第7話:厄災の揺り籠、西太平洋
紀伊半島の南端、田辺市の小さな漁港に、夜明け前の暗闇が重く垂れ込めていた。
午前四時二十三分。
長谷部雄介は防波堤の端に立ち、墨を溶かしたような太平洋の水面を眺めた。波は穏やかだった。まるで何も知らないように、何も知らせまいとするように、黒い海はただ静かに呼吸を繰り返している。
今日から三日後、この海の色が変わる。
その事実を、世界で唯一知っている人間として、長谷部は冷たい潮風を顔で受け止めた。感慨はなかった。あるのは確認だけだ。タイムラインは正確に動いている。それだけでいい。
背後で、船のエンジンが低く唸った。
チャーター船「第三海神丸」。全長二十二メートル、総トン数六十八トンの中型調査船。船籍は高知。本来は海洋調査会社に所属しているが、アークブリッジ名義で三週間前から押さえていた。名目は「海底地形の自社調査」。代金は前払いで現金払い。船長への口止め料も含めて、一切の書類は最小限に留めてある。
問題は、同行させる人間だった。
「準備できました」
背後から声がかかった。振り返ると、ウェットスーツの上にドライスーツを重ね着した男が二人、桟橋に立っている。
一人は四十代半ば、短く刈り込んだ白髪まじりの黒髪と、潮焼けした浅黒い肌。元海上自衛隊の潜水員で、現在は沖縄で民間の水中撮影・調査会社を営む石川哲也。もう一人は三十代前半、細身だが肩幅が広い。元商業潜水士で、石川の会社に途中から加わった若手の草野純。
フィッシャーの伝手で辿り着いた人材ではない。長谷部が自力で掘り当てた。
前世の軍人時代、深海作業の専門業者を探す際に叩いた漁協のルートを、今世では三ヶ月早く、かつ金で動く民間ルートとして再利用した。石川の会社に依頼したのは「水深三百メートル超の海底サンプル採取」。特殊な装備が必要で、かつ民間では稀少な技能だ。報酬は相場の四倍。守秘義務契約書にサインさせ、「依頼人の正体について一切口外しないこと」を条件に加えた。
石川は契約書の文言を一通り読んだ後、眼鏡の位置を直してこう言った。
――何を採取するんですか。
長谷部はためらいなく答えた。
――海底の鉱物サンプルです。大学との共同研究で、まだ公開できる段階ではない。
嘘だ。しかし、石川に必要なのは答えではなく、答えを信じる理由だった。長谷部はその場で現金の入った封筒を机に置いた。着手金、百五十万円。石川の眉が僅かに動いた。それで十分だった。
草野の方は最初から金にしか興味がなかった。話が早い人間は好きだ、と長谷部は思った。
「装備の最終確認は」
「終わってます。混合ガス(トライミックス)の残圧も問題なし。降下用のショットラインも設置済みです」
石川が淡々と答えた。余計なことを言わない。長谷部は内心で合格点をつけた。
「出港は五時ちょうど。予定通り」
「了解です」
長谷部は船に乗り込む前に、もう一度だけ水平線を見た。
空は少し白み始めていた。Xデーまで、残り七十二時間と少し。
出港から六時間後、「第三海神丸」は紀伊半島の南南西、黒潮の本流から外れた特定の海域に停泊した。
GPSの座標は、長谷部が前世の記憶と、過去二ヶ月間かけて収集した海底地形データ、水深データ、潮流の季節変動記録を突き合わせて絞り込んだ地点だ。正確な落下座標の記憶はない。あるのは前世で耳にした断片的な情報、紀伊半島沖、水深三百メートル台、黒潮の影響を受ける隆起地形の近傍、という条件だけだ。
前世では、その情報すら軍の機密扱いで、一般兵には開示されていなかった。長谷部が知っていたのは、部下の一人が死ぬ直前に口にした「震源地」という言葉と、その後に軍が最優先で封鎖した海域の大まかな範囲だけだ。
それで十分だった。
軍人は不完全な情報から判断する訓練を受けている。完璧な情報が揃うまで動かない人間は、戦場では死ぬ。
「ここです」
長谷部は船長室から出てきた石川に座標を告げた。石川は手持ちの海図と照合し、短く「水深は三百四十メートル前後になります」と答えた。「底質は泥岩系か玄武岩系が混在してる海域です。サンプル採取なら、降下ラインを二本張ります」
「頼む」
準備に三十分かかった。
長谷部は甲板の端で、石川たちの作業を眺めながら、自分の装備を確認した。今日のこの潜水で、自分に与えられた役割は一つだけだ。石川と草野が海底に降下し、サンプルを採取する。自分はその間、水面近くで待機する。
