表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
6/11

第6話 「手の温度」

 木本先生がさやかさんの診察をするのに、私が補助についたのは木曜の午前だった。


 診察室に入ると、さやかさんはいつものように「よろしくお願いします」と言いながら笑った。

 木本先生は「どうぞ」と言って椅子を示した。

 感情の起伏がない、いつも通りの声だった。


 診察は二十分ほどかかった。

 木本先生の説明は丁寧だった。

 現在の経過、今後の化学療法のスケジュール、考えられる副作用とその対処法。

 言葉を選んで、必要なことを順番に話した。

 さやかさんが「副作用って、どのくらいから出ますか」と聞くと、「個人差がありますが、最初の投与から一週間前後が多いです。変化があればすぐに連絡してください」と答えた。

「変化って、具体的にどんな感じですか」

「吐き気、発熱、手足のしびれ。気になることが何かあれば、小さなことでも言ってください」

「はい」

「質問はありますか」

「……先生、怖い顔してるから言いにくいんですけど」さやかさんが笑いながら言った。

「全部教えてもらえるって思っていいですか」


 木本先生は一瞬間を置いた。

「はい」と言った。

 それだけだった。

「もちろんです」でも「大丈夫ですよ」でもなく、「はい」だった。

 でもさやかさんは「ありがとうございます」と言って、少し表情が和らいだ。

「はい」の一言で、何かが伝わったのだろう。

 私には、その「何か」の正体がよく分からなかった。


 診察が終わって、さやかさんが病室に戻っていった。

 私も廊下に出ると、さやかさんが少し待っていた。

 木本先生はまだ中で記録を書いている。

「白石さん」とさやかさんが言った。

「はい」

「先生、笑わないですよね」

「……そうですね」

「でも手が温かいんです。診るとき、いつも」

 さやかさんは少し不思議そうに言った。

「聴診器当てるときとか、触れるときとか。なんか、安心するんですよね。変ですか」

「変じゃないですよ」

「先生のこと、最初怖いなって思ったんですけど」さやかさんが言った。

「なんか、この人は信用できるな、ってなってきました。理由うまく言えないんですけど」

 私は「よかったです」と言った。


 それが正確な言葉かどうか、分からなかった。

「よかった」という感情があったのは確かだった。

 でも同時に、少し複雑な気持ちもあった。

 さやかさんが「信用できる」と感じているものが何なのかを、私はうまく理解できていなかった。


 夜勤明けのコーヒー。

 木本先生がさやかさんの病状について話した。

 今後の化学療法の方針、想定される副作用のリスク、追加検査の必要性。

 声は平坦で、感情の揺れがない。

 情報として正確だった。


 私は聞きながら、「人として話してほしい」と思った。

 さやかさんのことを、患者として話すのではなく、三十五歳で、三歳の子どもがいて、病院の食堂のコーヒーが好きで、怖いけど笑っている人として、話してほしいと思った。

 でもそれは言えなかった。

 言ったところで何が変わるのか、分からなかった。

 そして木本先生が「患者として話している」のと「人として話していない」のは、私の感じ方であって、事実かどうかは別の話かもしれなかった。

「ありがとうございます」と私は言った。

「次の検査は来週月曜の予定です」と彼は言った。

 コーヒーを飲んだ。

 外の光が朝の強さになっていた。


 その日の夕方、日勤の残り時間に病棟を歩いていると、リハビリの廊下でさやかさんとすれ違った。

 リハビリから戻ってきたところだった。

「お疲れ様です」とさやかさんが言った。

 私も「お疲れ様でした」と言った。

 そのまま歩き続けようとしたとき、廊下の先に木本先生が立っているのが見えた。

 カルテを手に持って、廊下の壁際で立ち止まっていた。

 おそらく別の患者の記録を確認していたのだと思う。


 さやかさんが木本先生に気づいた。

「先生、お疲れ様です」

 さやかさんが笑いかけた。

 木本先生が顔を上げた。

 さやかさんを見た。

 口元が、動いた。

 笑った、とは言えない。

 でも、何かが動いた。

 ほんの一瞬で、すぐに戻った。

「ご苦労様です」と言って、またカルテを見た。


 私はその瞬間を見ていた。

 廊下の少し後ろから。

 さやかさんは気づいていなかった。

 ただ「先生、怖い顔してるから笑ったところ見てみたいな」と私に言いながら、病室の方へ歩いていった。

 私は少しの間、木本先生の横顔を見た。

 彼はもうカルテを読んでいた。

 今起きたことが何でもなかったように、静かに立っていた。


 帰り道、電車の中で私はそのことを考えた。

 口元が動いた。

 あれは何だったのか。

 笑顔、という言葉を使うには足りなかった。

 でも「無表情」とも違った。

 さやかさんに向かって、何かが少しだけ出た。

 出て、すぐに引っ込んだ。

 木本先生がそれを意識してやったのか、無意識だったのか、外からは分からない。

 私はその瞬間を、何度か頭の中で再生した。


 なぜそんなことをしているのか、自分でもよく分からなかった。

 木本先生の表情の変化を確認しようとしているのか。

 それとも「ある」と思ったものが「やはりある」という確認をしたかったのか。

 電車が駅に着いた。

 降りながら、私は「次の夜勤で彼の顔を見るとき、あの瞬間を探しているだろう」と思った。

 それが気になった。

「探している」という事実が、少し気になった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