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脳心儀  作者: 八島秦
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第二十三話 九龍の戦火、浮世の別れ

【前書き】

 人の世の争いは街路の細部から芽生え、運命の波動は千里の隔たりを優に超え、異なる土地同士を密接に繋ぎ合わせている。香港の暗い路地で小さな衝突が勃発した瞬間、長年保たれてきた街全体の勢力均衡は脆くも崩れ落ち、大規模な勢力掃討作戦が堂々と幕を開けた。同時に、日本の深い深山では長年傀儡として生き続けた男がついに自我を取り戻し、束縛を断ち切ろうと決意を固め、遥か中国・桂林の奥深くに佇む古寺は、予期せぬ重たい静寂にすっぽりと閉ざされる。三つの地域、三つの異なる運命が同じタイミングで動き出し、陰陽両界の秩序を大きく揺るがす新たな乱局が、この瞬間を起点として本格的に始まる。


 香港、九龍城。


 都会の煌々たる繁栄の裏側、四方を高層ビルに囲まれたこの歴史ある旧城寨は、太陽の光が届きにくい永遠の陰影地帯となっている。幾重にも重なり合う古い建物が空を細く切り取り、街路全体には長い年月をかけて澱んだ湿気と、古い街並み特有の冷たい気流が一年中漂い続けている。錆びて朽ちた鉄の扉、雨風に晒され褪せた看板、年月の痕跡が刻まれた斑入りの壁面が連なる細い路地は、一般の市井の人々の目には、秩序の乱れた無法地帯にしか見えない。


 だが陰陽の境界を渡り、異なる法則の世界を知る者にとって、ここは香港全域の中でも最も邪気が濃く、地脈の流れが脆弱な危険区域である。


 守霊師は長い年月をかけてこの街に深く潜伏し、数千人に及ぶ門徒を街のあらゆる場所に散らし、誰もが気づかぬよう市井の人々に紛れながら、乱れた気の流れを鎮め、街中をさすらう無数の亡霊を抑え続けてきた。派手な法壇を構えて力を誇示することも、公然と勢力を争うこともせず、ただ黙々と香港の裏側の秩序を支え続けていたのだ。


 この九龍城は、そんな守霊師の活動拠点の中でも最前線の一つであり、毎日複数の門徒が交代で巡回を行い、異変の有無を見張っている。


 この日、巡回任務を担当したのは、修練歴が浅く経験も少ない五人の普通の門徒たちだ。


 彼らは突出した秘術や圧倒的な力を持たず、ただ門の定めた規律を厳守し、与えられた任務を忠実に遂行するだけの、最下層に位置する門徒である。いつものようにゆっくりと街路を進み、周囲の気流の乱れを探りながら、平穏な巡回の時間を過ごしていた。


 だが、今日の九龍城はこれまでとはまったく違っていた。


 朝から風の流れが不自然に澱み、空気の温度が急激に低下し、街路の隅々から言葉にならぬ怨嗟の音がじわじわと滲み出てくる。それは亡霊たちの幽かな囁きであり、耳に届くだけで聞く者の精神を徐々に乱していく異質な響きだ。


 五人の門徒は同時に足を止め、全身の警戒心を最大限に高めた。


「異気だ。」


 たった一言の合図で、全員が即座に集まり、基礎的な防御陣形を組み上げる。


 次の瞬間、路地の最深部に長年積もり続けた濃い影がゆっくりと蠢き、一人の男が静かに姿を現した。


 徐福配下——魂操りの使徒。


 彼は武術の技も、陣法や各種術式も主とはせず、この世で最も邪悪とされる魂の秘術を操る存在である。相手の肉体を攻撃するのではなく、直接魂と精神の根幹を砕くため、通常の修練者にとってはまず防ぐことが困難な相手だ。


