第8話:神々の遺物(アーティファクト)と時空間の指輪
深夜一時を過ぎていた。
旧キャンプ場跡地の、プレハブを改装した仮設の司令室。天井に張り巡らせた蛍光灯の一本が、小さく明滅している。丸谷工務店の職人たちが日中に取り付けていったものだが、配線の最終処理を急いだせいか、接触が安定していない。
長谷部雄介は、それを直そうとは思わなかった。
この明滅が目障りなら、明滅を許した自分の段取りが悪い。電灯一本に感情を使う余裕があるなら、代わりに何か考えるべきことがある。前世の基地で身に付けた習慣だった。感情の矛先を、常に自分の思考の燃料へ変換する。
折り畳みテーブルの上には、飲みかけのペットボトルのお茶と、電源の繋がったノートパソコン。それだけだった。
長谷部は椅子の背もたれに身を預け、右手の薬指にはまった指輪を、左の親指でゆっくりと撫でた。
時空間の指輪。
外見は、どこにでもある安いステンレスのリングだ。フリマサイトで三百円で売られていても誰も疑わない。しかし内側に刻まれた文様——肉眼では判別できないほど細密な螺旋模様——が、この国に数個しか存在しないとされる「国宝級アーティファクト」の証だった。前世で長谷部がこれを手に入れたのは、軍に入隊して三年目の、ある奇跡のような幸運の結果だった。そして今世では、その幸運を幸運に頼らず、計算で再現した。
仕様は単純だ。
指輪の文様に意識を集中させ、「開く」と念じると、現実空間に不可視の「口」が出現する。そこへ物体を押し込むと消え、「取り出す」と念じながら具体的な物を想像すると、亜空間から引き出される。収納した物体の時間は完全に停止するため、生鮮食品も武器も弾薬も、入れた瞬間の状態を永遠に保持する。
ただし、生物は収納不可だ。
正確には、生きた生物を収納すると、亜空間の中で「時間が停止」したまま閉じ込められる。心拍も、呼吸も、神経の伝達も、全て停止した状態で保存される。生命活動が止まれば、それはもう「生きている」とは言わない。前世で実験した際、収納した直後に取り出した動物は既に絶命していた。正確な機序は不明だが、「生命と時間停止は両立しない」とだけ理解していれば実用上は問題ない。
そして今、その亜空間の中に、二十三個の「濃縮された瘴気結晶」が眠っている。
長谷部は意識を集中させ、指輪を「開いた」。
テーブルの上、何もない虚空に、拳大の半透明の塊が一つ、静かに現れた。
青白い光が、規則的に明滅している。
一秒に一度、まるで呼吸するように。
長谷部は動かなかった。椅子に座ったまま、腕を組み、その光をただ見ていた。
美しい、とは思わなかった。
脅威だ、とだけ認識した。
これは世界の崩壊を引き起こした隕石の直下、水深三百二十メートルの暗黒の岩盤から引き剥がしてきた物質だ。瘴気——ゾンビウイルスの根源物質——が、極限まで濃縮されて結晶化したもの。前世の軍ではこれを加工した服用型のアイテムが、将校クラスに対して厳格な審査の後に支給されていた。加工前のこの原石を、一般の軍人が見る機会はほぼなかった。
だが長谷部は知っていた。
未加工のままこれを素手で長時間触れ続けると、皮膚から瘴気が浸透し、身体に異変が生じる。どの程度の接触でどの程度の異変が起きるかは個人の耐性によるが、少なくとも安全ではない。今日の潜水中、長谷部が厚手の耐熱耐薬品グローブを二重に重ねて回収したのは、そのためだった。
そして、服用すれば異能が発現する。
しかし未加工の原石をそのまま服用した場合——過負荷による昏倒、最悪の場合は内側から組織が壊死する。これも前世の知識だった。前線に補給が届かず、正規の加工アイテムが底をついた際に、絶望した兵士が原石を直接飲み込んで悶死した事例を、長谷部は二件知っている。どちらも、長谷部の部下ではなかった。だが、その死に顔は記憶している。
つまり、この二十三個は今のところ「使えない宝の山」だ。
死蔵品の中でも、最も扱いに困る類だった。
問題は、加工技術だった。
前世において、濃縮された瘴気結晶の加工は、橘征司少将の管理下に置かれた専門チームが独占していた。結晶を特定の薬品溶液に一定時間漬け込んで不純物と表面の過剰活性層を除去し、適切な粒径に粉砕した後、服用可能なカプセルへ封入するという工程だった——と、長谷部は内偵中に摑んでいた情報から推測している。正確な工程、薬品の種類と濃度、漬け込み時間、粉砕の細かさ。そういった数値的な詳細は、橘が軍内部の権力を維持するために厳重に秘匿していたため、長谷部の持つ情報には大きな空白がある。
