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第4話:狂気のお買い物リスト

 成田空港の到着ロビーに降り立った瞬間、長谷部雄介は日本の空気を肺の底まで吸い込んだ。

 湿気を帯びた、どこか懐かしい匂いだった。コンビニの揚げ物と、床の洗剤と、大勢の人間が密集することで生まれる、名前のない生活の臭気。前世でこの国が終わりを迎えた後、長谷部が嗅いだのは血と腐臭と硝煙ばかりだった。だからこの匂いは、今の彼にとって滑稽なほど甘く、そして猛烈に腹立たしかった。

 改札を抜けながら、彼は周囲を一瞥した。

 スーツケースを引く商社マン。デパートの袋を両手に提げた主婦。イヤホンをしてスマートフォンを眺める大学生。世界の終わりまで、あと三ヶ月と三日。この人々は何も知らない。何も知らないまま、間もなく大半が死ぬ。

 長谷部は感傷を、呼吸の三回分で切り捨てた。

 悼む暇はない。悼むという行為は、それだけの余裕を持った者がやることだ。


 電車の中で、長谷部はメモアプリを開いた。機内で叩き込んだ「やることリスト」を更新するためだ。

 フィッシャーとの契約から、着金のタイムラインは確定している。四十日以内に日本の法人口座へ、分散した経路を経て資金が到達する。そこから先が本番だ。問題は、四十日という猶予期間をいかに使い切るかだった。

 箇条書きが画面を埋めていく。

① ダミー法人の登記(優先度:最高)

 まず法人の器を作らなければならない。物資の大量発注、土地の取得、建設業者との契約、いずれも個人名義でやれば必ず痕跡が残り、後で問題になる。「輸入商社兼コンサルティング会社」という名目の法人を一週間以内に登記する。資本金は手元の現金から最低限を切り出し、外形だけ整える。

 法人名はすでに決めてあった。「株式会社アークブリッジ」。意味はない。ただ、英語圏とのやりとりに違和感のない響きが欲しかっただけだ。

② 拠点となる土地の選定と取得(優先度:最高)

 条件は三つ。

 水源が確保できること。山中の湧き水でも河川でも構わないが、インフラが死んだ後も独立した水の供給線を持てる地形であることは絶対条件だ。前世で、水の確保に失敗したコミュニティが三週間で崩壊するのを長谷部は何度も見ている。

 アクセスが限定的であること。理想は、主要道路から外れた山間部か、正面が海で三方を山に囲まれた地形だ。ゾンビの大群は基本的に人口密集地から流れてくる。地形的な自然の障壁があれば、防衛コストが劇的に下がる。

 面積が十分であること。将来的に、アウターに数百人規模の生存者を収容することになる。農地、居住区、訓練場、武器庫。最低でも一万坪、できれば三万坪以上の連続した土地が欲しい。

 前世の記憶を手繰ると、候補地は二箇所に絞れた。一つは紀伊半島の山間部。もう一つは瀬戸内の小島に近い岬の先端。どちらも過疎化が深刻で、二束三文で売りに出ている土地があるはずだった。

③ 建設業者の確保(優先度:高)

 要塞化の工事は、信頼できる少人数の業者にまとめて発注する。大手ゼネコンは避けるべきだ。手続きが煩雑で、稟議が必要で、「変わったことをやる顧客」を社内で共有する文化がある。欲しいのは、札束を積まれれば余計な質問をせずに動く中小の業者だ。

 具体的な工事仕様はすでに頭の中にある。

 高さ四メートル以上のコンクリート壁による外周囲い。正面ゲートは車両が通過できる幅を確保しつつ、内部から遠隔で完全閉鎖できるシャッター式とする。監視カメラは全周囲をカバーし、死角をゼロにする。自家発電装置は複数系統用意し、燃料タンクは地下に埋設する。空調は瘴気を遮断する産業用高性能フィルターを搭載させるが、この発注だけは「医療施設用」という名目で別ルートから入手する。

 工期は資金が到達してから逆算して計算する必要があるが、突貫でやれば骨格部分だけなら四ヶ月で仕上がるはずだ。パンデミックまで三ヶ月しかない。つまり、Xデーには基本的な防壁と門だけが間に合い、完全な要塞化はパンデミック後に継続工事となる計算だった。

 許容範囲だ、と長谷部は判断した。壁と門さえあれば、序盤は凌げる。

④ 物資の分散発注(優先度:高)

 これが最も手間のかかる作業だった。

 大量の保存食、医薬品、燃料、農業資材、工業用品を、一か所の業者から一気に発注すれば必ず目立つ。したがって、同種の物資を複数の卸業者、複数の地域の倉庫業者に分散して発注し、拠点への輸送もタイミングをずらして行う必要がある。