そういう段取りになっている。
実際には、違う。
長谷部は薄く笑った。部下たちには見せない笑みだ。今の「部下」は石川と草野だけだが、どちらも長谷部の本当の目的を知らない。
海底の「濃縮された瘴気結晶」は、当然ながら、石川にも草野にも採取させない。あれに触れた人間がどうなるか、この段階では長谷部自身も正確には把握していない。前世の軍の記録では、素手で長時間接触した人員に異変が生じたという断片的な報告があった。加工されたアイテムとして服用する分には問題ないが、未加工の濃縮結晶は別だ。
だから、自分が潜る。
石川たちが底に降りて採取作業を開始した後、長谷部は「様子を確認する」という名目で水中に入り、単独で深場に降下する。時空間の指輪は既に右手の薬指に嵌めてある。防水仕様など関係ない。アーティファクトはそういう次元の制約を受けない。
問題は、水深三百メートル超への単独潜水が、通常の人間には不可能だという点だ。混合ガスなしでの潜水限界は遥かに浅い。窒素酔いで意識を失い、水圧で肺が潰れ、命はない。
しかし、長谷部の状況は通常の人間とは既に少し異なっている。
震源地から回収したアイテムの服用、異能の覚醒、それはこれからだ。現時点の長谷部は、まだ完全な人間だ。
分かっている。
だから、指輪だけを使う。
指輪の亜空間の内部には、前世の知識から事前に詰め込んだ装備がある。ダイビング用の高圧混合ガスタンク(トライミックス)、ドライスーツ一式、水中推進機、ダイブコンピューター。フィッシャーの海外調達ルートを使い、全て別名義で購入した装備だ。船に持ち込んでいない。石川たちには見せていない。
海の中で、人に見えない場所で、指輪から装備を取り出す。
それだけのことだ。
「長谷部さん、準備いいですか」
草野が振り返って声をかけた。
「ああ」
長谷部は立ち上がり、借り物のウェットスーツの胸元を整えた。マスクを額に上げ、フィンを片手に持つ。石川と草野はそれぞれ自分の装備を最終確認している。ベテランの動作は無駄がない。
「降下速度は毎分九メートル以下で。安全停止は減圧計算通りに必ずやります。途中で何かあったらラインを三回引く」
「了解」
石川が海面を確認し、首を縦に振った。
「では、入ります」
後ろ向きに倒れ込むバックロール。草野が続く。二つの水柱が上がり、泡が散って、二人の姿はすぐに水面下に消えた。
長谷部は甲板の端に立ち、二人が降下していくショットラインの浮標を眺めた。
海は、まだ青かった。
今はまだ、普通の海だ。
三日後には変わる。
長谷部は深く息を吸い込み、静かにマスクを顔に当てた。
水温は二十一度。表層付近はまだ黒潮の名残で温かいが、深場に向かうにつれて急速に冷える。
石川と草野が降下ラインを伝って沈んでいく方向とは逆に、長谷部は水中で指輪の収納空間を開き、装備を取り出した。誰にも見えない。水深十五メートル、透明度の落ちた薄暗い水柱の中で、長谷部は手際よく自分のウェットスーツを脱ぎ、ドライスーツに着替えた。タンクを背負う。バルブを開いて呼吸を確認する。レギュレーターから出る気泡が、音もなく上方へ漂っていった。
ダイブコンピューターが現在水深と水温を示している。長谷部は一度だけ深呼吸し、推進機のスロットルを緩やかに操作した。
降りる。
水柱は暗かった。石川たちの降下ラインとは別の方向、やや斜め下へ推進機を向ける。深場へ向かうにつれて、光が失われていく。海面の青が、濃紺になり、やがて黒に近い藍色になった。水圧が体を均一に押してくる。ドライスーツの内圧を調整しながら、長谷部は降下を続けた。
前世の軍では、こういう潜水訓練は受けていない。
しかし、計算は十分にしてきた。
水深二百メートルを超えた辺りで、水中推進機が微かに抵抗を増した。長谷部はコンピューターの表示を確認し、降下速度を落とす。三百メートル。三百二十メートル。暗闇の中で、ヘッドライトの光が海底付近の粒子を照らし始めた。
そして、長谷部はそれを見た。
海底の岩盤の隙間、堆積した泥の奥から、かすかな光が漏れていた。
青白い、脈打つような光だ。
生物発光とは違う。もっと規則的な、内側から押し出されてくるような明滅だった。長谷部はゆっくりと近づき、泥を手で払った。泥が水柱の中に舞い上がり、視界を一時的に遮る。待つ。泥が落ち着く。
そこにあった。
