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第9話:異常進化する海と逃走

 Xデーまで、残り六十一時間。

 長谷部雄介が目を覚ましたのは、午前五時ちょうどのアラームより三分早かった。

 天井のベニヤ板を見上げる。プレハブ仮設司令室の蛍光灯は、深夜の配線確認の際に丸谷の職人が応急処置したテープが効いているのか、今朝は明滅していない。ただし「今朝は」という条件付きであることを、長谷部は脳の隅に固定した。突貫工事の綻びというものは、安定している時間が長ければ長いほど、いざ発現した瞬間の被害が大きい。

 寝袋から這い出し、折り畳みの簡易洗面台で顔を洗う。水は冷たかった。拠点の水系統はまだ沢からの自然流下を仮配管で引いているだけで、電動ポンプへの本接続は来週の予定だ。今週中に丸谷工務店の班が陽圧換気ユニットの本据付を終えれば、次は給排水と電力系統の本工事が始まる。工程は積み木だ。一段でも順番を崩せば全体が歪む。

 長谷部は合理的に、できることとできないことを区分けした。

 今できることは、情報収集だ。


 ノートパソコンのディスプレイが白く点灯する。

 前夜にブックマークした五つのサイトを順番に開く。学術系のプレプリントサーバー、海洋気象庁の公開データポータル、国際的な海洋生物研究者が集まる英語圏の専門掲示板、それから匿名性の高い理系向け国内巨大掲示板のスレッドが三本。

 前世の記憶の中で、Xデーが近づくに連れて何が起きていたかを長谷部は繰り返し反芻していた。社会が最初に気づいた「おかしさ」は、テレビのニュースでもなく、政府の発表でもなかった。それは海だった。漁師が、ダイバーが、沿岸の研究者が、互いに無関係なまま「何かがおかしい」と呟き始めた声が、インターネットの辺縁部に散らばり始めたのが最初だ。当時の長谷部にはそれを追う余裕がなかった。今は違う。

 最初のタブを開く。

 プレプリントサーバーには三日前からアクセスを続けているが、今朝は新着が一件あった。著者はスクリプス海洋研究所の博士研究員で、タイトルを直訳すれば「西太平洋南部海域における深海熱水噴出孔周辺の異常メタン濃度の急上昇について」となる。本文をスキャンする。グラフが三枚。水深三百メートル以上の層で、ここ七十二時間以内にメタン濃度が統計的有意水準をはるかに超えて上昇しているという観測結果。著者は「海底地滑り起源のメタンハイドレート層の崩壊」と「未知の熱水噴出孔の新規活動」の二つの仮説を提示している。

 長谷部は椅子の背もたれに寄りかかり、天井を見た。

 海底地滑り。メタンハイドレート。違う。あれは隕石が引き起こした地殻への振動の余波であり、同時に、瘴気の拡散プロセスの初期段階だ。この研究者は現象を正確に捉えているが、原因の推定が根本的に外れている。論文はまだ査読すら通っていない速報版だ。正式な学術的回路がこれを整理する前に世界は終わる。

 次のタブへ移る。

 海洋気象庁の公開データポータル。長谷部が継続的に監視しているのは、紀伊半島南南西の海域に設置された海洋観測ブイのデータだ。水温、塩分濃度、波高、そして表層の生物光量子データがリアルタイムに近い形で公開されている。四十八時間前と比較して、表層水温がわずかに、しかし無視できない幅で上昇していた。〇・三度。通常の季節変動の誤差範囲内と判断するのが妥当だろう。ただし、海流パターンを重ねると話が変わる。上昇域が震源地を中心とした同心円状に広がっており、その輪郭が昨日より明確になっている。

 長谷部はスプレッドシートに数値を転記した。計測誤差の可能性を排除するため、隣接する別のブイのデータとの差分を計算する。指が止まる。

 一致していた。

 誤差ではない。複数の独立した観測点が同じ傾向を示している場合、それは現象だ。前世の記憶では「Xデー当日に海の色が変わった」という印象が強いが、実際には変化は段階的に進行していたはずだ。自分が今、その段階的な変化の最初の数ステップを、誰よりも早く数値として捉えている。

