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第6話:終末へのカウントダウン

翌朝、アラームより三分早く目が覚めた。

軍に入ってから、長谷部雄介はほとんど夢を見ない。正確には、見ないように脳を調教した。夢というものは記憶の処理であり、感情の残滓であり、弱さの排泄物だ。前世で二十七名の顔を脳の最深部に封印してからというもの、眠りはただの「身体の整備時間」へと変質した。

目を開ける。白いホテルの天井。

田辺市、ルートイン。Xデーまで、あと九十三日。

長谷部は布団の中で一度だけ深呼吸をして、即座に上体を起こした。筋肉がまだ怠さを訴えているが、それは無視する。身体の声を聞く時間は、まだ来ていない。

洗面所の鏡の中に、三十二歳の男の顔がある。頬は削げ、眼窩が落ち窪んでいる。前世の年季が今世の肉体に滲み出ているようで、長谷部はそれを静かに確認してから視線を切った。鏡は情報ではない。

五時ちょうどにスマートフォンを確認する。フィッシャーからの新着はない。昨夜送った暗号メッセージへの返信は、時差を考慮すればマイアミの深夜に届いたはずだ。あの男は夜中に届いたメッセージにも必ず翌朝の業務開始一時間以内に返信する。フロリダ時刻で言えば、まだ午後一時にすらなっていない。焦る必要はない。

コーヒーメーカーで薄い缶コーヒーを一杯だけ落とし、窓の外に目を向けた。

田辺市の朝は、静かだ。

商店街のシャッターはまだ下りており、路地を一匹の野良猫が横切っていく。遠くで軽トラックのエンジン音がして、それだけだ。太陽は山の端から顔を出したばかりで、町全体がまだ薄明かりの中にある。平和な光景だった。

あと九十三日で、この景色は地獄に変わる。

長谷部は缶コーヒーを一口飲んで、椅子に腰を落とした。コーヒーの味がしない。していても、今は気にしない。

ノートパソコンを開く。

昨夜構築した「第一フェーズ優先工事リスト」のスプレッドシートに目を通す。要塞化工事の優先度は、外壁・ゲートが最上位、次いで電力系統と空調フィルター、その次が備蓄倉庫と地下燃料タンクだ。三日前に現地を視察した段階で、沢の水源と地形の確認は終えている。あとは丸谷工務店の代表を連れて現場に立てば、工事のフィジビリティと見積もりが出る。木曜の午前中、それが今日だ。

時刻は五時十二分。

集合は午前十時。時間はある。

長谷部はスプレッドシートのタブを切り替えた。「要員リスト」という名称のシートが開く。しかしその中に名前は書かれていない。白紙だ。

前世の記憶の中に、二十七の顔がある。

飯田。朴。三宅。ほかの二十四名。

長谷部は脳裏に浮かぶ彼らの顔を、意識して蓋で押さえた。今は必要ない。感情は燃料ではなく、消耗品だ。使う場所と量を誤れば、すべてが狂う。前世で学んだことの中で最も重要な教訓が、それだった。

パンデミック当日まで、彼らには近づかない。不審に思われる。接触のタイミングは計算済みだ。「偶然」の体裁を作ることが、彼らの信頼を得る最初の布石になる。

代わりに長谷部は別のタブを開き、「震源地遠征計画」と打ち込まれたメモを確認した。

チャーター船の手配。潜水技術を持つダイバーの調達。海図と気象データの入手。これらは、ダミー法人「株式会社アークブリッジ」が正式登記されてからでなければ動けない。今日の午前中に司法書士の丸山から進捗の連絡が来るはずだ。

長谷部は窓の外をもう一度見た。

野良猫はもういない。代わりに、白い軽自動車が一台、静かな道路を走り抜けていった。


午前十時、旧「みどりの丘オートキャンプ場」跡地。

山を登る一本道を、長谷部のレンタカーと、その後ろに続く白いハイエースが砂埃を立てながら走った。ハイエースの助手席には「株式会社丸谷工務店」と刷られた名刺が一枚、ダッシュボードの上に置かれている。