だから、専門家が必要だ。
前世の記憶を辿ると、その加工チームを構成していた人材の素性について、断片的な情報がある。軍に招聘されたのは、民間出身の化学者と薬学者で構成された小グループだった。軍が彼らをリクルートしたのは、パンデミック発生から三ヶ月から四ヶ月後のことだ。それ以前、彼らは独自に瘴気の研究を行っていた——おそらく、廃墟になった大学や研究機関に立て籠もって。
今世のパンデミック発生まで、残り三日。
三日後に世界は崩壊し、大学も研究機関も病院も、大半が機能を停止する。そして瘴気の研究に着手できる素養を持った人間——化学、薬学、生化学、あるいは素材工学の専門家——が、廃墟の中に散らばることになる。
長谷部がすべきことは、その中から適切な人材を、橘の手が届く前に確保することだ。
ただし今は、三日前だ。
パンデミックが発生していない今の段階で、「瘴気結晶の加工技術を持つ人材をリクルートしたい」などと動くことは不可能だ。現時点でそんなことを言えば、精神科への搬送を勧められるだけである。
長谷部は指輪を「閉じ」、結晶をふたたび亜空間へ戻した。
テーブルの上から青白い光が消え、蛍光灯の明滅だけが残った。
椅子を引いて立ち上がり、司令室の窓から外を見た。
夜の拠点は静かだった。
丸谷工務店の職人たちは日没とともに引き上げており、今は敷地内に誰もいない。工事の進捗は、長谷部の想定よりわずかに速かった。高さ四メートルのコンクリート擁壁の骨格はほぼ完成し、遠隔制御の二重シャッターゲートも枠組みが据え付けられている。一次工事の最優先項目である外壁とゲートは、このままいけば明日中に完成する。
三日後には間に合う。
長谷部はそれだけを確認し、窓から離れた。
感慨はなかった。完成して当然だ。そのためにスケジュールを引き、金を払い、丸谷に段取りさせた。予定通りに進んでいることに安堵するのは素人のすることだ。予定通りに進まなかった場合に備えた代替案を、常に三つ用意しておくのが軍人の習慣だった。
長谷部は折り畳みテーブルへ戻り、ノートパソコンを開いた。
フィッシャーへの暗号メッセージ——先ほど送信したものへの返信はまだない。時差の問題だ。マイアミは今、昼過ぎのはずだが、フィッシャーは別件で動いているだろう。彼は必ず翌朝の業務開始から一時間以内に返信する。それまで待てばいい。
長谷部は別のウィンドウを開き、海外の学術論文データベースにアクセスした。
検索ワードは英語で入力した。「deep-sea mineral crystallization」「miasma」「unknown organic compound」——それらしい学術的な単語を組み合わせ、ヒットする論文の著者欄を地道に追っていく。パンデミック後、瘴気の研究に最初に取り組む可能性が高い専門家は、今この瞬間にも何らかの形で「異常な深海物質」や「未知の有機化合物」に関わっているはずだ。
前世の記憶に、一つの名前の断片があった。
加工チームのリーダー格だった人物。橘少将が「あの女を確保しろ」と部下に命じるのを、長谷部は一度だけ漏れ聞いたことがある。苗字だけだった。「河原崎」。それ以上の情報はない。性別は女。専門は不明。居場所も不明。
だが今は、それで十分だ。
パンデミック後に廃墟となった研究機関の中から、「河原崎」という名の女性研究者を探し出す。その作業は、今すぐ始める必要はない。今は、候補となり得る人物の絞り込みだけを行う。
長谷部は論文の著者リストを丹念にスクロールしながら、頭の中でもう一つの計算を並行して走らせていた。
Xデーまで、七十二時間。
三日後の夜明け前後に、世界は終わる。
検索を続けながら、長谷部は思考の一部を別の問題へ割いていた。
結晶の加工技術者の確保は、パンデミック発生後の話だ。では発生前の今、この三日間で自分にできることは何か。何をすべきで、何は後回しにすべきか。優先順位の再確認は、一日に最低三回行う習慣がある。朝、昼、就寝前。前世で身に付けた習慣の中で、最も生存に直結するものの一つだった。
現時点の最優先事項は、単純だ。