 時計を確認する。午前五時十四分。


 三つ目のタブが、英語圏の専門掲示板だ。

 スレッドのタイトルは「Unusual marine mammal strandings — West Pacific (last 72h)」。投稿者はニュージーランドのアマチュア海洋観察グループのアカウントで、七十二時間以内に西太平洋の複数箇所で鯨類の座礁が報告されているという書き込みから始まっている。三本の返信がついていた。一本はフィリピンの漁師コミュニティの管理者からで、「同様の報告が地元の漁師からも入っているが、行政には届けていない(届けても対応されないため)」という旨の英語。もう一本は日本語交じりの投稿で、高知県の外洋漁業関係者とおぼしき人物が「群れのヒレの形がおかしい、水揚げした魚の腹の色が変だという話が港で出ている」と書いている。

 長谷部は後者を三度読んだ。

 腹の色が変。群れのヒレの形がおかしい。

 前世の軍の記録に、パンデミック初期の海洋生物の変異事例はほぼ残っていなかった。それは当然だ。陸上のゾンビに追われながら、誰も漁港に行って魚の腹を調べる余裕などなかった。しかし、海洋変異は確かに先行して起きていた。世界崩壊の日当日に海の色が変わり、水面下の生物が最初にゾンビ化した、というのが残存する証言の大半だが、今、このリアルタイムの観測データが示しているのは、変化はXデーより少なくとも七十二時間以上前から始まっていたという事実だ。

 長谷部はウィンドウを閉じ、メモアプリを開いた。

 「海洋変異の前駆症状:Xデーマイナス72時間以前から確認可能」

 「観測データ:水温異常、メタン濃度上昇、哺乳類座礁、魚類の形態変異報告」

 「公式機関の認識:ゼロ。いずれの報告も学術的・行政的処理プロセスに乗っていない」

 最後の行を打ち込んで、長谷部は静かにノートパソコンを閉じた。

 公式機関がこれに気づくのは、遅くとも明後日だろう。気づいた時点で「異常な海洋現象」として一部の専門家が声を上げ始める。しかし声が届く前に、社会は既に終わっている。情報の伝達速度は、災害の進行速度に勝てない。これは前世でも今世でも変わらない。


 六時になると、拠点に常駐させている丸谷工務店の現場監督が仮設の詰め所から出てきた。五十代の痩せた職人で、丸谷の信頼する現場のベテランだという。名を後藤という。長谷部とは多くを喋らないが、仕事は正確だった。

 長谷部は外へ出て、完成しつつある外壁を一周した。

 高さ四メートルのコンクリート擁壁は、南側の唯一の侵入路を除いた三方を既に覆っている。昨日の時点で九割五分の完成度だと後藤から報告を受けていたが、今朝見る限り、最後のセクションのコンクリート打設が夜のうちに終わっていた。養生に最低七十二時間かかる、という話だった。Xデーまで残り六十一時間。擁壁の完全硬化とXデーの到来がほぼ同時だ。計算上は問題ない。ただし「計算上は」という条件付きで。

 キルゾーンの内側通路を歩く。擁壁の内側に設けられた、幅二メートル、長さ十五メートルの細長い通路だ。侵入者がゲートを突破しても、この殺戮ゾーンで十字砲火を浴びる設計になっている。上部の射撃ポジションはまだ足場が残っているが、今週中に撤去と仕上げが終わる予定だ。

 ゲートを確認する。遠隔制御の二重シャッターゲートは、昨日の段階では電気系統の接続が八割だった。後藤に声をかける。

「ゲートの残り配線は」

「今日の午後には終わります。試験通電が夕方」

「陽圧換気ユニットの据付は」

「台湾ルートの分が明日届く予定です。ドイツルートの分は来週。まず台湾の分で一次稼働できます」

 長谷部は頷いた。HEPAフィルターの陽圧換気ユニットが稼働しない限り、要塞の内部は空気感染する瘴気に対して無防備だ。Xデーまでに台湾ルートの分だけでも据え付けが完了すれば、最低限の防衛線は張れる。ドイツルートの分は余剰バッファだ。六十台あれば、百名規模の居住区を完全に陽圧化して余りが出る。

