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第13話 「笑ってしまった」

 さやかさんが亡くなってから、三日が経った。


 その間、私は日勤が続いた。

 夜勤のシフトではなかった。

 病棟は動いていた。

 新しい患者が入ってきた。

 十二床に入ったばかりの人が早くも回復傾向で、退院の話が出ていた。

 さやかさんがいた病室には別の患者が入った。

 それは普通のことだった。

 病院はそういう場所だった。

 七年間、それを見てきた。


 でも今週は、それが重かった。

 廊下を歩くとき、さやかさんの部屋の前で無意識に足が遅くなった。

 気づいて、また速くした。

 それを三日で何度かやった。

 木本先生と廊下ですれ違ったのは、二日目の昼だった。

 彼は前を向いていた。

 私を見なかった。

 あるいは見ていたが、私には分からなかった。

 いつも通りの足で、いつも通りの顔で、廊下を歩いていた。

 壁に手をついていたあの背中と、どこにも繋がっていなかった。

 私は「おはようございます」と言った。

「おはようございます」と彼は言った。

 それだけだった。


 さやかさんの夫が来たのは、死後四日目の午前だった。

 退院手続きと、病室の荷物の引き取りのためだった。

 連絡を受けて、私が担当として対応することになった。

 玄関で夫を迎えたとき、一緒に子どもがいた。

 さやかさんがいつも写真を見せてくれていた子どもだった。

 三歳。

 男の子だった。

 夫の手を握って、病院の正面玄関のガラスドアを珍しそうに見ていた。

「何これ、動く」と言って、ドアが開くたびに喜んでいた。


 夫が頭を下げた。

「お世話になりました」と言った。

 くぼんだ目をしていた。眠れていないのだと思った。

「こちらこそ」と私は言った。

「荷物のご案内します」

 エレベーターで上の階に上がる間、子どもがずっと喋っていた。

「これ何階まで行くの」

「ママのいた部屋、まだある?」

「ねえ、ボタン押していい?」

 夫が「静かにしなさい」と言った。

 子どもは少しの間黙ってから、

 また「ボタン押したかった」と言った。


 病室の扉を開けた。

 今はもう別の患者が使っている部屋だった。

 さやかさんの荷物は、ナースステーションの横の収納に移してあった。

 そちらに案内した。

 夫が荷物を確認した。

 さやかさんの私物が入った袋が三つあった。

 子どもの写真を印刷したものも、その中に入っていた。

 夫が袋を受け取りながら、言った。

「妻が、いつも看護師さんのことを話していました。名前まで覚えてて、白石さんて人がいるって」

「……そうですか」

「とても助かったと言ってました。ありがとうございました」


 頭を下げた夫の顔を見ていたとき、私の中で何かが切れた。

 泣くと思った。

 でも泣けなかった。

 代わりに、笑った。

 自分でも止められなかった。

 口元が動いた。

 笑顔になった。

「こちらこそ」と言いながら、笑っていた。

 なぜ笑っているのか分からなかった。

 さやかさんの夫が「ありがとうございました」と言っているのに、私は笑っていた。

 適切ではなかった。

 でも止められなかった。

 夫は少し戸惑った様子を見せたが、それ以上何も言わなかった。

 もう一度頭を下げて、子どもの手を引いて、エレベーターの方へ歩いていった。

 子どもが振り返った。「バイバイ」と言った。

 笑って手を振った。

 私は手を振り返した。まだ笑っていた。


 夫と子どもが見えなくなってから、私は廊下に立ち続けた。

 笑いが少しずつ引いていった。引いていくにしたがって、今自分が何をしていたかが分かった。

 でも遅かった。

 既に終わっていた。

 洗面所に入った。

 蛇口をひねった。

 水が出た。

 手を洗った。

 顔を洗った。

 鏡を見た。

 知らない顔があった。


 正確には、私の顔だった。

 でも見覚えがない感じがした。

 笑った痕跡がまだ残っている顔だった。

 泣いていない。

 腫れていない。

 ただ、疲れた顔だった。

 この顔が、今、笑っていたのか。

 分からなかった。


 鏡を見続けながら、「なぜ笑ったのか」を考えた。

 分からなかった。

 嬉しかったわけではない。

 さやかさんが亡くなって、夫が来て、子どもが「バイバイ」と言った、その積み重なりの何かが、私の中で正確に処理されなかった。

 処理できなかった感情が、別の形で出た。

 笑い、として出た。

 それが一番近い説明だったが、説明できたからといって、何かが解決するわけではなかった。

 蛇口を閉めた。

 タオルで顔を拭いた。

 廊下に戻った。


 昼過ぎにまさこさんが「ちょっといい?」と声をかけてきた。

 給湯室に連れていかれた。

 まさこさんがコーヒーを二杯淹れた。

 私の前に置いた。自分は飲まなかった。

「今日、さやかさんの旦那さんが来たよね」

「はい」

「その後、廊下でちょっとおかしい顔してたよ」

 まさこさんは静かに言った。

「笑ってたって聞いたけど」

「……笑いました」

「なんで?」

「分かりません」

 まさこさんはしばらく私を見た。

「あんた、もう限界じゃない?」と言った。

 責めているわけではなかった。

 事実を確認している声だった。

「……そうかもしれないですね」

「夜勤、しばらく減らすよう師長に言おうか」

「大丈夫です」

「大丈夫じゃないでしょ、どこが」

「続けられます」


 まさこさんが少し黙った。

「あんたはいつもそう言う」と言った。

「七年、ずっとそう言ってきた。でも今日のは、慣れとか疲れとか、そういうレベルじゃないよ」

「……分かってます」

「分かってて言うの?」

「分かってて、でも」

 続きが出なかった。

「続けます」とだけ言った。

 まさこさんはコーヒーを一口飲んだ。

「変わらないね、あんた」と言った。

 呆れているのか、認めているのか、どちらか分からない声だった。

「そうですね」と私は言った。


 翌日の夜勤に入ったとき、ナースステーションで木本先生と目が合った。

 彼は何かを記録していた。

 顔を上げたタイミングで、私が入ってきた。

 一秒か二秒、目が合った。

 彼は何も言わなかった。

 私も何も言わなかった。

 でも、今日の目が合う感じは少し違った。

 何が違うのか、言葉にはできなかった。

「見ている」という質が、いつもと少し違った気がした。

 気がしただけかもしれない。


 引き継ぎが始まった。

 私はメモを取った。

 今夜も夜勤が始まる。

 病棟が動く。

 さやかさんがいなくなった部屋も、動く一部だった。

 コーヒーを飲もうとして、今夜はまだ買っていないことに気づいた。

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