広場に車を止めると、ハイエースから六十前後の男が降りてきた。

丸谷誠一。代表取締役。赤みがかった日焼けた顔に、白髪交じりの短い頭髪。作業着の上から薄手のジャンパーを羽織っており、ポケットから折り畳み式のメジャーをすでに取り出していた。プロの習慣だ、と長谷部は思う。道具をすぐに手の届く場所に置いておく人間は、仕事に対して一定の誠実さを持っている。

「遠いところをわざわざ」と長谷部は言って、軽く頭を下げた。

「いやいや、こちらこそ」丸谷は人懐っこい笑顔で応じた。「電話でもお聞きしましたが、規模が規模だけに、百聞は一見にしかずと思いまして。若いのに、えらいしっかりした話をされるんやなあと、うちの息子にも言うてたんですわ」

「お褒めにあずかり光栄です」

長谷部は感情のない微笑を浮かべ、すぐに視線を土地全体へ向けた。

「まず外周から見ていただければ」

ここから先、長谷部は一言一言を計算して話す。

丸谷工務店を選んだ理由は三つある。地元に長年の実績があること。法人規模が中堅で、大手ゼネコンのように情報が拡散しないこと。そして代表の丸谷が「仕事に飢えている」という印象を、電話口でのわずかな言葉の間から嗅ぎ取ったからだ。

飢えている人間は、条件に飛びつく。そして飛びついた後は、飛びついた自分を肯定したくなる。

長谷部はゆっくりと外周を歩きながら、仕様の説明を開始した。

「外周をぐるりと高さ四メートルのコンクリート擁壁で囲います。入口は一箇所のみ、二重のシャッターゲートを設置する。内側に十五メートルほどの通路を設けて、外の車両が内側へ直接進入できない構造にしたい」

丸谷は手帳にメモを走らせながら、時折うなずく。

「用途は、企業の研修施設と、有事の際の物資集積拠点です。最近、BCP対策の義務化の流れがありますでしょう。それに加えて、この辺りは熊の出没も多いと聞きまして」

「ああ、それはもう。近年とくにひどいですわ」丸谷は苦笑した。「去年も隣の集落で農作物が全滅して。でも高さ四メートルのコンクリートは、BCP対策というより、むしろ……」

「防衛省の外郭基準を参考にしています」長谷部はさらりと言った。「うちの親会社がアメリカにありまして。向こうの安全基準が厳しいもので」

丸谷は一瞬だけ目を瞬かせ、それから「なるほど」と言って手帳へ視線を戻した。

嘘は、核心だけを隠す。それ以外はなるべく事実に近づける。その方が話に一貫性が生まれ、後から綻びが出にくい。

二人は広大な平坦地を三十分かけて歩いた。沢の水量を確認し、アクセス道路の幅員を測り、地下燃料タンクを埋設するための地盤の状態を丸谷が見極めた。その間、長谷部は余計なことを喋らず、技術的な質問にだけ端的に答えた。

「地下タンクは容量で言うと、どれくらいをお考えで」

「軽油を主とした燃料タンクで五万リットル以上。ディーゼル発電機の二基運用を前提にしています。太陽光パネルと蓄電池をメインにして、発電機はバックアップ扱いです」

「五万リットル」丸谷は一度鉛筆を止め、長谷部の顔を見た。「それは、かなりの規模ですな」

「長期の自立運用が前提ですので」

「何年分を想定で」

「三年以上」

丸谷の表情が変わった。驚愕ではなく、職人としての純粋な好奇心に近い表情だ。

「……わかりました。かなり特殊な案件やけど、うちでやれん理由もない。今日中に一次見積もりの概算を出しますわ」

「それと、一つお願いがあります」長谷部は歩みを止め、丸谷の目を正面から見た。「この工事の内容と規模については、社外に一切口外しないでいただきたい。守秘義務契約を別途締結します。違約金の条件は、正式契約時に書面でお示ししますが、かなり厳格な条件になります」

