第15話 「コーヒーは、まだ温かい」
八月になっていた。
さやかさんが亡くなってから、一ヶ月が経った。
病棟は動き続けていた。
夜勤は続いていた。
木本先生との夜勤明けのコーヒーも、続いていた。
変わったことと、変わらないことが混在していた。
変わったことについては、うまく言葉にできなかった。
変わらないことについても、同じだった。
今夜の夜勤は、穏やかだった。
急変もなく、急患もなく、患者たちは静かに眠っていた。
見回りを終えて記録を書いて、木本先生と処置の補助で一度だけ同じ部屋に入って、また記録を書いた。
夜が明けていくのが窓から見えた。
今朝は少し雲があった。
夏の雲。
厚くて白い。
八時四十五分。
更衣室から出ると、廊下の突き当たりのベンチに木本先生がいた。
缶コーヒーが二本。
いつも通りだった。
私は受け取って、隣に座った。
今日のコーヒーは、少しだけ温かかった。
さっき買ってきたのだろう。
まだ冷めていない缶を両手で持った。
窓の外に夏の光が広がっていた。
朝の光は強くなっていたが、まだ正午の硬さはなかった。
柔らかい光が病院の廊下に入ってきていた。
こういう光は、夜勤明けにしか見られない。
夜勤の特権、という言葉をまた思い出した。
誰が言っていたか、いつまでも思い出せなかった。
長い沈黙があった。
今日の沈黙は重くなかった。
静かだった。
一ヶ月前の、言葉を出せなかった沈黙とは違う種類だった。
何かを言わなくてもいい、という感触があった。
木本先生の手が見えた。
缶コーヒーを持った右手が、ベンチの端の方に置かれていた。
私の手との間に、わずかな距離があった。
触れたい、と思った。
思ってから、少し止まった。
なぜそう思ったのか、すぐには分からなかった。
さやかさんが「手が温かい」と言っていたことを思い出したからかもしれない。
廊下で壁に手をついていたあの背中を思い出したからかもしれない。
「感じたら続けられないから切った」という人が、それでも今日もここに来て、コーヒーを二本持って待っていることを思い出したからかもしれない。
手を伸ばしかけた。
止まった。
缶コーヒーを持ち直した。
コーヒーを一口飲んだ。
温かかった。
苦かった。
いつものコーヒーだった。
触れることは、しなかった。
触れなかったことを後悔しているのかどうか、飲みながら考えた。
後悔、とは少し違う気がした。
触れていたら何かが変わっていたか、それも分からなかった。
ただ「伸ばしかけた」という事実が、私の中にあった。
その事実が何を意味するのかを、今日の私はまだ受け取れなかった。
コーヒーを半分ほど飲んだとき、口から言葉が出た。
「……少しだけ、分かる気がします」
言ってから、何が「分かる」のかを説明できないことに気づいた。
木本先生が「感じたら続けられない」と言ったこと。
廊下で一人で壁に手をついていたこと。
さやかさんの最後の言葉を聞いたとき、視線を寄越してきたこと。
それら全部が指している何かが、「少しだけ分かる気がする」という言葉になった。
正確ではなかった。
でも今の私が出せる一番誠実な言葉だった。
木本先生が少しの間を置いた。
「遅いよ」
タメ口だった。
この人がタメ口で話すのを、私は初めて聞いた。
「遅いよ」。
低くて、静かで、責めてはいなかった。
ただ言った。
私は何も言えなかった。
でも、笑いそうになった。
さやかさんが亡くなったときの「笑ってしまった」とは違う種類の、笑いが来た。
来たが、出なかった。
ただ胸の中に小さくあった。
木本先生は席を立たなかった。
私も立たなかった。
二人でコーヒーを飲んだ。
窓の外の光が、少しずつ強くなっていった。
また沈黙があった。
今日の沈黙には、以前と違うものが混じっていた。
「言葉がない」ではなく、「言葉がなくてもいい」という感触が、両側にある気がした。
気がしただけかもしれない。
でも今日の私には、そう感じられた。
木本先生の缶が空になった。
でも立ち上がらなかった。
空になった缶を持ったまま、前を向いていた。
私はまだ少し残っていた。
飲み切った。
今日のコーヒーは、最後まで温かかった。
先に立ち上がったのは、木本先生だった。
空き缶をゴミ箱に捨てて、「では」と言った。
いつもの「では」だった。
でも今日の「では」は、少しだけ違う重さがあった気がした。
「お疲れ様でした」と私は言った。
彼は頷いて、廊下へ歩いていった。
エレベーターとは反対の方向だった。
いつも通り。
次の仕事か、次の場所か、その先を私は知らない。
知る必要もなかった。
私も立ち上がって、エレベーターへ向かった。
廊下の途中で振り返った。
木本先生の背中が、廊下の奥へ消えていくところだった。
白衣が、病院の光の中に溶けていった。
振り返ったことに、特に理由はなかった。
ただ、見た。それだけだった。
エレベーターを待ちながら、私は今日のことを考えた。
「少しだけ、分かる気がします」と言った。
「遅いよ」と言われた。それだけだった。
何かが解決したわけではなかった。
この人のことを理解した、とは言えなかった。
この関係が何なのかを、正確に言葉にすることは今もできなかった。
連絡先も知らない。
夜勤明け以外で会ったことがない。
それは変わっていなかった。
でも、今日、席を立たなかった。
それだけが確かだった。
エレベーターのドアが開いた。
乗り込んだ。
ドアが閉まった。
一階へ降りていった。
コーヒーはまだ温かかった。
飲み終わった後でも、その温かさの感触が手のひらに残っていた。
それだけが、確かだった。
人は、正しくなくても誰かを好きになる