拳大ほどの結晶が、岩盤の亀裂に沿って複数、まるで植物の芽が地面を割って出てくるように、海底から突き出ていた。表面は滑らかで、水中でもはっきりと分かる半透明の青白さだ。ヘッドライトを当てると、内部で何かが蠢くように光が散乱する。
長谷部は一瞬、動きを止めた。
前世では、こんなものを自分の目で見たことはなかった。軍の報告書の中の記述と、死んだ部下たちが口にした「海底の光」という言葉だけが、自分の知っているすべてだった。
実物は、思ったよりも静かだった。
美しい、とすら思った。
しかし長谷部は、その感傷を三秒で切り捨てた。
美しいものは大抵、危険だ。
手袋越しに、結晶の一つに指先を触れてみた。何も起きない。熱も振動もない。ただ、わずかに、指先の感覚が遠くなるような気がした。気のせいかもしれない。
長谷部は指輪の収納空間を開き、事前に用意した厚手の耐熱耐薬品グローブを取り出して重ね嵌めた。そして、一つずつ、丁寧に結晶を回収し始めた。
亜空間の中に収まる結晶は、外から見ると消えたように見える。長谷部は周囲の岩盤の亀裂を丹念に調べながら、目に入るものを全て指輪の中に収めた。
数は、二十三個。
それが、この海域で今日確認できるすべてだった。
作業時間、十七分。
長谷部はコンピューターを確認し、浮上の計算を始めた。急浮上は死を招く。規定の減圧停止を守りながら、ゆっくりと上昇する。海面に向かって、暗闇の中を一人、垂直に昇っていく。
背後では、海底の岩盤がひっそりと、次の光を育て始めていた。
石川と草野が浮上してきたのは、長谷部が水面に出てから二十分後だった。
長谷部はその間に、指輪から取り出したドライスーツを再び収納し、借り物のウェットスーツを着直し、甲板へ上がって何事もなかったように熱いコーヒーを飲んでいた。船長の山田は操舵室でウトウトしている。甲板に人の目はなかった。
完璧だ。
「お疲れ様でした」
石川が梯子を上がってくる。草野がその後に続く。二人とも表情に疲労が滲んでいたが、目には充実感があった。水深三百メートル超の潜水は、熟練のダイバーにとっても極限に近い作業だ。
「採取は順調でしたか」
長谷部が問うと、石川はマスクを外しながら「岩盤サンプルを十一点。海底の堆積物を三点。依頼通りです」と答えた。サンプルケースを甲板に置く。灰色の岩の破片と、褐色の泥が入った密封容器が並んだ。
長谷部はそれを一瞥して「ありがとう」とだけ言った。
このサンプルは長谷部には不要だ。アークブリッジの調査記録として書類上に残す分だけ意味がある。石川たちへの報酬は全額支払われる。この潜水は、端的に言えば、長谷部の単独降下を隠すためだけに設定された作業だった。
しかし石川にそれを告げる必要はない。
「一つ聞いていいですか」
草野が濡れた髪を拭きながら声をかけてきた。二十代後半の、人懐こい顔をした男だ。仕事中はよく喋らなかったが、甲板に上がると少し緩む。
「何だ」
「さっき、水面下で採取してましたよね。石川さんと別のところで。ヘッドライトの光が見えた気がして」
長谷部は草野の目を見た。好奇心だ。悪意ではない。しかし、こういう目は放置すると後で面倒になる。
「海面付近の水中写真を撮っていた。装備確認も兼ねてな」
「写真? カメラ持ってましたっけ」
「小型のものだ。ウェットスーツのポケットに入る」
草野は一瞬考える顔をして、それから「ああ、そうですか」と納得したように首を縦に振った。追及する気はないらしい。もともと金のために来ている人間だ。深いところまで首を突っ込む理由がない。
それでいい。
石川はこのやり取りを黙って聞いていた。長谷部の視線がそちらに動くと、石川はコーヒーを一口飲んで「帰りは潮流が向かい風になります。到着は夜になりますね」とだけ言った。
余計なことを言わない男だ、と長谷部は改めて思った。使いやすい。
帰路の甲板で、長谷部は一人、船尾に立った。
西の空が赤く染まり始めていた。漁港を出てから十二時間以上が経っている。体は疲れていない。むしろ、指輪の中に収まった二十三個の結晶の重さが、物理的にではなく、概念的に手の中にある感覚が、奇妙な充足感をもたらしていた。
これが世界を変える。
正確には、世界はどうせ変わる。自分がここにいようといまいと、Xデーは来る。瘴気は蔓延する。人類の九十九・九パーセントは死ぬ。その事実に、長谷部一人の行動が影響を与えられる余地はない。
