第4話 「コーヒーの話しかしない」
いつから始まったか、はっきりとは言えない。
気づいたら、夜勤明けに木本先生とコーヒーを飲むのが当たり前になっていた。
彼は必ず先に来て待っている。
エレベーターホール手前のあのベンチに、缶コーヒーを二本持って座っている。
私が更衣室から出てくると、片方を差し出す。
理由は毎回言わない。
「自販機、同じ方向でした」は、最初の一度しか言わなかった。
それ以降は、差し出すだけだった。
受け取るだけ。
それで成立している。
これが何かを意味するのかどうか、私はまだ考えないことにしていた。
今夜の夜勤は、木本先生との五度目のコンビだった。
病棟は中程度の忙しさだった。
急患が一件、深夜の採血が三件、点滴の差し替えが複数。
特別な事態は何も起きなかったが、休む隙がない種類の夜だった。
朝の五時ごろ、ようやく落ち着いた。
今夜の木本先生は、いつも通りだった。
処置は正確で、指示は明確で、無駄がない。
補助についた私との間に余計な会話はなかったが、不思議と動きの息は合った。
次に何が必要かを言う前に動いていた。
彼が私の動きに合わせているのか、私が彼の動きに合わせているのか、どちらか分からないまま処置が終わる。
「仕事の息が合う」というのは、信頼とは少し違う。
同じ動作を繰り返す中で生まれる、一種の慣れだと思っていた。
でも五回やってみて、それだけではないかもしれないという気がしてきた。
まだうまく言葉にできない。
夜勤明けのベンチ。
今日は木本先生が先に話しかけてきた。
「このコーヒー、酸味が強いですね」
缶を見ながら言った。
私には最初、何のことを言っているのか分からなかった。
「……そうですか? 私はそんなに」
「苦いほうが好きですか」
「どちらかというと」と私は言った。
「甘いのが得意じゃないので」
「そうですか」
それで会話が終わった。
沈黙があった。
窓の外はまだ明るくなりきっていない。
早朝特有の白さが、空全体に薄く広がっている。
「先生は?」
少しして、私は聞いた。
「どちらでも」と彼は言った。
「特に好みはないです」
「それで毎回同じ缶を買うんですか」
「売ってるものの中から選んでいるので、特に選んでいるわけでは」
「……選んでいないのに選んでるんですね」
「そうなりますね」
何がおかしかったのか分からないけれど、私は少し笑った。
木本先生は笑わなかった。
ただコーヒーを飲んだ。
その日の会話は、コーヒーから病院食に移った。
「昼の食事、どこで食べてますか」と私が聞いた。
特に理由はない。
話す内容が思い浮かんだから言っただけだった。
「食堂です。たいてい」
「食堂の日替わり、昨日食べました?」
「食べました」
「どうでした」
「普通でした」
「私も食べたんですけど、あの肉、いつも少し固くないですか」
「そうですね」木本先生は少し間を置いてから言った。
「固いですね」
そこでまた沈黙になった。
食堂の肉の話が、どこにも着地しないまま終わった。
でも不思議と、会話が途切れた感覚はなかった。
もしかしたら最初から、着地先などなかったのかもしれない。
どうでもいい話をしていた。
それで、十分だった。
蛍光灯の話もした。
廊下の突き当たりの一本が、少し前から点滅している、という話だった。
「もう一週間くらい経つと思うんですけど、誰も替えないんですよね」と私は言った。
「報告しましたか」と木本先生が聞いた。
「しました」
「でも替わらない?」
「まだです」
「そうですか」。
それだけの話が、なぜか二分くらいかかった。
どうでもいい。
本当にどうでもいい話だった。
でも帰り道になって、私はその会話を頭の中でもう一度なぞっていた。
コーヒーの酸味の話、食堂の肉の固さの話、点滅する蛍光灯の話。
どれも、覚えている必要がないことばかりだった。
でも覚えていた。
それがなぜなのか、考えてみてもよく分からなかった。
ナースステーションに戻ったとき、まさこさんが「ちょっといい?」という顔で近づいてきた。
「あの先生と、仲良くなったじゃない」
「仲良くはないです」
「でも毎回コーヒー飲んでるじゃない、夜勤明けに」
まさこさんは特に何かを責めているわけでも、からかっているわけでもなかった。
ただ気づいたから言った、という顔をしていた。
でも私は少し面食らった。
外から見ると、そういう「見え方」をしているんだ、と気づいたから。
「飲んでるというか、コーヒーをもらって、座ってるだけです」
「どんな話してるの?」
「コーヒーの話とか」
「コーヒーの話?」
「病院食の話とか、廊下の蛍光灯の話とか」
まさこさんは少しの間、私の顔を見た。
それから「ふうん」とだけ言って、自分の仕事に戻っていった。
その「ふうん」の意味を、私は考えた。
呆れているのか、面白がっているのか、どちらでもないのか。
まさこさんは現実的な人で、あまり余計なことを言わない。
だからこそ「ふうん」の一言が、何かを指している気がした。
でも追いかけて聞く気にはなれなかった。
その夜、眠れなかった。
夜勤明けはたいてい帰ってすぐ眠れる。
身体が限界になっているから。
でも今日は、眠りに入る前に頭の中でいろいろなことが動いた。
コーヒーの話。
ただそれだけのことが、なぜこんなに記憶に残るのか。
思い返してみると、会話の内容はほとんど意味がない。
でも「声の質」は残っている。
木本先生の話し方は、感情の幅が狭い。
でも嘘をつかない。
どうでもいい話をしているときも、言葉のひとつひとつが正確だった。
「どちらでも」も「普通でした」も「固いですね」も、全部、本当のことを言っている。
翌日、コンビニに寄ったとき、棚の前でコーヒーを見た。
「苦いほうが好き、と言ったら、次から変わるかな」と、ふと思った。
すぐに「なんでそんなことを考えているんだろう」と思い直した。
コーヒーを一本取って、レジに向かった。
苦いやつを選んでいた。