「ご苦労」

 それだけ言って、長谷部は司令室へ戻った。


 午前七時。フィッシャーへの定時連絡の時間だ。

 暗号化メッセージアプリを開き、英文を打つ。内容は三点。送金の進捗確認、台湾のメーカーへの搬送スケジュールの再確認、そして新たな依頼として「西太平洋南部海域の海洋異常に関する英語圏メディアの動向を週次でモニタリングし、重要な公式発表があれば即座に通知すること」。

 送信してから、コーヒーの代わりにインスタントの緑茶を一杯飲んだ。

 フィッシャーからの返信は、業務開始の一時間以内に必ず来る。今は待つ必要はない。

 長谷部は再びノートパソコンを開き、国内の巨大掲示板のスレッドを確認した。理系専門板の「海の色が変?各地の海岸異常報告スレ」というタイトルのスレッドだ。前夜に百八十件だった書き込みが、朝の時点で三百四件になっていた。一晩で百二十件以上増えている。

 スクロールする。

 「高知の外洋で水揚げした魚の鰓が黒ずんでいた」「串本の磯で大量のウニが岩場に打ち上げられている写真」「三重の漁師の知り合いから、定置網に奇形の魚が増えているという話を聞いた」「沖縄の自分の知り合いが、海面近くで大量のクラゲの死骸を見た」。

 写真が数枚添付されていた。長谷部は一枚一枚を拡大する。ウニの大量打ち上げの写真は、確かに異常な数だ。鰓が黒ずんだ魚の写真は、画質が粗くて判断が難しいが、色調のおかしさは見て取れる。

 スレッドの返信のトーンは三つに分かれていた。「これは本当に異常だ、行政に報告すべき」派、「毎年この時期にはあること、騒ぎすぎ」派、そして「面白い、もっと写真上げろ」という野次馬派。前二者が拮抗しており、後者が最も多い。

 長谷部はスレッドを閉じた。

 社会は気づいていない。正確には、気づいている個人は散在しているが、その声が「警報」として結晶化するには、公式機関の認知と発信が必要だ。気象庁が、水産庁が、あるいは国土交通省の海洋局が正式に「異常を確認した」と発表した瞬間に初めて、社会はその存在を「現実」として受け入れる。

 その発表は、恐らく来ない。

 来ないまま、世界は終わる。


 午前八時すぎ、拠点の外周を二周して戻ってきた長谷部の手元で、スマートフォンが静かに振動した。

 フィッシャーからの返信だ。

 英文は三段落。一段落目は送金の進捗確認で、「第三マイルストーンを通過。日本の法人口座への最終着金は予定より二日早い見込み」。二段落目は台湾メーカーへの確認で、「搬送は明日の午前に田辺の港湾倉庫着。税関手続きはアークブリッジ名義で通過済み」。三段落目は新たな依頼への回答で、「海洋モニタリングの件は了解した。マイアミの環境リスクアナリストを一名アサインする。費用は月次精算」。

 長谷部は返信した。一言だけだ。

 「Good.」

 スマートフォンをポケットへ戻す。

 台湾ルートのHEPAフィルターが明日到着する。陽圧換気システムの一次稼働が明後日、つまりXデー前日には間に合う計算だ。外壁の養生硬化も同タイミングで終わる。ゲートの試験通電が今日の夕方。

