第11話 「噂の断片」
まさこさんが話してきたのは、日勤の休憩中だった。
食堂ではなく、廊下の奥にある小さな給湯室だった。
二人でコーヒーを飲んでいて、別の話をしていた途中で、まさこさんがふと声を落とした。
「あの先生のこと、聞いたことある?」
「木本先生のことですか」
「前の病院で何かあったらしいよ。正確には知らないけど」
まさこさんはコーヒーを飲みながら、視線を向こうの棚に向けた。
直接こちらを見ないで話す、という感じだった。
噂話のときのまさこさんのやり方だ。
「何が、あったんですか」
「詳しくは分からない。医療事故だったとか、身内の誰かが亡くなったとか、いろんな話があって、でも誰も確かめてないから。共通してるのは、前の病院で何かがあって、それであそこを辞めたっていうことくらいで」
「誰から聞いたんですか」
「前の病院と繋がりがある人から。でも又聞きだから、どこまで本当かは分からない」
まさこさんは肩をすくめた。
「あんたが気にするかと思って、一応」
「……ありがとうございます」
「気にしなくてもいいよ、噂話だから」
まさこさんは立ち上がって「お先に」と言って出ていった。
私は残ったコーヒーを見た。
医療事故。
身内の誰かが亡くなった。
それが理由で、感情を切った。
「感じたら、続けられないからです」という言葉を思い出した。
あの答えが、ただの処世術ではなく、何か具体的な出来事から来ているとしたら。
聞きたい、と思った。
聞けない、とも思った。
次の夜勤明けのコーヒーで、私は遠回しに聞いた。
直接聞く言葉が見つからなかった。
「前の病院で何があったんですか」と聞ける距離ではなかった。
でも何かを聞かないと、この状態がいつまでも続く気がした。
「前の病院は、どんな病院でしたか」
「なぜそんなことを?」
木本先生が聞いた。
敵意ではなかった。
純粋な疑問として聞いている顔だった。
なぜ聞くのか、という問いに、私は答えられなかった。
「……なんでかな」
正直に言った。
本当に分からなかったから。
知りたいのか、知ってどうするつもりなのか、それを知ることで私の何が変わるのか、全部分からないまま聞いていた。
「なんでかな、ですか」と木本先生は繰り返した。
笑ってはいなかったが、少し違う声になった気がした。
「ごめんなさい、変なことを聞いて」
「……規模は似たようなものです」
彼は少し間を置いてから言った。
「三百床くらいの、地方の病院でした」それだけだった。
それ以上は続かなかった。
私も続きを聞けなかった。
コーヒーを飲んだ。
今日のコーヒーはなぜか酸味が強かった。
その夜、眠れなかった。
医療事故だったとしたら。
誰かが死んだことで、「感じたら続けられない」という場所に行き着いたとしたら。
それは私が想像できる話だった。
看護師として七年、そういう事態の近くに何度か立った。
決定的な場面に居合わせたことはないが、その後の空気は知っていた。
引きずる人と、引きずらない人がいる。
引きずらない人が強いのか、引きずる人が弱いのか、今もって答えが出ない。
身内が亡くなったとしたら。
医師として身内の死を経験したとしたら。それは別の重さだろう。
自分で治せなかった、あるいは治すことができない場に立たされた、という話なら。
でもどれも噂で、本人に確認したわけではない。
確認すべきか。
「離れるべきかもしれない」と思った。
距離を置く、という今更のような判断を、また考えた。
知ってしまったら離れられなくなる、という予感があった。
知らないまま、少し不思議な夜勤明けのコーヒー仲間として、それくらいの位置に置いておく方が、私にとっては安全かもしれない。
翌朝、次の夜勤のシフトを確認した。
また木本先生の名前があった。
足は止まらなかった。
出勤の準備をしながら、「止まらなかった」という事実だけが残った。
夜勤前、ナースステーションでさやかさんの担当から引き継ぎを受けた。
「さやかさん、今日は少し顔色が良くなかったです。食事もあまり進まなくて。本人は大丈夫って言ってますけど」
「分かりました」
私は病室に寄った。
さやかさんは起きていた。
「来てくれたんですか、夜勤前に」さやかさんが言った。
「気を遣わなくていいのに」
「通り道だったので」
「そっか」さやかさんは少し笑った。今日は笑いの力が少し弱い気がした。
「旦那が昨日来てくれたんですよ。子どもの写真、新しいの持ってきてくれて」
枕元の写真が増えていた。
砂場の写真の隣に、プールで遊んでいる写真が加わっていた。
子どもの顔が少し大きくなっていた。
「元気そうですね」
「元気ですよ、子どもは元気」さやかさんが写真を見た。
「私も早く元気になりたい」
私は「なりますよ」と言いかけて、止めた。
今日は言えなかった。
「ゆっくり休んでください」と言って、病室を出た。




