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第1話 「21:00、始まりの時間」

 着替え終わると、決まって同じことを考える。


 ロッカーの扉を閉めるとき、金属の面に自分の顔が映る。

 白衣を着た女が、ぼんやりとした輪郭でこちらを見ている。

 三十歳。

 看護師。

 この病院で働いて七年。

 夜勤中心の生活になってから、三年。


 慣れた、とは言い切れない。

 言い切れないまま、今夜もナースステーションに向かう。

 廊下は夜独特のにおいがする。

 消毒液と、どこかから漂う食べ物の残り香と、人の体のにおいが混ざった何か。

 昼間はそれほど気にならないのに、夜になると急にその存在感を主張してくる。

 七年間ずっとそのにおいを吸い込んでいて、私はいつからか、それを「病院のにおい」と一言で片づけることにしていた。

 名前をつけないと、うまく付き合えないものがある。


 夜勤には独特のリズムがある。

 始まりがあり、静けさがあり、揺れがあり、夜明けがある。

 私はその繰り返しの中で三年を過ごしてきた。

 三百床の地方病院。

 慢性的な人手不足。

 夜勤のたびに誰かが欠けて、残った人間でなんとかする。

 それが「普通」だと思っていた時期があった。

 今でもそう思っているかもしれない。

 ただ、「普通」という言葉の重さが少しずつ変わってきている気がする。


 二十一時ちょうど。

 ナースステーションのカウンター越しに、先輩の桐島まさこさんが私を見た。

 三十八歳。

 この病院で私より五年長く働いている。

 髪をひとつに束ねて、マスクをあごのあたりにずらしたまま、申し送りのファイルを持っている。

「今日また一人欠員」

 それだけ言って、ファイルを差し出した。


 またか、と思った。

 口には出さない。

 出したところで何も変わらないし、まさこさんも同じことを思っているはずだから、わざわざ言葉にする必要がない。

 この病院にはそういう共有の沈黙がいくつもあって、私たちはそれを使いながら毎夜を乗り越えてきた。

 言葉を使わないことで成立している関係というのがある。

 夜勤では特に。


「四床が新入り、七床が点滴の差し替え、十二床が今日から看取り体制。家族は夜に来るって話だったけど、まだ来てない。二十床の奥田さん、昨日から少し熱があるから気にかけてあげて」

