第14話 「さやかさんは、最後に何か言っていましたか」
さやかさんが亡くなってから、一週間が経った。
病棟は動いていた。
新しい患者が来て、退院していく患者がいて、夜勤がまた始まった。
私もその中に戻った。
戻るしかなかった。
続ける、と言ったから。
理由はまだ分からないまま続けていた。
木本先生との夜勤は、さやかさんの死の翌週から再開した。
最初の夜勤は、ほとんど何も話さなかった。
仕事の指示と、処置の確認と、必要なことだけ。
夜勤明けのコーヒーも、今まで以上に沈黙が多かった。
でも木本先生はいつも通り先に来て、缶コーヒーを二本持って待っていた。
私は受け取った。
座った。
飲んだ。
それだけだった。
「廊下で壁に手をついていた」ことを、私はまだ彼に言っていなかった。
言う方法が分からなかった。
「見ていました」と言えば何が変わるのか。
何も変わらないかもしれない。
それとも何かが壊れるかもしれない。
どちらの予感もあった。
夜勤の深夜二時過ぎ、休憩室でコーヒーを飲んでいたとき、木本先生が入ってきた。
今夜は私の前に来てコーヒーを飲んでいた。
珍しかった。
たいていは私が後から入る形になるから。
彼はいつものように椅子に座って、前を向いてコーヒーを飲んでいた。
私もそうした。
別々のコーヒーを、別々の方向を向いて飲んでいた。
しばらくして、木本先生が言った。
「……さやかさんは、最後に何か言っていましたか」
私は手の中の缶を見た。
さやかさんが最後に言った言葉、というのは、急変の前日の会話のことだろう。
私に最後に言ったのは「元気になりたい」だった。
その前には「子どもが大きくなるの見たい」だった。
夏祭りの話。
小学校の話。
卒業の話。
全部見たい、と言っていた。
答えられなかった。
その言葉を彼に渡したら、何かが変わる気がした。
渡していいのかどうか、分からなかった。
さやかさんの言葉は、さやかさんが私に言ったものだった。
それを木本先生に渡す権利が私にあるのかどうか。
そんな考えが来て、でもそれが正確かどうかも分からなくて、ただ答えられなかった。
「……」
長い沈黙があった。
木本先生は急かさなかった。
待っていた。
私が答えないことを責めなかった。
ただそこにいた。
「そうですか」
私が何も言わないまま少し時間が経ったとき、彼がそう言った。
「そうですか」。
答えを得られなかったことへの諦めでも、失望でもなかった。
ただ、受け取った声だった。
また沈黙になった。
二人ともコーヒーに手をつけなかった。
私の缶はぬるくなってきていた。
木本先生の缶も、たぶん同じくらいになっていた。
この人は感じている、と思った。
考えたというより、その感覚が来た。
「さやかさんは最後に何か言っていましたか」と聞いた人が、何も感じていないはずがなかった。
感情が「ない」のではなく、「出さない」のではなく、「出せない」のかもしれない。
「感じたら続けられない」という言葉が、今になって少し違う意味を持って聞こえた。
感じているから、切る必要があった。
切らないと続けられないほど、感じていた。
それが正しい解釈かどうか、確かめる方法はなかった。
確かめたとして、彼が答えてくれるかも分からなかった。
でもその感覚が、今日は来た。
来てしまった。
「……子どもが大きくなるの見たい、と言っていました」
声が出た。
自分でも気づかないまま言っていた。
木本先生は私を見た。
何も言わなかった。
でも見た。
視線が来て、少しの間そこにあって、また前に向いた。
「夏祭りに、連れていきたいって。小学校の卒業式も、全部見ていたいって」
言いながら、なぜ今言っているのか分からなかった。
答えられなかった問いに、今になって答えていた。
それが正しい順序なのか分からなかった。
でも言っていた。
木本先生は何も言わなかった。
私も続きを言わなかった。
休憩室の窓の外が、少しずつ白み始めていた。
夏の夜明けは早い。
もうすぐ四時になる。
今夜の夜勤もあと少しだった。
休憩が終わって、私は先に立ち上がった。
「また夜勤に戻ります」
「はい」と木本先生は言った。
私は休憩室を出た。
廊下に出て、少し歩いてから、足が一瞬止まった。
止まった理由は分からなかった。
何かを言い忘れた、という感覚があったが、何を言い忘れたのかは分からなかった。
振り返ることはしなかった。
また歩き始めた。
廊下の蛍光灯が静かに光っていた。
窓の外が白くなっていた。
今夜の夜明けは、少し早い。