丸谷はわずかに間を置いた後、静かにうなずいた。

「わかりました。うちは小さい会社やから、口の軽い下請けは使いません。それは約束できますわ」

「ありがとうございます」

長谷部は再び歩き出した。

沢の音が、山の静寂の中に溶けている。

九十三日後、この場所は人類の残骸が押し寄せてくる最前線になる。その日、ここが持ちこたえられるかどうかが、自分が生きるかどうかと同義だ。

だから、妥協は一ミリも許さない。


ハイエースが山道を下り始めた頃、長谷部のスマートフォンが振動した。

画面には「丸山」とある。司法書士だ。

「はい」

『長谷部さん、丸山です。アークブリッジの件、書類の最終確認が取れました。このペースですと、来週の火曜日には登記完了の見込みです』

「想定より二日早いですね」

『ええ、優先処理でやっておりますので。ただ、一点確認を——医療資材輸入の事業目的追加の件ですが、もう少し具体的な品目を書類上に記載した方が、後々の税関申告の際に通りが良くなります。具体的にはどういった資材を想定されていますか』

長谷部は一拍だけ考えた。

「医療用高性能フィルター類、および呼吸器管理用品一式。それで十分ですか」

『十分です。それで通します。費用の残額ですが、登記完了後に口座番号をご連絡しますね』

「了解しました」

電話を切って、長谷部はフロントガラスの向こうの山道に目を向けた。

「医療用高性能フィルター」

その名目で輸入する物が、いずれ何百人もの命を繋ぐことになる。あるいは、繋がないことになるかもしれない。要塞の外に出た者は死ぬ。それは変えようのない物理的事実だ。長谷部が守れるのは、要塞の中だけだ。

九十三日。

砂が一粒ずつ落ちていく音が、耳の奥で聞こえる気がした。


午後一時過ぎ、長谷部は田辺市内のセルフうどんの店に入った。

チェーン店だ。プラスチックのトレーを持って列に並び、かけうどんの小と、天かすと刻みネギを自分で乗せて、百八十円を払う。窓際の席に座り、一口すすった。麺は柔らかすぎる。出汁は薄い。

それでも、食べる。

身体は消耗品だ。整備を怠れば、最も肝心な瞬間に裏切る。前世でそれを知っている。極限状態で飯を食えなくなった部下から順番に判断力が鈍り、やがて動けなくなっていった。自分だけは、何を食っているかに関わらず、口に入れることを絶対に怠らなかった。

うどんを半分ほど食べたところで、スマートフォンに新着が来た。

フィッシャーだ。

暗号メッセージアプリの画面に、短い英文が並ぶ。

『HEPA H14 inquiry initiated. Three manufacturers contacted — Taiwan, Germany, South Korea. Lead time and customs routing under review. Update within 72 hours. Wire schedule on track.』

長谷部は画面を閉じ、残りのうどんをすすった。

七十二時間以内に調達ルートの見通しが立つ。フィッシャーの言う「on track」は、あの男の語彙の中では最上級の確約に近い。送金スケジュールも予定通り。であれば、今週中にやるべきことは三つだ。

丸谷工務店との正式契約準備。アークブリッジ登記の完了確認。そして、チャーター船と潜水人材の調達ルートの下調べ開始。

最後の一つだけが、まだ白紙に近い。

震源地遠征。

長谷部が前世で持っていた情報は断片的だ。隕石落下の海域は「日本列島南方沖、太平洋西側の深海」とだけ記憶している。軍で見た気象衛星の観測データと、崩壊直前に出回った科学者たちの証言の記憶から、座標を自力で絞り込む必要がある。誤差は許されない。海底の「濃縮された瘴気結晶」は、落下点の近傍に集中して存在するはずだ。

