第18話 残雲に宿命を受け、覇魂が主を蝕み、古魂の秘術が天を窺う
【前書き】
世の中、安穏に見える情勢はすべて嵐が迫る直前の儚き仮相に過ぎない。
深山で新たな道を踏み出す者、高き屋敷で魂が崩壊しかかる者、遠き異国で禁忌の秘法を起こす者。三方の運命が一斉に動き出し、これより世に安らげる場所など何処にも無くなる。
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広西の奥深き山林、幾重にも重なる山々に古木が根を絡ませ空を覆い隠す。人里から遠く隔たり、方圓数百里に人の姿は無く、年中濃霧が山を閉ざし、湿った陰気が長年澱んでいる。香港元朗万人古墳に渦巻く屍煞の気や異国古壇の妖しき秘術と比べ、この南の深山は乱世に残る稀な清浄の地だ。
崖辺の風は穏やか、木々の影は静かに垂れる。紀慕雲は崖際に立ち、薄い素の着物は山霧で冷たく湿っている。表情は穏やかだが、瞳の奥には人の命の行く末を見通した憂鬱が宿る。数日に渡り秦陌の心の変化を見守った末、彼は己だけの残命向け奥義を授ける決心を固めた。
目の前の秦陌は腰を曲げ慎ましく立ち、体は凛としつつも鋭気を隠している。幾度も追われ謀られ、逃げ惑う日々を経て少年は世間知らぬ幼さを脱ぎ捨てた。陰謀の無情、秘術の恐ろしさを目の当たりにし、逃げるしか術の無い無力さを味わったからこそ、生き抜きたいという執念が心に深く根付いている。
「お前の運命は定まらず、天との縁が薄く、一生災厄にまみれる。」紀慕雲は霧を突き抜ける穏やかな声で語る。「正統な道は円満と中庸、天に従うことを旨とするが、お前の生まれ持った命は、そもそも天に従う運命では無い。これより『残雲訣』を授ける。この術は天下一を目指す名声も、不老長寿も、世を支配する力も求めず、ただ崩れゆく乱世、災厄が押し寄せる時、己の生きる糧を守るためだけに存在する。」
言葉が落ちると、掌から淡い灰色の雲気が湧き上がる。強く刺す気も鋭い殺気も無く、風に従って散ったり集まったり、まるで儚い世の有り様を映す。一見儚い雲の隙間に、攻撃を躱し勢いを逸らし、窮地を打開する真髄が秘められている。
紀慕雲は一切を隠さず、自ら編み出した訣の気の巡り、経絡の切り替わり、攻防の要諦、心の修め方をすべて柔らかな雲息に変え、ゆっくり秦陌の体内へと流し込む。一瞬で力を与える安易な灌頂では無く、少しずつ根幹を作り変える洗礼だ。
灰色の残雲気が百脈を辿り、逃げ回った疲労、乱れた邪気、不安の残滓を一つずつ洗い流し、乱れた気海を整え再構築する。秦陌は目を閉じ眉を少しひそめ、体内の変化を感じながら心法を暗記する。定まらなかった気が秩序を持ち、自在に操れるようになる。
風が止まり霧も静止、山全体がこの授業のために時を止めたかのようだ。しばらくして最後の残雲真意が秦陌の気海に落ち、伝授は完了する。
「これより残雲が身に宿り、殺気を避け乱世を生き抜ける。だが忘れてはならない、残りの道は生まれつき孤高で、この訣を修める限り、世の円満な幸せとは縁が無く、終生壊れた世界の中で生き、嵐の中で立ち続けねばならない。」
秦陌はゆっくり目を開き、瞳に細やかな雲の光が揺れ、澄んで落ち着き幼さは跡形も無い。深く腰を折り礼を述べる。「師の教えを肝に銘じます。」
深山は穏やかな静寂に包まれ、紛争から隔絶された嶺の上で、少年は己の運命に逆らう第一歩を刻んだ。
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千里離れた香港、山頂に佇む豪邸。高い位置から街を一望でき、室内は窓も机も整い豪奢で静か、徐福が千年の計略の中で唯一安らげる場所だ。だが部屋の上品な気配も、元朗万人古墳から持ち帰った陰気な屍煞を抑えきれない。
徐福は先ほど単身で地底の屍だらけの古墳を脱出した。腐敗した屍の気、千年積もった怨念、深淵の死の気が今も衣や肌、魂の隙間に纏わりついている。傍目には難なく古墳を制した余裕の姿だが、徐福自身は知っている。今回の探検は手がかりを得たように見え、知らぬ間に魂に滅びの禍を植え付けてしまったのだ。邸宅に入りソファに腰を下ろし、気を緩め体内の濁気を落ち着かせようとした。
警戒の心を緩め、地底の濁気から地上の清らかな空気へ環境が切り替わった刹那――ドゴン!