 まさこさんの声には感情の起伏がない。

 それは冷たいわけではなく、長年の仕事がそうさせた種類の平静さだ。

 私はメモを取りながら聞いた。

 ペンを走らせる音と、モニターの電子音と、廊下の奥から聞こえる誰かの寝息が重なった。

「他に何かありますか」

「今日の当直、新しい先生らしい。木本先生。内科。着任したばかりだって」まさこさんが手元のメモを確認した。

「廊下でカルテ読んでる人がいたからたぶんそれ。挨拶はなかった」


 それを特に問題とは思っていない様子で、「じゃあよろしく」と言ってロッカールームの方へ消えた。

 残されたナースステーションで、私は今夜の患者の情報を頭に入れ直した。

 窓の外は暗い。

 三百床の地方病院の夜は、こういう静けさで始まる。


 最初の見回りに出た。

 四床の橋本鈴さんは七十代の女性で、先月別の病院から転院してきたらしい。

 肺炎の後遺症。

 私が声をかけると「はい」と言ってから、「あなた、新しい方?」と聞いた。

「いいえ、ここに七年います」

「そう」

 それで会話は終わった。

 橋本さんはまた目を閉じた。

 私は体温と血圧を確認して、静かに部屋を出た。


 七床の点滴を差し替えて、廊下を進む。

 十二床の前で少し立ち止まった。

 扉の隙間から、家族の気配はまだない。

 モニターの音だけが聞こえている。

 安定している。

 松田さんは八十二歳で、一ヶ月前から入院している。

 静かな人で、私が見回りに来るたびに「ご苦労様です」と言う。

 昨日の夜勤でもそう言っていた。

 今夜はもう眠っている。


 廊下を歩きながら、私は自分の靴音を聞いた。

 夜の病院では自分の音がよく聞こえる。

 昼間はいろんな音が混ざって埋もれているものが、夜になると輪郭を持つ。

 心電図のモニター音。

 空調の低い振動。

 どこか遠くの扉が閉まる音。

 それらが重なって、病院の夜の「音」になる。


 廊下の向こうから、白衣の人影が近づいてくるのが見えた。

 知らない顔だった。

 医師だということは分かった。

 でも私はこの病院の医師の顔をほぼ全員把握している。

 少なくとも内科と外科と救急は。

 その人は、知らなかった。


 年齢は若い。

 二十代後半か、三十になるかならないかくらい。

 背が高く、姿勢がいい。

 白衣のポケットに聴診器が入っている。

 手に紙のカルテを持って、それを読みながら歩いている。

 視線がカルテから離れない。

 廊下の右側を歩いているのに、私が左側を歩いていてもまったく気にしていない様子だった。

 ぶつかりそうになった。

 私が一歩横にずれた。

 彼は私にまったく目を向けなかった。

 ただ前を見ながら通り過ぎた。

 足音が遠ざかった。

 廊下の蛍光灯の下で、私はしばらくそのまま立っていた。

 不快感、というには少し違う。

 驚き、というのも正確じゃない。

 ただ「こういう人もいるんだな」という感触だけが残って、すぐに薄れた。

 ——木本先生、か。

 まさこさんが「挨拶はなかった」と言っていた意味が分かった。


 深夜二時を過ぎたころ、ナースステーションに戻ると院内PHSが鳴った。

 急患の可能性、という連絡だった。

 処置の準備をしながら廊下を早足で移動していると、また同じ人影を見た。

 廊下の突き当たりにある個室の前だった。

 扉が少し開いていて、低い声が聞こえた。

「血圧は安定しています。今夜は問題ないと思います」

 木本先生の声だった。

 低く、ゆっくりした話し方で、でも感情の揺れがない。

 患者と話している。

「先生は怖いですね」と声がした。

 老いた男の声だった。

「そうですか」

「……でも、来てくれるんですね。毎回」

「それが仕事です」


 私は廊下を通り過ぎながら、その会話の断片を聞いた。

 処置の準備があったから立ち止まれなかったし、立ち止まる理由もなかった。

 ただ声の質が耳の奥に残った。


 温度がない、というのが最初に浮かんだ言葉だった。

 正確かどうかは分からない。

 でも他に言い方が思いつかない。

 患者と話していても、声がどこかで遮断されている感じがする。

 情報は通っているけれど、感情は通っていない。

 それが仕事です。

 その言葉は、嘘ではない。

 本当のことを言っている。

 でも「本当のことだけを言っている」ことが、どこかずれている気がした。


 急患の対応に集中した。

 六十代の男性で、胸部の痛みを訴えていた。

 検査の結果、大事には至らなかった。

 処置が終わったのは午前四時前だった。

 PHSを返してから、ようやく少し息をついた。


 夜明けが近づくと、病院の空気が少しだけ変わる。

 患者たちが起き始める前の、一番静かな時間。

 廊下の蛍光灯の光が変わるわけでも、温度が変わるわけでもない。

 それでも私は毎回、「ここから朝が始まる」という境界線のようなものを感じる。

 休憩室に寄って、自販機のコーヒーを一本買った。

 缶を両手で包む。

 温かい。

 窓の外が、少しずつ白くなっていく。


 この時間が、私は嫌いじゃない。

 仕事の重さがまだ消えていないけれど、朝が始まろうとしているのは確かで、その境界線にいる感覚が、何か特別なものに思えることがある。

 コーヒーが冷めないうちに飲み干した。

 苦い。

 でも今夜くらいの苦さは、むしろちょうどいい。


 ステーションに戻ると、十二床から家族が帰る気配がした。

 廊下に出ると、六十代くらいの女性が松田さんの部屋から出てきたところだった。

 私に気づいて、深く頭を下げた。

「夜中にすみません」と言った。

「いいえ」と私は言った。

「ゆっくりいてください」

 女性はまた頭を下げて、廊下の向こうへ歩いていった。


 その背中を見ながら、私は今夜の仕事を振り返った。

 特別なことは何も起きていない。

 でも何かが、少し引っかかっている。


 八時四十五分。

 申し送りを終えて、更衣室で着替えた。

 白衣を脱ぐと、身体がようやく「終わった」と認識する。

 夜勤の日は帰り道がいつも少し長く感じる。

 頭の中に患者の顔と数値と、今夜の出来事が詰まったまま、私は廊下を歩く。

 靴の中に足が吸い付く感じがした。


 エレベーターに向かって歩いていると、後ろから足音が来た。

 振り返らなかった。

 でもすれ違いざまに、あの白衣が視野の端に入った。

 木本先生だ、とすぐに分かった。

 彼は私の真横を通り過ぎた。


「おはようございます」も言わなかった。

 目を向けることもなかった。

 ただ通り過ぎて、エレベーターとは反対方向の廊下へ消えていった。

 私はその背中を少しの間、見ていた。


 名前も知らない、と気づいた。

 正確には、名前は聞いていた。「木本先生」。

 でも下の名前を知らない。

 どこから来た人か知らない。

 何歳か知らない。

 今夜が当直の何日目かも知らない。


 七年間この病院にいて、夜勤中に一度もちゃんと名前を確認しなかった医師というのは初めてだった。

 別に知る必要はない。

 次の夜勤で会えば、そのときに分かる。

 エレベーターのボタンを押した。

 ドアが開いた。

 乗り込んで、ボタンを押した。


 ドアが閉まるまで、私はあの「それが仕事です」という声の質のことを考えていた。

 怖いですね、と患者が言った。

 そうですか、とあの人は言った。それだけだった。

 怖い人なのか。

 怖くない人なのか。

 どちらとも言えないまま、ドアが閉まった。

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