 全部が、ぎりぎり間に合う。

 長谷部は空を見上げた。晴れていた。和歌山の山間部の空は広く、雑味がない。前世の戦場で、こういう晴れた朝に限って嫌な任務があったことを、脳が自動的に引き出した。

 感傷ではなく、経験則だ。

 穏やかな日常と、水面下で進む異常。その落差が最も広がっている瞬間が、最も危険だ。

 長谷部は司令室に戻り、椅子に座り直して、ノートパソコンを開いた。

 次に確認すべき情報は、国内のニュースだ。社会がまだ何も気づいていないことを、定期的に確認し続ける必要がある。警報が鳴っていないことを確認するのも、情報収集だ。

 トップページのヘッドラインを流し読む。政治のスキャンダル、芸能人の熱愛報道、円安、サッカーの試合結果。

 何もない。

 まだ、何もない。

 長谷部は静かに、それを確認した。


 午前十時を過ぎたころ、長谷部は異変に気づいた。

 気づいた、というより、気になった、という表現が正確だ。前世の軍人経験が培った、意識より先に動く身体の警戒センサーが、微かな信号を送ってきた。

 司令室の小窓から見える丸谷工務店の職人たちの動きが、朝とわずかに違う。作業の手は止まっていない。声も荒げていない。ただ、二人の職人が工具を置いて何かをスマートフォンで見ており、それを覗き込む形で後藤現場監督が輪に加わっていた。

 三人が画面を見つめる角度と、その表情の微妙なこわばり。

 長谷部は立ち上がり、外へ出た。

「何かありましたか」

 後藤が顔を上げた。五十代の職人の顔に、困惑の色がある。感情を隠す習慣のない、現場一筋の男の顔だ。

「いや、大したことじゃないんですが」と後藤は言い、スマートフォンを差し出した。「うちの職人の一人が、串本の親戚から連絡があって。海岸に変な魚が大量に打ち上げられてるって写真が来たんです」

 長谷部は画面を受け取った。

 写真は三枚。最初の一枚は、砂浜に横たわる魚の群れだ。アジかサバ程度の大きさだが、腹が白く裏返って打ち上がっているのに加えて、鰭の色が明らかにおかしい。黒ずんでいるというより、青紫に変色しており、一部は形そのものが変形しているように見える。二枚目は、それを撮影した人間が後ずさりしたのか、引きの画角になっており、浜辺に打ち上がった魚の量が全体として把握できた。数百匹、あるいはそれ以上だ。三枚目は別の角度から撮られており、波打ち際に白い泡が異常な量で浮いている様子が写っていた。

 長谷部は三枚を素早く確認し、スマートフォンを後藤へ返した。

「串本はここから南ですか」

「ええ、海沿いに車で一時間半くらい」

「近隣でよく起きることですか、これは」

「いや」と後藤は首を振った。「俺も串本は何度か行ったことがありますが、こんなのは見たことないです。なんかの病気ですかね」

 長谷部は三秒ほど考える間を置いてから、表情を変えずに言った。

「赤潮の一種か、あるいは水温の急変による酸欠でしょう。この季節には珍しいが、起きなくはない。気になるなら水産庁のサイトを確認してみてください」

「そうですかね」

「作業を続けてください。ゲートの試験通電が今日の夕方でしょう」

「あ、はい。そうですね」

 後藤は納得したような、していないような顔のまま、職人たちを現場へ戻した。

 長谷部は踵を返しながら、脳の中で静かに情報を更新した。

 串本。紀伊半島の先端に近い海岸だ。震源地の座標から直線距離で七十キロ前後。海流の方向と速度を考えれば、瘴気が海水を通じて拡散する経路として十分に整合する。前世の記憶では「Xデー当日に海の色が変わった」という認識だったが、変色より先に、生物への影響が出始めている。海洋変異の前駆症状は、長谷部が今朝把握した観測データよりも、既に表面化しつつあった。

 予測より、半日早い。


 司令室に戻り、ノートパソコンを開く。

 専門掲示板のスレッドをリロードする。三時間前に三百四件だった書き込みが、四百七十九件に増えていた。新着の書き込みの中に、串本の写真と思われる同じ画像が二件別々のアカウントから投稿されていた。拡散が始まっている。

 だが、まだインターネットの辺縁部の話だ。

 ヤフーニュースのトップページを開く。見出しには何もない。NHKのウェブサイトも確認する。何もない。水産庁の新着情報ページを確認する。何もない。

 長谷部は静かにウィンドウを閉じた。

 公式機関が動くとすれば、早くて明日の午前中だ。しかし明日の午前中に発表が出たとして、それが「異常な集団死滅の調査中」という内容であれば、社会の反応は「不気味だが様子見」で留まる。パニックには至らない。パニックが起きるのは、人間が直接的な被害を受けた時、あるいは映像として見た時だ。

