第12話 「廊下で壁に手をつく人」
アラームが鳴ったのは、深夜二時十七分だった。
さやかさんの部屋からだった。
私は記録を書いていた手を止めて、立ち上がった。
走った。
廊下を走りながら、木本先生のPHSに連絡を入れた。
呼び出し音が二回鳴って、出た。
「さやかさん、急変です」
それだけ言って、電話を切った。
病室に入ったとき、さやかさんは意識があった。
でも呼吸が浅く、顔色が悪かった。
モニターが騒いでいた。酸素飽和度が落ちていた。
「さやかさん、私が分かりますか」
「……はい」かすれた声だった。
「なんか、胸が」
「先生が来ます。そのままでいてください」
酸素マスクを準備した。
ナースコールで応援を呼んだ。
木本先生が走ってくる音が廊下から聞こえた。
処置が始まった。
木本先生が入ってきた瞬間に、部屋の空気が変わった。
彼の動きは速かった。
さやかさんの状態を確認して、酸素投与の指示を出して、心電図の波形を見て、点滴のルートを確認した。
追加の検査オーダーを出しながら、私に次の準備を指示した。
私は動いた。
指示の前に動けることもあったし、指示を待つしかないこともあった。
応援の看護師が二人入ってきた。
処置室ではなく病室での処置になった。
狭かった。でも動けた。
三十分が経った。
さやかさんの声が聞こえなくなっていた。
意識が落ちていた。
モニターの波形が変わった。
木本先生の動きが加速した。
指示が増えた。
私は動き続けた。
何かを考える余裕はなかった。
手が先に動く、夜勤で育てた身体の動きで、考えずに動いた。
午前三時二分。
モニターの音が変わった。
木本先生が止まった。
処置室全体が一瞬、静止した。
数秒の沈黙があった。
「……三時二分、確認します」
声は平坦だった。
今まで聞いたのと同じ声だった。
でも今日は、その声を聞いたとき、私の胸の中で何かが崩れた。
崩れた、という感覚があった。
音は出なかった。
表情も変わらなかった。
ただ、何かが落ちた。
処置の後片付けをしながら、私は手を動かしていた。
泣いていなかった。
泣ける状態ではなかった。
まだ仕事が続いていたから。
さやかさんの状態を記録して、必要な手続きを進めて、夫への連絡を取ることになっていた。
私は手を動かし続けた。
処置室を出た木本先生が、廊下を歩いていくのが見えた。
私は道具の片付けをしながら、視野の端でそれを追った。
廊下の突き当たりに向かっていた。
その先は窓だった。
夜明け前の窓。
まだ暗い。
木本先生が窓の前で止まった。
壁に手をついた。
右手を壁につけて、少し前に傾いた。
頭は垂れていなかった。
前を向いたまま、ただ手を壁についていた。
十秒か、二十秒か。
私には正確には分からなかった。
声をかけることができなかった。
かけていい状況なのかどうかも、分からなかった。
何かを声にしてはいけない気がした。
そうすることで、この場面が壊れるような気がした。
木本先生が手を離した。
姿勢を戻した。
少し肩が上下した。
それだけだった。
また廊下を歩き始めた。
私はその背中を見た。
彼はナースステーションの方へ向かっていた。
手に何も持っていなかった。
さやかさんの夫が来たのは、四時過ぎだった。
連絡を受けてから車を飛ばしてきたのだと思う。
病院の正面玄関で私が迎えた。
夫は三十代半ばで、私より少し年上に見えた。
着替えも上着もなく、寝間着の上にコートを羽織ったような格好だった。
顔が蒼白だった。
「さやかは」
「こちらです」
廊下を歩きながら、私は何も言えなかった。
言えることが何もなかった。
病室に入って、さやかさんの顔を見た夫が崩れた。
膝から落ちた。
私が支えた。
夫の重さが腕にかかった。
声にならない声が出た。
その声の質が、私の中で何かを揺らした。
でも今は揺れている場合ではなかった。
夫を椅子に座らせて、そばにいた。
木本先生が入ってきた。
夫に向かって、静かな声で話した。
「この度は、お悔やみ申し上げます。最後まで、全力で処置しました」
夫が頷いた。
泣いていた。
「今後のことについては、ご準備ができたときに改めてご説明します。今は、そばにいてあげてください」
「……子どもは」夫が言った。
「どうしたら」
「今夜は、まだ知らせなくて大丈夫です」
夫がまた崩れた。
泣いた。
木本先生は病室の中に立って、何も言わなかった。
私もそばにいた。
三人と一人が、その部屋にいた。
さやかさんは穏やかな顔をしていた。
穏やかな顔に見えた。
夜勤明け。
気づいたとき、私はいつものベンチに座っていた。
木本先生も座っていた。
缶コーヒーが二本あった。
私の手の中に、一本あった。
いつ受け取ったか、分からなかった。
気づいたら持っていた。
長い沈黙があった。
今日の沈黙は、今までとは違う重さがあった。
私にも、たぶん彼にも。
言葉が来なかった。
何かを言えば何かが崩れる、という感覚があった。
崩れてもいいのかもしれないが、崩れる準備がまだできていなかった。
木本先生がコーヒーを一口飲んだ。
私は飲めなかった。
缶を持ったまま、窓の外を見ていた。
外が少しずつ明るくなっていた。
夏の夜明けは早い。
もう五時を過ぎていた。
廊下で壁に手をついていた背中を、私は思い出していた。
見てしまった、という感覚だけがあった。
それを言葉にする方法が分からなかった。
言葉にする必要があるのかも分からなかった。
ただ、見た。
それだけが事実として残っていた。
コーヒーは飲めなかった。
木本先生が先に立ち上がった。
何も言わなかった。
今日は「では」も「お疲れ様でした」も言わなかった。
ただ立ち上がって、廊下へ消えていった。
私は缶を両手で持ったまま、しばらくそこにいた。
コーヒーが冷めた。
それでも飲めなかった。