だから、長谷部がこの結晶を持っているということは、単純に、持っていない人間より有利だというだけのことだ。
前世では、軍が組織的に回収と管理を行った。将校クラスでも、アイテムの現物を手にするのは厳格な審査と手続きの後だった。橘はその審査過程を支配していた。誰が何を手に入れるかを橘が決め、それによって軍内部の力学が支配されていた。
今世では、その回収ルートに長谷部が先手を打った。
ただそれだけのことだ。感慨に浸る話ではない。
しかし、黒潮の風を顔に受けながら、長谷部は静かに目を閉じた。
前世で死んだ部下たちの顔が、順番に浮かんだ。
二十七人。全員の顔と名前と、最後に見た表情を覚えている。笑っていた者はいなかった。ほとんどが驚いた顔で、あるいは諦めた顔で、あるいは誰かに謝るような顔で、死んでいった。
長谷部は目を開けた。
感傷ではない。確認だ。自分がなぜここにいるのかを、定期的に確認する。感情として処理するのではなく、燃料として使う。怒りも悲しみも、適切に変換すれば推進力になる。それ以外の使い方をすると、判断が狂う。
前世でそれを学んだ。
「長谷部さん」
石川が後ろに立っていた。気配もなく近づいてくる男だ。元自衛隊の潜水員というのは本当らしい。
「何だ」
「一つだけ確認させてください」
石川は長谷部の隣に並び、同じように水平線を眺めた。並んで話すのが好きな男らしい。向き合って話すより楽だということを、経験で知っているのかもしれない。
「今日採取したもの、岩盤サンプルじゃないですよね」
長谷部は答えなかった。
「水中で見えました。あの光は岩じゃない。何か別のものだ」
波の音だけが続いた。エンジンの低い唸りが甲板越しに伝わってくる。長谷部は石川の横顔を見た。五十に近い男の顔だ。深海で長い時間を過ごしてきた人間特有の、何かを見極めようとする目をしている。
「余計なことを考えるな」
「考えてません。ただ確認しただけです」
「その確認に、答える必要があるか」
「ありません」
石川は短く答えて、コーヒーカップを口に運んだ。それ以上は何も言わなかった。
長谷部は石川を三秒ほど観察した。
危険ではない、と判断した。この男は知りたいのではなく、自分が見たものと現実との辻褄を確認したかっただけだ。プロとしての習慣。矛盾を放置すると不安になる人間だ。答えを得られなければ得られないで、それを所与の条件として処理する。
使い方を間違えなければ、信頼できる。
「今後も依頼することがある」と長谷部は言った。「条件は今日と同じか、それ以上になる。受けるか」
石川はしばらく黙っていた。
「内容次第です」
「深場の潜水だ。今日より危険になることもある」
「報酬は」
「今日の倍を基準にする。内容に応じて上乗せする」
石川は口の端を少し動かした。笑ったのかもしれない。「考えておきます」と言って、操舵室の方へ歩いていった。
答えはイエスだ、と長谷部は確信した。今日の報酬を受け取った時点で、石川はこの仕事の性質を理解している。後戻りするより前に進む方が得だと、プロとして計算している。
人間はそういうものだ。
条件と利益が合致すれば動く。長谷部はそれを信頼する。感情や義理を信頼するよりずっと、確実だ。
漁港に戻ったのは、夜の九時を回った頃だった。
石川と草野に残金を支払い、サンプルケースを受け取り、次の連絡は追って、という一言で別れた。二人は車で帰っていった。船長の山田は岸壁に係船して「お疲れさんでした」と言い、特に何も聞かずに船室に引き上げた。金をもらって仕事をした人間の、健全な無関心だった。
長谷部は一人、漁港の駐車場に立った。
海から離れると、急に陸の匂いがした。草と土と、かすかなガソリンの匂いが混ざった、普通の夜の匂いだ。空に星が出ている。ここまで南に来ると、都市部より星の数が多い。
長谷部は空を見上げなかった。
レンタカーに乗り込み、エンジンをかけた。拠点まで二時間弱。途中のコンビニで食料を補充し、報告書をフィッシャーへ送る。やることは山積みだ。
ナビに目的地を入力しながら、長谷部は指輪を嵌めた右手を一度だけ握り締めた。
二十三個の結晶が、亜空間の中にある。
さて、と長谷部は思った。
これをどう使うか、の問題だ。
前世の軍の記録では、服用型に加工するには特定の処理工程が必要だとされていた。素材の純度が高すぎる場合、そのまま服用すると過負荷による昏倒や、最悪の場合には内側から組織が壊死するリスクがあるという報告もあった。加工技術を持つ専門家が当時の軍には存在したが、その知識の多くは橘の管理下に置かれていた。