 Xデーは明後日の夜だ。

 社会がパニックになる前に、世界は既に終わっている。

 長谷部は優先順位を再確認した。朝昼晩の三回のルーティンを、状況の変化があった時には随時追加で行う。これも前世の習慣だ。

 第一に、HEPAフィルターの据付。台湾ルートの分が明日届き、翌日のXデーまでに一次稼働させる。これは絶対条件だ。

 第二に、外壁と遠隔ゲートの完成。後藤の報告通り今日の夕方に試験通電が終われば、明日中に仕上げが完了する。擁壁の養生硬化と合わせて、Xデーには間に合う。

 第三に、燃料の充填状態の確認。地下の五万リットルタンクへの軽油充填は先週完了しているが、念のため今日の午後に自分の目で確認する。

 以上が物理的な準備だ。

 問題は、それ以外だ。


 長谷部が本当に警戒しているのは、物理的な準備の不足ではなかった。

 人間だ。

 丸谷工務店の職人たちは今日の段階では全員が現場に入っており、完工まで常駐する予定だ。丸谷との契約は工事完了後の即時精算であり、Xデーの翌日以降に彼らが現場に来ることはない。ただし、彼らは既にこの拠点の構造を知っている。高さ四メートルの擁壁。二重シャッターゲート。キルゾーン。地下燃料タンク。陽圧換気システムの設置箇所。

 知っている人間は、リスクだ。

 これは感情の話ではなく、論理の話だ。前世で長谷部が叩き込まれた原則の一つに「秘密の寿命は、知っている人間の数に反比例する」というものがある。丸谷工務店の代表の丸谷誠一は、守秘義務契約を結んでおり、また口の軽い下請けを使わないと約束した信頼性の高い人間だ。しかし信頼性とリスクは別の話だ。

 世界が終わった後、生き延びるために人間は変わる。

 前世で、それを長谷部は嫌というほど見てきた。

 善良だった人間が、飢えた翌日に仲間を裏切る。温厚だった人間が、子どもを守るために他人を売る。それは人間の悪意ではなく、環境の問題だ。環境が変われば、人間は変わる。変わらない人間の方が稀だ。

 だから長谷部は、感情で判断しない。

 丸谷工務店の職人たちへの対処は、単純だ。工事完了後、精算を済ませて送り出す。拠点の詳細な構造を知る人間が外に出ることへの根本的な解決策は存在しないが、Xデー後の混乱の中では、彼らが「この拠点の場所と構造を知っている」という情報を有効活用できる組織や人間が出現するまでにはタイムラグがある。そのタイムラグの間に、拠点の防衛力を完成させる。それだけだ。

 長谷部はメモを一行追加した。

 「丸谷工務店・精算と送別のタイミング:Xデー当日の午前中に完工確認、昼前に全額精算して解散」


 午後一時を過ぎたころ、長谷部は地下燃料タンクの点検へ向かった。

 拠点の中央棟から北へ三十メートル、コンクリートで固めたタンク室の蓋を開けると、軽油の揮発成分が鼻をついた。計器を確認する。充填率九十七パーセント。問題なし。バックアップ用のディーゼル発電機二基のオイルと冷却水も確認し、試運転スイッチを入れる。一号機が低いうなりを上げて始動し、三十秒後に安定した。二号機も同様だ。