体内の奥底から太古で横暴、天下を圧する凶悪な意思が突如炸裂する。どの王朝の帝王をも凌駕し、史書からも抹消された、元朗万人古墳の最深部に万年眠り、屍の怨念に養われた太古覇王の残魂だ。地底の濁気に包まれている間は魂は潜んで息をひそめていたが、古墳の束縛を離れ陽の世に出た瞬間、抑えていた枷が外れ万年の凶性が爆発する。
一つの肉体の中で二つの魂が激しくぶつかり合う。穏やかな駆け引きでは無く、魂を引き裂き飲み込む生死の争いだ。千年、天下を計り冷静を保ち続けた徐福の心も初めて乱れる。一方は千年鍛え上げた冷徹な自らの魂、一方は万物を飲み込まんとする太古覇王の獰猛な原始の意思。
指が力のあまり掌に食い込み、徐福の顔に張り付いた万年の冷徹さは薄氷の如く砕け散る。一生人の運命を操ってきた彼は、まさか自身が肉体の囚人になるとは思いもしなかった。邸宅全体が激しく揺れ、窓ガラスが鳴り響き、室内の灯りは明暗を繰り返す。
徐福は歯を食いしばり、千年の修練と魂の底力を全て振り絞り、目覚めた凶魂を必死に抑え込む。一瞬一瞬が魂飛び散る瀬戸際だ。この時初めて彼は悟る。元朗古墳に眠る太古の存在の凶威と野性は、自身の千年の予測を遥かに超えていた。この古墳行きで、自ら絶世の凶魂を体内に連れ込んだのだと。
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万里隔たるエジプト、アバイドス古代遺跡。砂漠の地底深くに埋もれた千年神壇は年中天光に恵まれず、石壁には歳月に削られた太古の紋様が刻まれ、空気は凍りついたように静まり返る。ここはアバイドス舌狩り教団の核心的な禁地だ。
長年に渡り天機を推し測り、布陣して探し続けても脳心儀の行方は霞の如く掴めず、世間の常なる捜索術や天を窺う秘術は悉く無駄に終わった。幾度も空振りに終わり、教団の忍耐は尽き果てる。真の行方を探すため、上古の掟を破り、自身の魂と寿命を犠牲に禁忌の奥義を起こす。
祭壇中央に漆黒の呪紋が順次灯り、禁忌の領域が広がっていく。天地に漂う太古の残魂、砕けた霊識が呪力で虚から引き寄せられ、祭壇の周囲を旋回し咆える。
舌狩りの術者が陣の中心に立ち、冷たく茫漠とした声が千年の暗い殿内に響き渡る。
「天地も隠せぬ、万法も覆えぬ。時空さえも隔絶し得ぬ。古魂が目を開ける時、世の秘は何一つ逃れられぬ。」
太古禁忌奥義・古魂奥術が始動する。術の力は土地に縛られず大洋を越え、空間の壁を引き裂き、全ての隠蔽と偽装を剥ぐ。亡霊で編まれた無形の網が現実と虚の隙間を彷徨い、天地を覆う。長年姿を隠し続けた脳心儀の気配が初めて微かに震え、隠された真の痕跡に細やかな亀裂が生まれる。
【結末の伏線】
深山の少年は残雲の道基を得、自らを守り運命に逆らう糧を手に入れた。
山頂の千年の謀士は古魂に蝕まれ、天下を算じ続けた身が魂の災厄に囚われる。
異国の古教は太古禁忌術を起こし、長年秘匿された至宝がまもなく露見しようとしている。
だが誰も知らない――元朗万人古墳から目覚めた正体不明の太古覇王残魂は、徐福の体内で魂を喰らう狂乱の中、目的がただ肉体を奪うことだけでは無いのだ。万年の眠りから目覚めた真の狙いは、まさに古魂奥術に探し出されようとしている至宝、脳心儀にある。
第十八話 了