 冷ややかな無表情の瞳で五人の門徒を眺め渡し、使徒は淡く軽蔑したような笑みを浮かべた。


「守霊師の小さな駒が、わざわざ道を塞ぐとは。」


 余計な身振りや言葉は一切ない。


 彼は指一本も動かさず、ただ一念を込めるだけで、強大な魂圧が周囲に向けて一気に炸裂した。


 漆黒の波動が瞬く間に路地全体を覆い尽くし、門徒たちが精いって張り上げた気の結界は、紙切れのようにあっさりと砕け散る。最前に立っていた二人は精神を直接打ち抜かれ、脳内に激しい衝撃が走り、悲鳴を上げる余裕もなく体を硬直させ、その場に崩れ落ちて完全に意識を失った。


 残った三人は最後に残された気力をすべて振り絞り、体内で乱れ狂う精神を抑え込もうと必死に耐え続ける。修練経験も浅く、力も到底及ばない彼らにとって、魂操りの術は天敵と言っても過言ではなく、この抵抗も無意味に近い状況だった。


 使徒は感情を一切挟まず、冷徹に追撃の力を放つ。


「抗うな、無駄なことだ。」


 二度目の魂衝が静まり返った街路に降り注ぎ、残った三人も次々と重度の傷を負い、気絶したまま地面に伏した。


 たった数十秒の短い攻防。


 五人の巡回門徒は全員が重度の昏睡状態に陥り、九龍城の冷たく湿った地面に横たわった。


 使徒は彼らを敢えて殺すことはせず、これが周囲への明確な警告であると示すように、何事もなかったかの様子で、再び濃い影の中へと静かに消え去った。


 ——守霊師が香港で築き上げた支配体制は、もう終わりを迎える。


 この短い衝突の報せは瞬く間に街中を伝い、ただちに李先生の私室へと届いた。


 高層建物の奥にある静かな私室。


 李先生は部下の詳細な報告を最後まで聞き終え、表面に怒りや驚きといった感情を一切見せず、長い沈黙を保った。長年対立してきた相手の動き、街の勢力図の変化を頭の中で整理した後、ついに冷徹で揺るぎない最終決断を下した。


「全域掃討作戦を正式に開始せよ。」


「香港四大闇組織、及び警察の執法部隊を完全動員せよ。十五日の期限内に、香港全域に潜伏する守霊師の門徒二千人を殲滅、または拘束せよ。」


「すべての隠密拠点、地下の連絡網、往来ルートを完全に破壊し、守霊師が現在香港で保有する勢力を、百パーセントから十パーセント以下まで一気に削減する。」


 この一言をきっかけに、香港の表の世界と裏の世界、二つの勢力が同時に大きく動き出す。


 街の暗部は一気に緊張感に包まれ、長年均衡を保ってきた勢力構図が崩れ、大掛かりな勢力戦争の幕が、ついに開かれた。

 千里の隔たりを超えた場所、日本・栃木県、鬼怒川の深山。


 一年中濃い霧に閉ざされたこの山間地帯は、人の足がめったに踏み入らない自然豊かな秘境である。大木が深く生い茂り、冷たい風が木々の間を抜け、古い時代の空気がそのままこの地に残されている。


 山の最奥地に、長い年月を経て廃寺となった古刹がひっそりと佇んでいる。


 ここは藤原家代々の隠棲地であり、世間にその存在すら知られることのない、極秘の場所だ。


 荒れ果てた本堂の中央、古びた木製の祭壇には、たった一枚の木札だけが寂しく立てられている。


『父 藤原次郎』


 藤原一也は質素な黒い衣を身にまとい、静かに祭壇の前に立ち、長い時間をかけてその木札を見つめ続けていた。自身の生まれや境遇、これまで歩んできた道が次々と胸によぎり、複雑な思いが渦を巻いていた。


