第3話 「自販機、同じ方向でした」
三度目の夜勤コンビが、いつの間にか来ていた。
シフトを見て「また木本先生か」と思ったが、驚きはなかった。
この病院の夜勤の組み合わせは、ある程度パターン化している。
経験の浅い医師と、中堅の看護師。
消去法で組まれているだけで、そこに意図はない。
夜勤が始まった。
今夜の病棟は落ち着いていた。
急患も急変もなく、見回りを終えて記録を書いて、また見回りをして。
それを繰り返した。
木本先生とは、処置の補助で一度だけ同じ部屋に入った。
それ以外は、廊下で姿を見かけるくらいだった。
深夜二時を過ぎると、病院は本当に静かになる。
モニターの音と空調の音だけが廊下に漂っている。
夜勤に慣れた人間でも、この時間帯には少し意識が落ちる。
私は休憩室でコーヒーを飲みながら、患者の記録を見直した。
特に問題はない。
今夜は、このまま静かに明けていくだろう。
その予感は当たった。
八時半、申し送りを終えた。
いつもより少し早かった。
夜勤明けのナースステーションは、日勤組が来て一気に動き出す。
私はその流れから少し外れるようにして更衣室に向かった。
着替えて、鞄を持って、廊下に出た。
木本先生が、いた。
廊下の突き当たり。
エレベーターホールの手前に小さなベンチが置いてある。
病院の内装の都合上、そこだけ少し広くなっていて、面会に来た家族が待つためのスペースになっている。
その端に、木本先生が座っていた。
手に缶コーヒーを持っていた。
二本。
私は少し止まった。
彼は私を見て「……缶でいいですか」と言った。
片方の缶を差し出した。
私に向かって。
なぜ、とは聞けなかった。
聞けなかったというより、「なぜ」という言葉が喉まで来て、そこで止まった。
受け取る方が自然な気がして、受け取った。
缶は少しぬるくなっていた。
しばらく持って待っていたのかもしれない。
「……ありがとうございます」
私は言った。
彼は何も言わなかった。
ただ自分のコーヒーを開けて、飲んだ。
私も隣のスペースに座った。
椅子の感覚が、ふだんより固く感じた。
疲れているのかもしれない。
十五分、ほとんど何も言わなかった。
窓の外が朝の光になっていった。
病院の東側にある窓から、低い位置に日が差し込んでくる。
夜勤明けにしか見られない角度の光で、私はそれが好きだった。
誰かが「夜勤明けの特権だよ」と言っていたのを思い出した。
誰だったか、もう忘れた。
コーヒーを飲んだ。
缶の縁が少し冷たくなっていた。
木本先生は正面を向いて、自分のコーヒーをゆっくり飲んでいた。
何かを考えているのか、何も考えていないのか、外から見て分からない人だと思った。
表情に変化がない。
でも不快ではない。
この沈黙が、なぜか不快でないのが、少し不思議だった。
沈黙に耐えられなくなって何かを言う、ということが私にはよくある。
間が怖い。
でも今日は、その衝動がなかった。
ただコーヒーを飲んで、窓の外を見ていた。
「なんで買ってきてくれたんですか」
コーヒーを飲み終わったころに、ようやく聞いた。
木本先生は少し間を置いてから、「自販機、同じ方向でした」と言った。
「……そうですか」
それ以上の説明はなかった。
私も聞かなかった。
自販機が同じ方向にあれば、他人の分まで買ってくるのか。
それが合理的だと思ったのか。
それとも別の理由があって、でもそれを言葉にする気がないのか。
どれなのか分からないし、どれでもいい気がした。
受け取った事実があって、今コーヒーを飲んでいる。
それで十分だった。
「では」と木本先生が言って、先に立ち上がった。
空き缶をゴミ箱に捨てて、エレベーターとは反対の廊下へ歩いていった。
「では」の先が何なのか、今回も分からなかった。
私は残りのコーヒーを飲み干した。
窓の外の光が、少し強くなっていた。
翌日の日勤で、廊下を歩いていたら木本先生と正面からすれ違った。
彼は私を見なかった。
いや、見たかもしれないが、目を合わせなかった。
前を向いたまま、普通に通り過ぎた。
「おはようございます」も言わなかった。
昨日のことなど、最初からなかったかのように。
私も何も言わなかった。
すれ違ってから、廊下の角を曲がるまでの間、私は少し考えた。
昨日のコーヒーのことを、彼は覚えているのか。
覚えていて、それでも何も言わないのか。
それとも本当に、日常の一部として処理されていて、特別なこととして記憶されていないのか。
どちらか分からなかった。
エレベーターを待ちながら、ふと考えた。
「自販機、同じ方向でした」という言葉は、説明として十分なのか、十分でないのか。
私には判断できなかった。
でも、それを言われたとき、私はそれ以上聞かなかった。
なぜ聞かなかったのか。
これは何なんだろう、と思った。
エレベーターが来た。
乗り込んだ。
「これは何なんだろう」という問いだけが、ドアの閉まる音とともに残った。