 問題なし、と長谷部は脳内で処理した。

 その帰り道で、スマートフォンが振動した。

 画面を見る。フィッシャーからではなく、国内の番号からだった。表示は「丸山司法書士」。

「長谷部です」

「丸山です」と声が来た。四十代の、やや乾いた声だ。「アークブリッジの件でご報告を。登記が本日、予定より一日早く完了しました。法務局からの通知を今し方受けました」

「早かったですね」

「優先処理の甲斐がありました。法人格の正式付与は今日付けです。謄本は明日以降に取得可能になります。ご入用でしたら何部か取り寄せましょうか」

「三部お願いします。費用は振り込みます」

「承知しました。それから」と丸山は続けた。「事業目的への追記の件ですが、医療用高性能フィルター類と呼吸器管理用品に加えて、食品の輸出入業を付け加えることをお勧めします。今後、食品関係の物流を動かす際に、一本余分に根拠が持てますので」

 長谷部は一瞬考えた。

「追加してください。費用は追って精算します」

「了解です。では改めてご連絡します」

 電話が切れた。

 丸山は有能だ。依頼の行間を読んで、先回りして提案してくる。前世でこういうタイプの人間は、生存率が比較的高かった。知識と先読みの習慣がある人間は、混乱の中でも生き延びる術を見つけやすい。

 丸山哲郎。田辺市内の司法書士。今後の選択肢リストに入れておく価値がある。

 長谷部はスマートフォンをポケットへ戻し、司令室へ歩いた。


 夕方四時半、後藤から声がかかった。

「試験通電、行きます」

 長谷部は外へ出た。遠隔制御の二重シャッターゲートの前に、後藤と電気系統担当の職人が立っている。制御ボックスが設置され、ケーブルが新しい。後藤が制御ボックスのパネルを開き、スイッチを入れる。

 外側のシャッターが、低い駆動音とともに動き始めた。

 ゆっくりと、しかし確実に、鉄のシャッターが上昇した。上限に達すると自動で停止する。続いて内側のシャッターが同じ動作をする。後藤がリモコンを操作すると、今度は両方が閉まる動作をした。滑らかだった。引っかかりも音のズレもない。

「問題ないですね」と後藤が言った。

「遠隔の距離は」と長谷部は聞いた。

「電波環境が良ければ、このリモコンで五十メートル以上。司令室から有線接続のパネルなら、距離は関係なく操作できます」

「非常電源への切り替えは」

「ディーゼル発電機が起動している状態であれば、自動切り替えです。停電から三秒以内に切り替わります」

「よろしい」

 長谷部は改めてゲートを見た。鉄のシャッターが閉まった状態では、外から見ると分厚い壁の一部にしか見えない。これが開閉するとき、内側のキルゾーンで待ち構える者は、外から見えない。侵入者は、ゲートをくぐった時点で十五メートルの筒の中に入り込む。

 設計通りだ。


 夜になった。

 午後九時、長谷部は司令室の折り畳み椅子に座り、ノートパソコンを開いた。

 専門掲示板を確認する。海洋異常のスレッドが、今日だけで六百件以上に伸びていた。串本の写真が複数の別スレッドにも転載されており、和歌山、三重、徳島、高知の各地から類似した報告が集まり始めていた。死んだ魚の写真、変色した海面の動画、岩場から逃げ出したカニの群れを撮った短い映像。

 様々な反応があった。笑いのネタにする書き込み、陰謀論を唱える書き込み、真剣に水産庁に通報すべきだと呼びかける書き込み。どれも、正しい答えには辿り着いていない。

 NHKのサイトを確認する。

 今日の午後八時のニュースで、初めて取り上げられていた。見出しは「紀伊半島沖で魚類の大量死確認、水産庁が調査へ」。本文は三段落。原因不明、異常水温が一因の可能性、近隣の漁業関係者への影響を調査中、という内容だ。専門家のコメントとして「赤潮や水温の急変による酸欠の可能性が高い」という談話が添えられていた。

 長谷部は記事を三回読んだ。

 公式機関が認知した。これで社会の反応は、明日の朝から変わる。ニュースを見た人間の中に「最近の海はおかしい」という認識が生まれる。しかしその認識は、まだ「環境問題の一つ」の範疇に収まっている。パニックではない。