 誰も知らないこの廃寺に、今日突如、香港からの極秘情報が届けられた。


 九龍城で起きた門徒と魂操り使徒の衝突、使徒の襲撃経緯、そして李先生が発動した全域掃討命令——あまりに詳細で、あまりにタイミングが良い情報だ。


 藤原一也は瞳を深く沈め、低い声で独り言を囁いた。


「一体誰が、この情報をわざわざ私に届けたのか。」


 自分の潜伏場所、立場、過去のすべては徹底的に秘匿されているはずなのに、これほど核心に迫る情報が、何者かの手によってここへ届けられた。相手の素性も真の目的も、善意なのか悪意なのか、まったく読み取ることができない。


 だが長い沈黙と内省の末、藤原一也はすべての疑惑を心の隅に捨て去った。


 裏に隠された思惑、複雑な盤上の駆け引き、誰かの陰謀など、今の自分にはどうでも良いことだ。


「私は香港へ行く。」


 彼の瞳の奥に、長年心に抑え込み続けた強い決意が一気に溢れ出す。


「この半生、私はずっと徐福の手の中にある傀儡だった。思いのままに操られ、利用され、ただの盤上の駒として生きてきた。」


「もう、誰にも縛られたくない。誰の命令にも従いたくない。」


「自分の目で真実を確かめ、自分の足で運命を選び取る。この閉ざされた棋局から、完全に抜け出す。」


 霧に包まれた日本の深山の中で、彼の運命の歯車は完全に逆回転を始めた。藤原一也は海を渡り、自ら香港の大混乱の中心へと踏み込むことを固く決めた。

 視線は再び遥か彼方、中国・広西、桂林へと移る。


 幾重にも連なる雄大な山々、曲がりくねった険しい山道、人里から遠く離れた深い林地。


 秦陌、紀慕雲を含む四人の一行は、長時間の過酷な移動を経て、ついに目指す目的地・一登寺へと辿り着いた。


 ここは離隠大師が長年隠棲し、修行を続ける清らかな古寺であり、一行が千里の道を隔てて探し求めてきた、重要な場所だ。


 普段の一登寺は穏やかな禅気に満ち、風の音、鳥のさえずり、木の葉が揺れる音だけが響き渡る、静かで心落ち着く安らぎの地だ。


 しかし今日の一登寺は、あまりに異様な雰囲気に覆われていた。


 広大な庭園、長い回廊、本堂、脇の部屋、そして禅房——寺の内外すべての場所から、完全に人の気配が消え去っている。


 僧侶の姿も、日常の生活の痕跡も、読経の声も、灯りの気配も一切残っていない。かつて寺全体に満ちていた温かみのある禅気は跡形もなく消え、空洞で冷たい重たい静寂だけが、寺の隅々までを覆い尽くしている。


 離隠大師は決して無闇に寺を離れるような人物ではない。


 この異常な光景を目にし、四人全員の胸に強烈な不安と焦りが押し寄せた。


 紀慕雲は内心の焦りを隠しきれず、足を速めて長い回廊を抜け、離隠大師が日々過ごす禅房の扉へと全力で駆け寄った。


 分厚い木製の扉は固く閉ざされ、微動だにすることはない。


 この静かすぎる古寺の空白の裏側に、何か大きな異変と謎が隠されているのは明らかだ。


【章末懸念】


 誰一人姿を見せないはずの一登寺。


 紀慕雲は固く閉ざされた禅房の扉の真正面に立ち、緊張に身を固めながら指を伸ばし、扉を開けようとした。


 この瞬間、寺全体は空中を舞う塵が落ちる音さえ鮮明に聞こえるほど、完全な静寂に包まれていた。


 だが次の刹那——


 扉の細い隙間から、微かに、だが確かに響く音が漏れ出た。


 それは重く、荒く、淀んだ、離隠大師のものとはまったく異なる、見知らぬ人の呼吸音だった。


 同時に、これまで一行が一度も感じたことのない、異質で得体の知れない気配が、扉の奥からゆっくりと滲み出てくる。


 誰もいないと思い込んでいたこの古寺の奥底に、

 彼らがこれまで一切気づかなかった未知の存在が、ずっと潜み続けていたのだ——


 第二十三話 了


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