第5話 「さやかさんの子ども」
さやかさんが入院してきたのは、四月の初めだった。
担当が私になったのはその翌日で、申し送りを引き継いだとき「三十五歳、乳がん術後の経過観察、明後日から化学療法の予定」という情報だけが先に来た。
患者の「顔」を見る前に、私はいつもその情報の束を頭の中に入れる。
それが仕事の始まりで、でも患者と話し始めた瞬間に、情報は少しだけ後ろに下がる。
病室に入ると、さやかさんはベッドの上で何かをスマホで見ていた。
私が「おはようございます」と言うと、「あ、おはようございます」と顔を上げた。
笑う人だ、と思った。
口元だけでなく、目のあたりから笑う。
「担当の白石です。よろしくお願いします」
「よろしくお願いします。あの、いろいろ聞いても大丈夫ですか?」
「もちろんです」
「ここ、食堂ってありますか?」
それが最初の質問だった。
治療のことでも、検査のことでも、体のことでも、入院手続きのことでもなかった。
食堂の場所を聞かれた。
「あります。三階です」と答えると「よかった、ご飯は自分で食べたいタイプなので」と言って、またスマホを見た。
三十五歳。私より五つ下。
なぜかその計算を、そのとき最初にした。
さやかさんはよく話す人だった。
見回りに行くたびに、「ちょっといいですか」と声をかけてくる。
話の内容は毎回違った。食堂のコーヒーが美味しかった話、同じ病室のおばあさんが面白い人だった話、昨日テレビで見た映画の話。
私はたいていの患者さんに、「あまり感情移入しないようにしよう」と思っている。
思っているが、それが上手くいかない人がいる。
さやかさんは、その種類の人だった。
明るいから感情移入したわけではない。
むしろ、明るさの後ろに何かが見える気がしたからだと思う。
四日目の見回りで、さやかさんがスマホの画面を向けてきた。
「うちの子です」
写真の中に、三歳くらいの子どもがいた。
砂場で遊んでいる。
笑っている顔。
丸い。
「かわいいですね」
「でしょ。今日、保育園で泥だらけになったって旦那から連絡が来て」さやかさんは笑いながらスマホを戻した。
「心配してるのか、してないのか、自分でも分からないんですよね。来られないほうが楽かなって思ったり、でも会いたいなって思ったり」
「お子さん、面会には来ないんですか」
「小さいから、なるべく来させないようにしてて。病院って、子どもには怖いじゃないですか」
そうですね、と私は言った。
「でも、先生は怖くないですよ」と言おうとして、やめた。
担当医がまだ決まっていなかったし、「怖くない」という保証が今の私にできるか、確信がなかった。
ある日の見回りで、さやかさんが少し真剣な顔で聞いてきた。
「看護師さんって、怖い仕事ですよね」
「……怖い、ですか」
「毎日いろんな人を見て、ここにいる間に亡くなる人もいるじゃないですか。それって慣れるんですか」
慣れますよ、と言いかけた。
止まった。
慣れる、という言葉が喉の手前で引っかかった。
私は七年間その言葉を使ってきた。
患者さんに聞かれるたびに、「慣れますよ」か「慣れますね」か「慣れてきます」のどれかを言ってきた。
でも今日、さやかさんに言おうとしたとき、それが正確じゃない気がした。
「……そうですね」
結局、それだけ言った。
さやかさんは「そっか」と言って、窓の外を見た。
「私も慣れたいな、ここに」と言った。
「まだちょっと怖くて」という声が、笑い混じりだった。
その週の夜勤明け、いつものベンチでコーヒーを飲んでいるとき、私は木本先生にさやかさんのことを話した。
「三十五歳の患者さん、乳がんの術後なんですけど」
「はい」
「明るい人で、お子さんが三歳で」
「はい」
「……なんか、いい人だなって」
木本先生は少し間を置いてから「術後の経過は安定してるようです」と言った。
そういうことじゃない、と思った。
でも「そういうことじゃない」とは言えなかった。
言ったところで、何を言いたいのかを正確に説明できる言葉が、私の中になかった。
ただ「この人のことが気になっている」という感触を話したかっただけで、それは情報でも報告でもなかった。
「そうですか」と私は言った。
木本先生はコーヒーを飲んだ。
窓の外の光が、少し強くなっていた。
翌週、さやかさんの担当医が正式に木本先生になった。
師長からその話を聞いたとき、私は「そうですか」と言った。
その一言しか出なかった。
適切な担当医がついた、それだけのことだ。
私がどう思うかは関係ない。
でも、その日の午後にさやかさんの病室を通りかかったとき、少しだけ気になって足を止めた。
特に用事はなかった。
ただ、窓の外を見ているさやかさんの顔が、廊下から少し見えた。
「どうかしましたか」
さやかさんが気づいて声をかけてきた。
「いいえ、通りかかっただけです」
「そうですか、入ってきてください」
私は少しだけ部屋に入った。
ベッドの枕の横に、子どもの写真が印刷されて飾ってあった。
さっき見たスマホの写真と同じ砂場の写真だった。
「飾ったんですか」
「旦那に送ってもらいました。スマホじゃ物足りなくて」
さやかさんは笑った。
私も笑った。
病室を出てから、廊下を歩きながら、私は松田さんのことを思い出した。
松田さんにも家族がいた。
娘さんが来ていた。
「子どもが大きくなるの見たい」とさやかさんが言ったら、松田さんは何と答えるだろう、と想像した。
想像して、すぐにやめた。
比べることじゃない。
でも、なぜか頭から離れなかった。