 ただし、変化の速度が上がった。

 長谷部は記事を閉じて、メモアプリに一行書いた。

 「公式認知:Xデーマイナス61時間時点。進行は予測より半日以上早い」

 それから、もう一行。

 「Xデーまで、明日と明後日の二日しかない」


 午後十一時、長谷部は朝昼晩の最後の優先順位確認を行った。

 明日一日でやるべきことを、順番に並べる。

 台湾ルートのHEPAフィルターユニットの港湾倉庫着荷確認と、拠点への搬入立ち会い。丸谷工務店との陽圧換気ユニット据付の段取り確認。外壁残工事と仕上げの進捗確認。地下燃料タンクの最終充填確認。フィッシャーへの定時連絡。そして「Kawasaki, Y.」の追加調査。

 最後の項目を書いた時、長谷部の指が一瞬止まった。

 大阪大学の「Kawasaki, Y.」。前世で橘征司の管理下にいた、結晶の加工チームのリーダー「河原崎」と同一人物である可能性が最も高い研究者だ。パンデミック後に崩壊する大阪、その大学周辺へ、橘より先に乗り込んでこの人物を確保する。それが第二章以降に控えている遠征ミッションの核心だ。

 しかし今はまだ、Xデー前だ。

 今この段階で長谷部にできることは、住所の特定と、パンデミック発生直後の居場所の推定だけだ。大学の研究室にいるのか、自宅にいるのか、あるいはフィールドワーク中なのか。パンデミック当日の混乱で、この人物がどう動くかを事前に絞り込んでおく必要がある。

 長谷部は学術論文データベースを開き、「Kawasaki, Y.」の最新の論文を確認した。投稿日は三週間前。所属機関は大阪大学大学院理学研究科で、連絡先アドレスが記載されている。大学のドメインのメールアドレスだ。

 もう一段掘る。

 学会の発表予定を検索する。国内の深海生物化学系の学会が来週末に東京で開催される予定だがプログラムを確認すると、「Kawasaki, Y.」の名前が発表者リストにある。つまり来週末、この人物は東京にいる可能性が高い。しかしXデーは明後日だ。来週末には、東京は既に存在していない。

 長谷部はウィンドウを閉じた。

 学会が開催されるかどうかではなく、Xデー当日のこの人物の位置を特定することが先だ。大阪にいるのか、東京に向かっているのか、あるいはまだ大阪にいるのか。学会の前日に移動するとすれば、Xデーの翌々日の移動になる計算だが、それも既に無意味な話だ。

 最も蓋然性が高いのは、Xデー当日、この人物は大阪大学周辺にいるという仮定だ。研究者は前日まで研究室にいることが多く、学会向けの最終資料整理をしている可能性が高い。

 長谷部はメモに書いた。

 「Kawasaki, Y.:Xデー当日は大阪大学の研究室周辺にいると推定。吹田市周辺。橘の先遣隊が動き出す前に確保が必要」

 それから一行空けて、長谷部はもう一つの問いを書いた。

 「河原崎とKawasakiが別人だった場合の、代替ルートは何か」

 答えは今夜は書かなかった。

 まだ、その問いを検討する段階ではない。まず拠点を完成させる。Xデーを乗り越える。それが終わってから、初めて次の遠征を設計できる。


 午前零時を過ぎた。

 長谷部はアラームを午前五時に設定し、寝袋へ入った。

 外は静かだった。山間部の夜は、虫の音すらない季節になっている。

 目を閉じる前に、一度だけ今日のデータを脳の中で整理した。海洋変異の前駆症状が観測データから確認できた。串本で魚類の大量死が目視で確認され、公式機関が報道で取り上げた。変化の速度は予測より半日早い。しかし、拠点の物理的な準備は予定通り進んでいる。明日、台湾ルートのフィルターが届く。明後日の夜に世界は終わる。

 六十時間を切った。

 長谷部は目を閉じた。夢は見ない。

 脳を整備時間として使うために、睡眠は十分な深度まで落とす。前世の極限状態で自分自身に施した調教が、今世でも正確に機能している。意識が沈んでいく感覚を、長谷部は穏やかに、しかし完全に制御しながら手放した。

 外壁の向こうで、山の木々が風に揺れた。

 世界はまだ、静かだった。

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