そして、Xデーの前日までに、そこへ潜らなければならない。

Xデー当日、海の色は変わる。水面下の生物が最初にゾンビ化する。前世の記録が正しければ、隕石落下から最初の海洋変異が確認されるまでの時間差は、三十時間に満たない。

つまり、チャーター船は遅くとも三日前には出港しなければならない。

長谷部は空になったどんぶりを盆に乗せ、返却口へ運んだ。

窓の外の田辺市は、変わらず穏やかだった。


レンタカーに戻り、長谷部はノートパソコンを膝の上に置いた。

船舶チャーター。ダイバー。海図。

ダミー法人が完成すれば、法人名義での契約が可能になる。それまでは「個人での問い合わせ」として、複数の業者に打診しておく程度に留める。正式な契約を急ぎすぎると、記録が残る。記録が残ると、後から目を引く。

目を引いてはならない。

今の長谷部雄介に許されるのは、「どこにでもいる地方の中小企業関係者」という輪郭だ。輪郭を守り続けることが、Xデーまでの最大の安全保障になる。

チャーター船の手配は、法人登記の完了後、今月末を目標にする。潜水人材については、沖縄や高知の漁協ルートを経由すれば、深海作業経験のある民間ダイバーに当たれる可能性がある。もしくは、フィッシャーの海外コネクションを経由して、商業潜水の専門業者を押さえる手もある。

後者の方が確実だが、コストがかかる。

コストは、今の長谷部には問題ではない。問題は、時間だ。

パソコンのカレンダーを開き、残り九十三日を可視化する。

一週間目:アークブリッジ登記完了、丸谷工務店との基本契約締結。

二週間目:HEPAフィルターの調達ルート確定、工事着工。

三週間目:チャーター船の正式手配、ダイバーとの接触。

一ヶ月目:送金完了、大量物資の分散発注開始。

二ヶ月目:工事の主要部分完成、備蓄物資の第一陣到着。

Xデー三日前:出港。

Xデー:震源地海底にて、最高位のアイテムを独占回収。帰還。

その後、世界が終わる。

長谷部はカレンダーを閉じ、目を細めた。

スケジュールに破綻はない。想定外の変数が発生しない限りは。しかし想定外の変数は、必ず発生する。軍の指揮官として叩き込まれた鉄則は、「計画は半分しか機能しない、残り半分を埋めるのが指揮官の仕事だ」というものだった。

だから今、余白を作る。

金に余裕がある今だからこそ、想定外のコストを吸収できるバッファを複数ルートに仕込んでおく。物流が一本止まっても、別のルートが生きている。業者が一社音信不通になっても、次の候補がある。そういう重層的な保険を、見えないところに静かに敷いていく。

それが、前世の自分には決定的に足りなかったものだ。


午後三時、長谷部は携帯をもう一度確認した。

着信もメッセージもない。丸谷工務店からの一次見積もりは「今日中」の約束だった。おそらく夕方に届く。それまでの時間を、長谷部は無駄にするつもりはなかった。

レンタカーを田辺市内の図書館近くに止め、外に出た。

地元の小さな図書館だ。観光案内所を兼ねており、入口に熊野古道の案内パンフレットが並んでいる。長谷部はそれを一部取り、なんでもない顔で館内へ入った。

郷土資料のコーナーで、紀伊半島沖の海底地形図を収録した古い水産庁の報告書を見つけた。コピーを取ることはしない。内容を読み、必要な数字を記憶する。前世で鍛えた記憶力は、今世でも健在だ。

水深、潮流、季節変動。

隕石の落下点を絞り込むための傍証になりうる要素を、一つ一つ頭に刻み込んでいく。

一時間後、長谷部は図書館を出た。

西日が傾き、山の稜線が橙色に滲んでいる。

田辺市の夕暮れは、どこか間延びした温度を持っている。時間がゆっくり流れているように錯覚させる、この土地特有の空気だ。前世では、こういう景色を見る余裕すら持てなかった。