今世では、その専門家がいない。
つまり、自分で処理するか、あるいは適切な人間を探し出すかだ。
前者は博打だ。後者はリードタイムがかかる。
どちらが正解かは、まだ決めていない。
今夜は持ち帰り、拠点の指輪の中に保管する。当面は手をつけない。条件が揃ってから動く。それが長谷部の流儀だ。死蔵は悪徳ではない。準備なき行動の方が、はるかに致命的だ。
エンジン音が夜の漁港に響いた。長谷部はアクセルを踏んだ。
帰路の山道、カーブを曲がったところで、長谷部は反射的にブレーキを踏んだ。
前方に車が一台、路肩に停まっていた。ハザードランプが点滅している。ボンネットが開いていた。
長谷部は速度を落としながら横を通り過ぎようとして、ハザードの光の中に人影を見た。
若い女だった。二十代前半か、それ以下かもしれない。車の前でしゃがみ込み、エンジンルームを覗き込んでいる。スマートフォンを片手に持ち、どこかへ連絡しようとして繋がらないのか、画面を何度も操作している。
山道だ。電波が通りにくい。夜に一人でいるのは危険だ。
長谷部は通り過ぎた。
バックミラーの中で、ハザードランプの点滅が遠ざかっていく。
五秒後、長谷部は車を路肩に寄せて停めた。
感傷ではない。計算だ。
この山道で夜間に立ち往生している若い女が放置され、何らかの事態が起きた場合、翌日以降に警察が動く。目撃情報が集まる。この時間帯にこの道を走っていた車のナンバーが記録される可能性がある。レンタカーは長谷部の名義だ。
それは避けるべきリスクだ。
長谷部は車を降り、女の方へ歩いた。
近づくと、女が顔を上げた。目が赤い。泣いていたのか、疲れているのか、あるいは両方か。長谷部を見て一瞬警戒する顔になったが、すぐに「あの、すみません」と小さな声で言った。
「エンジンがかからなくて。バッテリーだと思うんですけど、電話も繋がらなくて」
「ジャンプケーブルはあるか」
「えっと、あります、たぶん、トランクに」
「持ってこい」
長谷部は自分のレンタカーをUターンさせてヘッドライトが届く位置に停め、ジャンプスタートを手伝った。作業時間、七分。エンジンがかかると、女は「ありがとうございます」と何度も頭を下げた。
「次の街まで止まるな。停車したら今度は起動できなくなる」
「はい。分かりました」
「ガソリンスタンドで充電させてもらえ」
「はい、ありがとうございます、本当に」
長谷部は余計なことは言わず、自分の車に戻った。女の車が先に走り去った。赤いテールランプが曲がり角の向こうに消えていく。
長谷部はエンジンをかけながら、この七分のロスを頭の中の行程表に書き込んだ。
影響なし。許容範囲だ。
山道を走り出しながら、長谷部は今日一日を整理した。
結晶の回収は成功だ。石川の継続確保も見込める。カバーストーリーに綻びはない。帰投後の作業は、フィッシャーへの報告と、結晶の保管方法の検討と、明日以降の加工ルートの調査だ。
Xデーまで、残り六十七時間弱。
海の色が変わるまでに、自分は要塞にいればいい。
すべては計算通りに動いている。
長谷部はアクセルを踏んだ。山の夜は深く、ヘッドライトの光の届く先だけが、辛うじて道と呼べる輪郭を保っていた。その先は闇だ。しかし長谷部は速度を落とさなかった。
闇の中に何があるかは、知っている。
知っている者が、先に進む。
それだけのことだ。
拠点に戻ったのは深夜の零時を過ぎた頃だった。
丸谷工務店の一次工事はほぼ完了している。高さ四メートルのコンクリート擁壁が、旧キャンプ場跡地の南側、一本道に面した全域をぐるりと囲んでいた。遠隔制御の二重シャッターゲートも稼働している。内側十五メートルのキルゾーンも設計通りだ。
まだ荒削りだ。まだ足りない部分がある。しかし、骨格は出来ている。
長谷部は車をゲートの内側に入れ、エンジンを切った。静寂が戻る。虫の音と、遠くの沢の水音だけが聞こえた。
指輪を右手で握った。
二十三個の結晶が、亜空間の中で光を溜めている。
長谷部は空を見上げた。満天の星だった。
あと三日で、この星空の下で、世界が終わる。
終わらせてみろ、と長谷部は思った。
俺は、準備ができている。
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