第6話 「手の温度」
木本先生がさやかさんの診察をするのに、私が補助についたのは木曜の午前だった。
診察室に入ると、さやかさんはいつものように「よろしくお願いします」と言いながら笑った。
木本先生は「どうぞ」と言って椅子を示した。
感情の起伏がない、いつも通りの声だった。
診察は二十分ほどかかった。
木本先生の説明は丁寧だった。
現在の経過、今後の化学療法のスケジュール、考えられる副作用とその対処法。
言葉を選んで、必要なことを順番に話した。
さやかさんが「副作用って、どのくらいから出ますか」と聞くと、「個人差がありますが、最初の投与から一週間前後が多いです。変化があればすぐに連絡してください」と答えた。
「変化って、具体的にどんな感じですか」
「吐き気、発熱、手足のしびれ。気になることが何かあれば、小さなことでも言ってください」
「はい」
「質問はありますか」
「……先生、怖い顔してるから言いにくいんですけど」さやかさんが笑いながら言った。
「全部教えてもらえるって思っていいですか」
木本先生は一瞬間を置いた。
「はい」と言った。
それだけだった。
「もちろんです」でも「大丈夫ですよ」でもなく、「はい」だった。
でもさやかさんは「ありがとうございます」と言って、少し表情が和らいだ。
「はい」の一言で、何かが伝わったのだろう。
私には、その「何か」の正体がよく分からなかった。
診察が終わって、さやかさんが病室に戻っていった。
私も廊下に出ると、さやかさんが少し待っていた。
木本先生はまだ中で記録を書いている。
「白石さん」とさやかさんが言った。
「はい」
「先生、笑わないですよね」
「……そうですね」
「でも手が温かいんです。診るとき、いつも」
さやかさんは少し不思議そうに言った。
「聴診器当てるときとか、触れるときとか。なんか、安心するんですよね。変ですか」
「変じゃないですよ」
「先生のこと、最初怖いなって思ったんですけど」さやかさんが言った。
「なんか、この人は信用できるな、ってなってきました。理由うまく言えないんですけど」
私は「よかったです」と言った。
それが正確な言葉かどうか、分からなかった。
「よかった」という感情があったのは確かだった。
でも同時に、少し複雑な気持ちもあった。
さやかさんが「信用できる」と感じているものが何なのかを、私はうまく理解できていなかった。
夜勤明けのコーヒー。
木本先生がさやかさんの病状について話した。
今後の化学療法の方針、想定される副作用のリスク、追加検査の必要性。
声は平坦で、感情の揺れがない。
情報として正確だった。
私は聞きながら、「人として話してほしい」と思った。
さやかさんのことを、患者として話すのではなく、三十五歳で、三歳の子どもがいて、病院の食堂のコーヒーが好きで、怖いけど笑っている人として、話してほしいと思った。
でもそれは言えなかった。
言ったところで何が変わるのか、分からなかった。
そして木本先生が「患者として話している」のと「人として話していない」のは、私の感じ方であって、事実かどうかは別の話かもしれなかった。
「ありがとうございます」と私は言った。
「次の検査は来週月曜の予定です」と彼は言った。
コーヒーを飲んだ。
外の光が朝の強さになっていた。
その日の夕方、日勤の残り時間に病棟を歩いていると、リハビリの廊下でさやかさんとすれ違った。
リハビリから戻ってきたところだった。
「お疲れ様です」とさやかさんが言った。
私も「お疲れ様でした」と言った。
そのまま歩き続けようとしたとき、廊下の先に木本先生が立っているのが見えた。
カルテを手に持って、廊下の壁際で立ち止まっていた。
おそらく別の患者の記録を確認していたのだと思う。
さやかさんが木本先生に気づいた。
「先生、お疲れ様です」
さやかさんが笑いかけた。
木本先生が顔を上げた。
さやかさんを見た。
口元が、動いた。
笑った、とは言えない。
でも、何かが動いた。
ほんの一瞬で、すぐに戻った。
「ご苦労様です」と言って、またカルテを見た。
私はその瞬間を見ていた。
廊下の少し後ろから。
さやかさんは気づいていなかった。
ただ「先生、怖い顔してるから笑ったところ見てみたいな」と私に言いながら、病室の方へ歩いていった。
私は少しの間、木本先生の横顔を見た。
彼はもうカルテを読んでいた。
今起きたことが何でもなかったように、静かに立っていた。
帰り道、電車の中で私はそのことを考えた。
口元が動いた。
あれは何だったのか。
笑顔、という言葉を使うには足りなかった。
でも「無表情」とも違った。
さやかさんに向かって、何かが少しだけ出た。
出て、すぐに引っ込んだ。
木本先生がそれを意識してやったのか、無意識だったのか、外からは分からない。
私はその瞬間を、何度か頭の中で再生した。
なぜそんなことをしているのか、自分でもよく分からなかった。
木本先生の表情の変化を確認しようとしているのか。
それとも「ある」と思ったものが「やはりある」という確認をしたかったのか。
電車が駅に着いた。
降りながら、私は「次の夜勤で彼の顔を見るとき、あの瞬間を探しているだろう」と思った。
それが気になった。
「探している」という事実が、少し気になった。




