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第2話 「ズレた誠実さ」

 木本先生のフルネームを知ったのは、翌週の夜勤前だった。


 ナースステーションの壁に貼られた当直表を見ていたら、まさこさんが横から「木本浩一、こういち、ね」と読んでくれた。

「間違えやすいから一応」と言って、また自分の仕事に戻っていった。

 私は「木本浩一」という名前を頭の中で一度繰り返した。

 木本浩一。こういち。

 二十七歳、内科。

 前の病院からの異動。

 それだけしか、まだ分からない。


「今日も組むことになってるから」

 まさこさんが言った。

 組む、というのは夜勤のコンビのことだ。

 この病院では夜勤のたびに担当が組まれる。

 大抵は経験のある看護師とそうでない看護師で組まれるが、医師との組み合わせはもう少し流動的だ。

 私と木本先生が夜勤で組むのは、これが二度目になる。

「はい」と私は言った。

 「分かりました」


 二十一時に夜勤が始まった。

 引き継ぎのナースステーションで、私は木本先生を見た。

 彼は壁際に立って、カルテを読んでいた。

 申し送りの内容を聞いているのか聞いていないのか、判断がつかない。

 でも後から確認すると、患者の状態を正確に把握していた。

 聞きながらカルテを読んでいたのだろう。


 今夜の病棟は少し重かった。

 入院患者が増えていて、急変の可能性がある人が二人いる。

 先輩ナースが「今夜は忙しくなるかも」と言い残して去った。


 案の定、二十二時半に急患が入った。

 六十代の男性。

 道路で倒れているところを発見されたらしく、救急から連絡が入った。

 処置室に移って、木本先生が対応した。

 私は補助についた。

 彼の動きは速く、無駄がなかった。

 何をするか、次に何が必要かを先読みして動いている。

 それは確かだった。

 でも終わったあと、一言もなかった。

「ありがとう」も「お疲れ様」も言わなかった。

 処置が終わると、彼はそのまま患者のカルテを書き始めた。

 まるで補助についていた私がそこにいなかったかのように。

 私は使ったものを片付けながら、苛立ちを感じた。

 仕事の出来不出来の問題ではない。

 ただ「そこにいた人間への言葉」がなかった、という話だ。

 でも何も言わなかった。

 夜勤の途中で何かを言い出せる空気ではなかったし、正直、言葉にする気力もなかった。


 深夜一時を過ぎたころ、十二床の松田さんのナースコールが鳴った。

 松田さんは今日から看取り体制に入っている。

 家族は午前中に来て、夕方には帰った。

 「夜中に何かあれば呼ぶ」という話になっていた。

 でも今夜のナースコールは、本人から来ていた。

 部屋に入ると、松田さんは薄目を開けていた。

 意識はある。

「眠れないんですかね」と松田さんは言った。

「眠れないというか、怖いというか」

「怖い、ですか」

「うん。眠ったら、起きられない気がして」

 私は椅子を引いて、ベッドの横に座った。

 何か言えたかもしれない。

「大丈夫ですよ」とか、「ご家族に連絡しましょうか」とか。

 でも、どちらも本当のことではなかった。

「少しの間、いてもいいですか」と私は言った。

「助かります」と松田さんは言った。


 十分くらいそうしていた。

 松田さんはまた目を閉じた。

 呼吸は安定していた。

 私はモニターの音を聞きながら、部屋を出るタイミングを探していた。

 廊下に出ると、木本先生が立っていた。

 彼も松田さんのナースコールに気づいていたのだろう。

 様子を見に来たのか、それとも別の用事があってたまたまここにいたのか、分からない。

 私が出てきたのを見て、彼は何も言わず松田さんの部屋に入った。


 私は廊下でしばらく待った。

 特に理由はなかった。

 ただ、立っていた。

 木本先生が部屋に入ってから、十分経った。

 それでも出てこない。

 気になって、扉の隙間から中を見た。

 彼はベッドの横の椅子に座っていた。


 何もしていなかった。

 カルテも持っていない。

 スマホも見ていない。

 ただ、座っていた。

 松田さんはもう眠っていた。

 でも木本先生は席を立たなかった。

 私には、その意味が分からなかった。


 処置があるわけでも、観察が必要なわけでも、患者に何かを伝えることがあるわけでも、おそらくなかった。

 ただそこに座っていた。

 何のために。

「変だ」と思った。

 でも「悪い」とは思えなかった。

 廊下に戻って、次の見回りを続けた。


 午前三時を過ぎて、ようやく静かな時間が来た。

 休憩室に入ると、木本先生がいた。

 テーブルの前に座って、コーヒーを飲んでいた。

 スマホも本も持っていない。

 ただ、缶コーヒーを持って、前を向いている。


 私は自販機でコーヒーを買った。

 同じテーブルに座るには、少し躊躇した。

 でも他に席がなかったし、立ったまま飲む気にもなれなかった。

 向かい側に座った。

 彼は私を見た。

 でも何も言わなかった。

 私も何も言わなかった。


 コーヒーを飲む音と、空調の音だけがあった。

 話しかけようとした。

「松田さんのところ、ありがとうございました」とか、「急患の対応、お疲れ様でした」とか。

 何でもよかった。

 でも何か言いかけるたびに、彼の「前を向いたまま、ただコーヒーを飲んでいる」姿に阻まれた。

 声をかけていい空気なのか、そうでないのか、判断がつかない。

 七分間、何も言わなかった。


 木本先生が先に立ち上がった。

 缶を捨てて、休憩室を出ようとした。

 扉に手をかけたところで、振り返らないまま言った。

「お疲れ様でした」

 それだけだった。


 扉が閉まった。

 私はその閉まった扉を少しの間、見ていた。

 振り返らなかった。

 でも言った。

 最初に聞く「お疲れ様でした」が、こういう形で来るとは思っていなかった。

 コーヒーを飲み干した。ぬるくなっていた。


 夜明け前の見回りを終えて、申し送りをして、着替えた。

 帰り道は、いつもと少し違う何かが頭に残った。

 急患の対応での無言のこと。

 松田さんの部屋でただ座っていたこと。

「お疲れ様でした」を振り返らずに言ったこと。

 どれも繋がらなかった。

 同じ人間のことを考えているのに、バラバラな断片が並んでいる。

「変な人だ」というのが、今夜の結論だった。

 それ以上でも以下でもなかった。


 ただ、松田さんのベッドの横で何もせずに座っていたあの背中は、なぜか記憶に残った。

 それが何だったのか、まだ分からない。

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