長谷部は深呼吸を一つした。

感傷ではない。あくまで酸素の補給だ。脳に血を回すためだ。そう自分に言い聞かせながら、夕空を三秒だけ眺め、それから視線を地面へ戻した。

その時、スマートフォンが鳴った。

丸谷工務店だ。

「はい、長谷部です」

『お疲れ様です、丸谷です。先ほどまで所内で計算しておりまして。概算の一次見積もりが出ましたので、ご報告を』

「聞かせてください」

『外周擁壁と二重ゲート、地下燃料タンク、自家発電設備、空調換気システムの基礎工事一式を含めた第一フェーズの概算で——』

丸谷が数字を告げた。

長谷部は表情を変えず、その数字を脳の計算域へ放り込んだ。想定の上限に近いが、範囲内だ。フィッシャーの送金が完了すれば、第二フェーズ以降の追加発注も含めて十分に賄える。

「わかりました。正式な見積もりと契約書の準備をお願いします。来週中にはアークブリッジの法人登記が完了しますので、その後に正式契約を締結しましょう」

『かしこまりました。それと、一点確認なんですが——空調換気システムの仕様、H14規格以上の陽圧換気というのは、どこかの既製品を想定されてますか、それとも別途ご手配が』

「機材は別途、海外の専門業者から直接調達します。設置工事だけお願いできますか」

『そちらの方が助かります。あの規格のフィルターユニット、うちの地域では手に入りませんし、メーカーも限られてますもんで』

「では据付工事の仕様書を別途お渡しします」

『承知しました。では正式見積書の準備を進めます。よろしくお願いします』

電話が切れた。

長谷部は車に戻り、今日のタスクリストを一つずつ頭の中で消していった。

丸谷工務店、概算確認済み。丸山司法書士、登記進捗確認済み。フィッシャー、調達ルート着手確認済み。手付金の振込は昨日完了。

今日やるべきことは、すべて終わった。


ルートインの部屋に戻ったのは午後六時過ぎだった。

シャワーを浴びて、ベッドの端に腰を下ろす。天井の蛍光灯が、白々とした光を均一に降らせている。

長谷部は目を閉じた。

今日一日で動いた金と人と情報の量を、冷静に棚卸しする。見積もり概算の数字。フィッシャーの七十二時間以内の返答。登記の来週完了。チャーター船の手配は今月末。工事着工は来週から。

問題はないか。

穴はないか。

脳の別の区画が、それぞれの想定外ケースをシミュレートし始める。業者が契約を反故にした場合。登記が予想外の理由で遅延した場合。フィッシャーの調達ルートが税関で止まった場合。

一つ一つ、代替手段を当てはめていく。

前世との違いは、ここだ。あの頃の自分は、軍の補給線という「誰かが整えてくれたインフラ」の上で戦っていた。今は、補給線そのものを自分で作っている。誰も助けてくれない。失敗しても報告する上司はいない。

その孤独は、しかし苦ではない。

むしろ純粋だ、と長谷部は思う。

自分の判断だけが変数で、自分の行動だけが結果に直結する。無能な命令に従って部下を死なせる必要がない。橘征司の目が届かない場所で、誰にも邪魔されず、静かに牙を研いでいられる。

その静けさが、今の長谷部には何より心地いい。

目を開ける。

天井を見上げたまま、長谷部は一度だけ瞬いた。

九十二日。

明日からまた、一日が消える。

砂は落ち続ける。世界の崩壊は、誰かの都合で待ってはくれない。だから自分も、待たない。感傷に一秒も使わない。前世で死んだ二十七人の命に、この今世を貼り付けるようにして、一日一日を刻んでいく。

橘征司。

その名前が、意識の底で一瞬だけ浮かんだ。

長谷部はそれを、静かに沈めた。

まだ早い。

今はただ、準備をする。

最も冷めた皿で、食う。

そのために、今夜も眠る。

翌朝五時のアラームを設定し、長谷部は部屋の電気を消した。暗闇の中で、田辺の夜は深く静かだった。


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