第9話 「断れなかった」
次の日、休みだった。
夜勤明けから丸一日寝て、夜になってようやく起き上がった。
カーテンの外が暗い。
何時か、スマホを見たら二十一時だった。
起きた、というより夜に引き上げられた感覚だった。
シャワーを浴びながら、昨日のことを考えた。
「なんで何も感じないんですか」と言ったとき、自分でも止められなかった。
言葉が出てから「ああ、言ってしまった」と気づいた。
あの時点で何を求めていたのか、今でも分からない。
謝罪か。
説明か。
感情の欠片でもいいから見せてほしかったのか。
「感じたら、続けられないからです」
その答えは、正確だったのかもしれない。
でも私には受け取れなかった。
受け取れないまま、コーヒーを飲んで、帰った。
翌朝、次のシフトを確認したとき、また木本先生の名前があった。
師長室に行ったのは、午後の日勤に入った最初の日だった。
「シフトのことで相談があるんですが」
師長の田村さんは四十代半ばで、この病院のベテランだった。
私の話を聞きながら、手元の用紙を見ていた。
「木本先生との夜勤、少し外してもらえないかと思って」
「理由は?」
どう言うか考えた。
「苦手で」と言うのは正確じゃない気がした。
「やりにくくて」というのも違う。
「精神的に消耗するので」というのが一番近かったが、それを言うのも恥ずかしかった。
「……うまく連携が取れていなくて」
「そう。でもね」田村師長は顔を上げた。
「今夜も来週も、もう人が決まってるの。欠員が二名出てて、組み換えは今の段階では難しい」
「そうですか」
「仕事上の問題があれば別途話し合いの場を設けるけど、そういう感じじゃないのよね?」
はい、と私は言った。
「じゃあ、もう少し様子を見て。何か困ったことがあれば相談して」
それで終わった。
廊下に出たとき、まさこさんとすれ違った。
「どうしたの、師長室から出てきて」
「シフトの相談をしようとしたんですけど、無理でした」
「木本先生のこと?」
私は少し驚いた。
まさこさんは「そういう顔してる」と言った。
「苦手になった?」
「苦手、というか」
「なんか、あった?」
どこまで話すか、迷った。
「問い詰めてしまって」と言うと、まさこさんが少し眉を動かした。
「患者さんのことで感情が動かないことについて」と続けると、まさこさんは廊下の壁に少し寄りかかって、腕を組んだ。
「あの先生は、そういう人なんだと思う」
「慣れてるから?」
「慣れてる、ていうのともまた違くて」まさこさんは少し考えてから言った。
「慣れるってのは、最初は感じてたのが薄くなっていく話じゃない。あの先生は最初からそっちに振り切れてる感じ。理由は知らないけど」
「……慣れるしかない、ですかね」
「あんたが?」まさこさんが私を見た。
「あの先生に?」
「あの先生への、私の対応が」
まさこさんは少しの間、私の顔を見た。
「まあ、そうね」と言った。
「今更シフト変えてもらっても、また組むことになるんだし」
それだけ言って、「お疲れ様」と廊下の奥へ歩いていった。
昼休みに、同期の川田さんと食堂で一緒になった。
川田さんは同い年で、同じ病棟に配属されてもう七年になる。
最近、少し疲れた顔をしていると思っていた。
「白石、最近どう?」と川田さんが言った。
「どう、というか」
「私さ、ちょっと考えてることがあって」
川田さんは箸を置いた。
「辞めようかなって」
「辞める?」
「旦那が転勤になるかもしれなくて、それをきっかけに、もう辞めてもいいかなって思って」
川田さんは声を落とした。
「子どものこともあるし。病院の仕事続けながら、全部やっていくのって、しんどいじゃないですか」
「……そうだね」
「白石はどう? 続けるよね」
私は少し考えた。
辞める選択肢が、私にあるか。
あると言えばある。
でも具体的に考えたことがなかった。
辞めるとしたら何をするか、どこへ行くか、思い浮かばなかった。
七年かけて、この仕事の形に自分を収めてきたから、その外の形がもう見えない。
「続けると思う」
そう言いながら、「なぜか」は答えられなかった。
川田さんは「そっか」と言って、また食事に戻った。
「羨ましいな、続けられる人って」と言った。
羨ましい、というのが自分に向けられているとは思えなかったが、私は何も言わなかった。
続けている理由が、私にも分からなかったから。
その週の夜勤は、木本先生と組むことになっていた。
意識的に距離を置こうとした。
夜勤中、必要なこと以外は話しかけなかった。
処置の補助も最低限にした。
「何か変わったか」と木本先生に気づいてほしいと思う気持ちと、「どうせ気づかない」という確信が、同時にあった。
夜勤の途中、薬の確認で同じ棚の前に立った。
木本先生が先にいて、私が来た。
彼は少しずれて、スペースを作った。
何も言わなかった。
私も何も言わなかった。
気づいているのかいないのか、分からなかった。
それが余計に消耗した。
無関心なのか、気を使っているのか、どちらも区別がつかない人というのが、こんなに疲れるとは知らなかった。
夜勤明け。
更衣室から出たとき、私はベンチの方へ向かわずに、エレベーターに直接向かおうとした。
今日は断ろう、と思っていた。
コーヒーを断れば、この距離は保てる。
それだけのことだった。
でも廊下の角を曲がったとき、木本先生がすでにベンチに座っていた。
缶コーヒーが二本。
いつも通り。
私を見て、片方を差し出した。
断ろうとした。
「今日は」と言いかけて、止まった。
彼は何も言わなかった。
ただ缶を差し出したまま、私を見ていた。
急かすわけでも、引っ込めるわけでもなく、ただそこに持っていた。
受け取った。
自分でも、なぜ受け取ったのか分からなかった。
座った。
窓の外が白くなっていた。
コーヒーを飲んだ。
今日も苦かった。
でも飲んだ。
なんで断れないんだろう、と思った。
答えは出なかった。
出なかったまま、朝の光が少しずつ強くなった。




