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第8話 「なんで何も感じないんですか」

 その夜勤が始まったとき、空気が違うと感じた。


 感じる、というのは比喩ではなく、実際に身体が先に知る。

 廊下の温度、ナースステーションの緊張感、引き継ぎのときのまさこさんの声のテンション。

 言葉になる前に、今夜は重いと分かる。

 七年でそういう感覚が育ってしまった。

 それを便利だと思ったことはない。


「急患の受け入れが一件、夜中に来る可能性がある。ICUとの連携で内科も動くから、その場合は木本先生が主担当になる」

 まさこさんが淡々と言った。

 私はメモを取りながら頷いた。

「あと二十三床の藤本さん、今日の午後から数値が不安定。夜中に変化があるかもしれないから、見回り頻度を上げて」

「分かりました」

 二十三床の藤本さんは六十二歳の男性で、入院してから三週間になる。

 心疾患の悪化で入院してきて、今週に入ってから状態が落ち着いていなかった。

 会話はできる。

 でも顔色は良くない。

 見回りに行くたびに「また来たの」と言って笑う人だった。


 午後十一時を過ぎてすぐ、急患が来た。

 交通事故の外傷、四十代男性。

 救急から連絡が入って、処置室に走った。

 木本先生は私より先に来ていた。

 処置が始まった。

 私は補助につきながら、次に何が必要かを読んで動いた。

 この動きは今では体が覚えている。

 思考より先に手が動く。


 処置は一時間以上かかった。

 急変もあった。

 木本先生の指示は速く、正確だった。

 迷いがなかった。

 私は指示通りに動きながら、片方で患者の状態を見ていた。

 安定した。

 取り返せた。

 処置室から患者がICUに移されたとき、私は少し息をついた。

 木本先生はそのままカルテを書き始めた。

「お疲れ様でした」と私は言った。

 彼は顔を上げずに「はい」と言った。

 それだけだった。


 深夜一時半、藤本さんのアラームが鳴った。

 走った。

 木本先生に連絡しながら、処置の準備をした。

 病室に入ると、藤本さんは目を開けていた。

 意識はある。

 でも呼吸が浅く、モニターの数値が落ちていた。

「大丈夫ですか」

「……分かんない」と藤本さんは言った。

「なんか、変な感じがして」

「今、先生が来ます。動かないでください」

 木本先生が来た。

 処置が始まった。

 今度は長かった。

 私はずっと補助についていた。

 藤本さんの意識が落ちた。

 木本先生の動きが変わった。

 処置が続いた。


 午前二時五十分。

 木本先生が手を止めた。

「……二時五十一分、確認します」

 声が聞こえた。

 平坦な声だった。

 今日で何度目かの、その声。

 私は記録用紙にペンを走らせた。

 手が動いている間は、考えなくて済む。


 藤本さんの家族への連絡は木本先生が取り仕切った。

 深夜に来た息子さんは三十代くらいで、私の顔を見て「先生は?」と聞いた。

「こちらです」と木本先生を示した。

 木本先生が「この度はご愁傷様でした」と言った。

 息子さんが崩れた。

 泣いた。


 木本先生は続けた。

 今の状態の説明。

 今後の手続きの説明。

 必要な情報を過不足なく伝えた。

 声には感情がなかった。

 でも言葉は正確で、息子さんを置き去りにするような話し方ではなかった。


 私はそばにいた。

 息子さんの背中を見ながら、「また来た」と思った。

 また誰かが泣いていて、木本先生が説明していて、私は何もできずにそこに立っている。

 見回りに戻った。

 残りの患者を確認した。

 朝までの時間が、また始まった。


 夜明け前の五時を過ぎたころ、休憩室で十分だけ座った。

 コーヒーを買う気にもなれなかった。

 ただ椅子に座って、窓の外の暗さを見ていた。

 まだ白くなっていない。

 今夜の夜明けは遅い気がした。

 実際は同じ時間に来るのに、そう感じるのは私の内側の問題だと分かっていた。


 息子さんが泣いていた顔が、目に残っていた。

 藤本さんは三週間いた。

「また来たの」と言って笑う人だった。

 私はその笑い方が好きだった。

 心疾患を抱えた六十二歳が、深夜に一人で病室にいて、それでも看護師に「また来たの」と笑いながら言える、その強さのようなものが。


 今夜でそれが終わった。

 木本先生は今、書類を書いている。

 廊下のどこかで。

 彼の中で今夜は何番目の死になるのか、私には分からない。

 そして彼の顔は、松田さんのときと同じで、藤本さんのときと同じで、どの患者のときと同じで、何も変わらないだろう。


 八時四十分、申し送りを終えた。

 いつものベンチに木本先生がいた。

 缶コーヒーが二本。

 いつも通りだった。

 私は受け取って、隣に座った。


 今夜は長かった。

 急患が一件、コードブルーが一件、夜を通してろくに休めなかった。

 身体の重さとは別に、頭の中が静かすぎる感じがあった。

 感情が疲れると、こういう状態になる。

 しばらく、何も言わなかった。


 木本先生はコーヒーを飲んでいた。

 今夜もいつも通りの顔をしていた。

 急患の処置も、藤本さんの死亡確認も、息子さんへの説明も、全部通り過ぎてきたはずなのに、それが残っていない顔をしていた。

 私の中で、何かが積み上がってきた。


 松田さんのときから、ずっと積み上がっていた。「引っかかった」と思って、それでも言えなくて、また夜勤に来て、また誰かが死んで、また彼が同じ顔をしていて。

「……なんで」

 声が出た。

 自分でも止められなかった。

「なんで、何も感じないんですか」

 木本先生が私を見た。

「患者さんが亡くなって、ご家族が泣いてるのに。あなたはずっと、何も変わらない顔をしてる。松田さんのときも、今日の藤本さんのときも。なんで」


 彼は何も言わなかった。

 数秒、沈黙があった。

 私はその沈黙の中で、自分が今どんな顔をしているか分からなかった。

 怒っているのか、泣きそうなのか、ただ疲れているのか。

 全部が混ざって、輪郭がなくなっていた。


「……感じたら、続けられないからです」

 木本先生が言った。

 声は静かだった。

 怒っていなかった。

 弁解もしていなかった。

 ただ、答えた。


「それって」

 何かを言おうとした。

「それって逃げてるってことじゃないですか」と言いたかったのか、「それって、正しいんですか」と言いたかったのか、「それって、悲しくないんですか」と言いたかったのか。

 どれかは分からないまま、言葉が途中で止まった。


「コーヒー、冷めますよ」

 木本先生が言った。

 私は缶を見た。

 コーヒーを飲んだ。

 苦かった。

 今日の苦さは、いつもより重かった。


 木本先生はそれ以上何も言わなかった。

 私も言わなかった。

 しばらくして、彼が先に立ち上がって去った。

「では」と言わなかった。

 今日は言わなかった。

 私は缶を持ったまま、窓の外が明るくなるのを見ていた。


 帰り道、駅のホームで電車を待っていると、涙が出た。

 なぜ、とは考えなかった。

 考えようとしたが、分からなかった。

 藤本さんのためか。

 松田さんのためか。

 息子さんの泣いていた顔のためか。

 それとも「感じたら続けられない」と言った木本先生のためか。

 どれかは決められなかった。

 たぶん、どれかひとつではなかった。


 電車が来た。

 乗り込んだ。

 窓の外が流れた。

 涙が止まらないまま、それでも表情は普通だった。

 夜勤明けの電車には、泣いている人間などいない。

 だから私の涙を見て止まる人もいなかった。

 それで良かった、と思った。

 涙の理由が分からないまま、家まで帰り着いた。

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