、茨城県、大洗町の埠頭。
太平洋の夜風は冷たく、濃い霧を連れて防波堤を叩き、波の音が果てしなく響いている。
漁港の灯りは少なく、遠洋貨物船が停泊し、黒い海面に揺れる灯りは遠く寂しい。
約束の日まで、あと一ヶ月を切った。
藤原一也が埠頭の柵に凭れ、黒い服をまとい、冷めた表情で海を眺めていた。
脇には厚い布で何重にも包まれた長い荷物が抱えられている。布の隙間から、妖刀『百爪』の殺気が漏れ出している。
怨念と殺気に満ちた、術法で封じられた凶悪な刀だ。
空港の霊気探知機や術式スキャンではすぐに見破られるため、飛行機に乗ることはできない。正規の荷物預けは痕跡が残り、徐福勢力や陰陽寮に追跡されるだろう。
刀を携えて日本を離れ、香港へ行く唯一の道は、海路しかない。
彼はスマホを見下ろし、遠洋船のチケットを確認する。
数日後、大洗を出航する貨物船が、彼と封印された妖刀を乗せて香港へ南下する。
徐福の支配から逃れ、宿命を断ち切る決意は、チケットと共に揺るぎないものになった。
東海の波は激しく、前途には嵐が待っている。
一人、一刀、広大な海を渡る孤しい旅が始まる。
――
同じ頃、日本の別の場所。
血山舎が一斉に動き出した。
教祖が二十数名の核心信者を率いるが、一箇所に集まって行動することはない。
目立たないように小隊に分かれ、服装を変え、観光客やビジネスマンを装い、日時の異なる国際線チケットを購入する。
二十数人は分散し、次々と香港に降り立つ。
音もなく都市に潜り、到着と同時に姿を消す。
喧嘩もせず、行動も起こさず、ただ街の隅々に隠れて命令を待っている。
この瞬間。
広西の古寺に残影が眠り、
香港の裏路地に枯れ枝が隠れ、
マカオの院で全局が見つめられ、
海を渡る船に凶刃が乗り、
異国の信者が都市に潜む。
四方の勢力が香港に集まり始めた。
華やかさと闇が共存するこの都市は、暗界の棋譜の中心となった。
文明を跨ぐ大乱が、
今まさに始まろうとしている。
第二十四話 了