外壁とゲートの完成を見届けること。HEPAフィルターの陽圧換気ユニットが据え付けられていること。地下燃料タンクへの初期充填が完了していること。これら三点がXデーの瞬間に機能していなければ、他の全てが無意味になる。
次点は、備蓄の最終確認だ。
指輪の亜空間には、前世の経験から割り出した「百名が一年間生存するための物資」の初期分が既に格納されている。米、塩、缶詰、乾燥豆類、砂糖、油。抗生物質、消毒液、包帯、鎮痛剤。浄水フィルターと交換カートリッジ。燃料。種子。工具類。これらは全てパンデミック前の今世において、複数のダミー名義と分散発注で調達済みだ。
ただし、長谷部が指輪の中に囲っているのは「インナー(内郭)」用の物資だ。
要塞の外郭——アウターに収容する生存者たちに与えるための備蓄は、別途、拠点の倉庫スペースに積み上げられている。こちらはあくまで「PMCレベルの装備と、それなりの物資量」に見せかけた分量だ。質素だが飢えない程度。指輪の中の贅沢品とは、意図的に切り離されている。
部下は、長谷部が何を持っているかを知ってはならない。
正確には、「全部は知ってはならない」だ。
PMCレベルの武装と、ある程度の備蓄がある。それを見せれば、人間は「頼れる指揮官」として従う。しかし指輪の中に国宝級のアーティファクトが複数あり、一国の軍隊に匹敵する重火器が眠っており、何年分もの食料と医薬品が時間停止の状態で保管されていることを知れば、人間の欲というものは必ず別の形で動き始める。
前世で、それを学んだ。
信頼できると思っていた上官が、権力と物資を前にして変質した。親友だと思っていた同期が、利権を前にして別の顔を見せた。人間は環境で変わる生き物だ。極限の環境であれば、なおさら。
だから、牙は隠す。
在庫は溜め込む。
そして切り札は、本当に必要な瞬間にだけ、必要な分だけ使う。
午前二時を過ぎたあたりで、フィッシャーからの返信が届いた。
予想より早かった。マイアミの昼間に別件の合間を縫って確認したのだろう。暗号化されたメッセージアプリの画面に、簡潔な英文が並んでいた。
長谷部は画面を一読した。
HEPAフィルターの件——台湾メーカーとの一次交渉が完了し、ドイツのメーカーとは来週中に仮契約の目処が立つ見込みだという。韓国メーカーとの交渉は価格面で難航しているが、台湾とドイツの二社が確定すれば合計六十台規模の調達は確保できる。残りの四十台については、フィッシャー側が別のルートを探索中だ。
長谷部は「了解した、台湾とドイツを先行確定させろ。韓国は切って構わない」と返信した。
百台全部が理想だが、六十台あれば拠点の陽圧維持には十分だ。物流のタイムラインは問題ない。アークブリッジ名義での輸入申請は丸山司法書士が税関通りを良くするための事業目的の記載を追加してくれた。最悪、Xデーに間に合わない台数分はパンデミック後に随時追加調達すれば済む。今は動いている全てのラインを、一本でも多く前進させることだ。
次の報告事項として、フィッシャーは200億円の送金スケジュールを更新していた。当初の予定通り「四十日以内」を維持しており、現時点での進捗に問題はないという。マイルストーンとなる中継口座の通過タイミングも、予定の誤差範囲内に収まっている。
長谷部は数字を確認し、画面を閉じた。
金の心配は、今はしなくていい。
再び論文データベースに向かい、今度は検索ワードを変えた。
「river」「miasma」「crystallization」——この組み合わせでは的外れなノイズが多すぎる。長谷部は検索を生化学分野に絞り込み、「unknown mineral contamination」と「biological mutation」のキーワードで直近五年の論文を洗った。ヒット数は少なかったが、その中に一つ、目を引くものがあった。
著者欄に、「Kawasaki, Y.」という表記がある。
日本語の姓名をローマ字に変換した場合、「河原崎」は「Kawarasaki」になる。しかし「Kawasaki」は「川崎」でも「河崎」でもあり得る。前世の断片的な記憶の中の「河原崎」という音との一致は不確かだ。
長谷部は論文のアブストラクトを読んだ。
著者の所属機関は、大阪大学大学院の理学研究科。専門は「極限環境微生物学」と「深海熱水噴出孔周辺の鉱物化学」。論文のタイトルは、深海底の特定鉱物が周辺の有機化合物の変性に与える影響についての研究だった。
長谷部の指が、キーボードの上で一瞬止まった。
深海底の鉱物。有機化合物の変性。
確定はできない。しかし、これほど近いフィールドを研究している人間が、パンデミック後に「瘴気結晶の加工」という問題に向き合う可能性は、他の専門家よりも遥かに高い。
長谷部は著者名と所属機関をメモアプリに記録した。「Kawasaki, Y. / 大阪大学 / 極限環境微生物学」。それだけ書いて、検索を続けた。
確定情報ではない。可能性の一つだ。パンデミック後に廃墟となった大学の中から、この人物が生き残っているかどうかも分からない。ただ、候補リストを持っているのと持っていないのでは、動けるスピードが変わる。前世の橘は、こういった情報を組織の力で網羅的に収集していた。今世の長谷部は、一人でそれをやらなければならない。
だから今夜、眠れる時間が減っても、やる。
午前三時を回ったあたりで、長谷部は検索を止めた。
今夜得られる情報は、概ね得た。候補者リストには三名の名前が記録されている。確度の高い順に並べ、パンデミック後の動向を追う際の優先順位とした。
ノートパソコンを閉じ、長谷部は椅子の背もたれに身を預けた。
天井の蛍光灯は、まだ明滅している。
視線をそこへ向けながら、長谷部は淡々と翌日のスケジュールを頭の中で組み上げた。午前六時半に起床。丸谷工務店の現場監督に朝一で電話を入れ、陽圧換気ユニットの据え付け工事の進捗を確認する。フィッシャーへの返信確認。燃料タンクへの充填業者の最終確認。拠点内の備蓄倉庫の在庫チェック。
翌日の夜には、Xデーまで四十八時間を切る。
翌々日の夜には、二十四時間を切る。
そして、世界が終わる。
長谷部はそれを、感情のない目で見つめていた。
恐怖ではない。喪失感でもない。前世で一度経験した「世界の終わり」は、長谷部の感情の回路から「初めての衝撃」という要素を完全に奪い去っていた。代わりにあるのは、無数の変数を抱えた巨大な作戦行動の前夜に似た、冷えた緊張だ。
ただ一つだけ、感情に近い何かが動いた瞬間があるとすれば——
それは今日の昼間、指輪から結晶を取り出してテーブルの上に置いた瞬間だった。
青白く明滅するその光を見ながら、長谷部はふと、前世でこれを橘少将の管理下から盗み出そうとして失敗した夜のことを思い出した。作戦は詰めが甘かった。情報収集が足りず、橘の異能——心理透視——の存在を過小評価していた。
今世では、誰より先に震源地へ潜り、二十三個を独占した。
橘はまだ、この世界のどこかで普通に呼吸している。軍にいる。監査部長として、汚職を続けている。前世と同じ場所で、前世と同じように権力を振るっている。
その事実は、長谷部の胸の中で、熾火のように静かに燃えていた。
消えない。消す気もない。ただ、今はまだその火で動く時ではない。
最も冷めた皿で食う。
橘への憎悪は、完璧な準備が整った後で、最も効果的な形で執行する。それまでは、感情ではなく計算だけで動く。
長谷部は目を閉じた。
意識が落ちる直前、脳裏に一瞬だけ、前世で死なせた二十七名の顔が流れた。飯田の熱っぽい目。朴の静かな横顔。三宅の間の抜けた笑い。そして、名前も覚えていない若い兵士たちの、最期の表情。
今世では、死なせない。
それだけだ。それだけが、長谷部雄介を動かしている、唯一の感情的な燃料だった。
蛍光灯の明滅が、暗闇の中で続いていた。
Xデーまで、七十時間と少し。
翌朝、長谷部は午前六時二十九分に目を開けた。
アラームが鳴る一分前だった。前世からの習慣だ。身体が、時間を覚えている。
起き上がり、水を飲み、窓の外を確認した。朝の光の中で、高さ四メートルのコンクリート擁壁がどっしりと聳え立っている。まだ養生シートが被さった箇所があるが、骨格としての威容は既に完成していた。昨日とは確実に違う景色だった。
長谷部は視線を動かさず、ただそれを見た。
「計算ではない何か」が、また胸の奥で脈打った。
しかし今はそれを認識するだけで十分だった。名前をつける必要はない。前世では最後まで、この感覚が何であるかを長谷部は自分に説明しなかった。
今世でも、同じで構わない。
長谷部は折り畳みコットから立ち上がり、ジャケットを羽織り、ノートパソコンを開いた。
やることが、ある。
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