 長谷部は、前世の記憶から「生存者コミュニティが最初の一ヶ月に最も不足した物資」のリストを思い出し、優先順位を設定した。

 水の浄化剤と濾過装置。これは最優先だ。抗生物質と鎮痛剤を中心とした医薬品。インスリンなど特定の慢性疾患患者向けの薬は、後で生存者を受け入れた際に命綱になる。発電機の燃料となる軽油と灯油。種子類は可能な限り多品種を揃える。前世では農業の再建に失敗したコミュニティが大半だったが、それは種類の少なさと農業知識の欠如が原因だった。

 それから、塩。調味料の類いは精神的な意味で生存者の士気に直結する。前世で、塩と砂糖が尽きた避難所の雰囲気がどれほど荒んだか、長谷部は嫌というほど覚えていた。


 電車が止まり、長谷部はメモを閉じた。

 乗り換えのホームへ足を踏み出したとき、隣のベンチにスーツの男が座っているのが目に入った。三十代後半、精悍な顔立ちだが、眼の下に濃い隈がある。膝の上にはブリーフケースを乗せ、ぼんやりと床を見つめていた。

 長谷部はその顔を三秒見て、視線を前に戻した。

 前世の記憶の中に、その顔はなかった。ただの見知らぬ疲れた会社員だ。何万人といる、三ヶ月後に死ぬ人間の一人だ。

 ホームの端まで歩きながら、長谷部は奥歯を一度噛み締めた。

 救える者を救う気はない、と前世の早い段階で自分に言い聞かせた。感情で動く指揮官は、守ろうとした全員を道連れにする。前世でそれを証明したのは、他でもない長谷部自身だった。

 ただし、有能な人間は別だ。使える人間は、適切な対価を払って確保する。それは人道ではなく、純粋な投資だ。


 新幹線に乗り換え、大阪を経由して和歌山方面へ向かいながら、長谷部はノートパソコンを開いた。機内では隣の乗客が気になって作業を止めていたが、指定席の二人掛けで隣が空席だったのは幸運だった。

 まず、法人登記に必要な書類の洗い出しを始める。定款の作成、公証人役場での認証、法務局への登記申請。自分でやれば費用は二十万円台で済むが、時間がかかる。今は時間の方が惜しかった。

 司法書士への依頼で、最短五日から七日。

 問題は報酬だった。設立代行の相場は、費用込みで三十万から五十万円程度だ。だが長谷部が今持っている流動資産は、日本円に換算した手元の現金のみだ。フィッシャーへの依頼金と渡航費で、五百万円の手持ちはすでに大きく削れていた。

 残高は、おおよそ三百八十万円。

 土地の手付金、建設業者への着手金、法人登記、当面の生活費と調達費用。これを三ヶ月強、着金まで凌がなければならない。

 綱渡りだ、と長谷部は思った。だが計算は合う。ギリギリだが、順序を間違えなければ全て回せる。

 スクリーンに向かって指が動く。

 司法書士を探す。ネット上で「設立代行、最速対応、和歌山」と入力し、いくつかのサイトを開く。地方の事務所の方が、融通が利いて動きが速いことを長谷部は経験上知っていた。大都市の事務所は書類の正確さは高いが、「急いでくれ」と言ったところで対応が官僚的になりがちだ。

 三軒目のサイトを開いたとき、電話番号が目に入った。明日の朝、開口一番でここへ電話を入れる。設立を急ぐ理由として「海外からの商談が先行している」という説明を用意しておけばいい。

 次に、土地の下見の段取りを組む。

 候補地の一つ、和歌山県の山間部に親戚がいる旧友の名前が、前世の断片的な記憶から浮かんだ。その旧友がまだ存命かどうかは分からないが、少なくとも現時点ではパンデミック前だ。地元の不動産事情を知る人間のコネクションを一本持っておくことは、無駄にはなるまい。

 ただし、深追いはしない。コネクションとしての利用価値があるなら使うが、情に引きずられるような関係の深め方はしない。これも自分に課したルールの一つだった。


 窓の外に山の稜線が見え始めた頃、長谷部はパソコンを閉じてシートに背中を預けた。

 天井を見ながら、彼は一度だけ目を閉じた。

 前世で死んだ二十七名の顔が、順番に浮かんだ。飯田の笑顔。朴の無表情。三宅の馬鹿みたいに大きな声。若い順に、全員の顔がある。長谷部は彼らの死に顔も知っている。一人残らず、全員の最後の表情を記憶している。

 だから急ぐ。

 カネのためでも、自分の生存のためでもない。あの二十七人に、二度と同じ死に方をさせないために急ぐ。それと、橘征司の喉笛を掻き切るために急ぐ。

 順番は前者が先だ。感情で先走ることだけは、絶対にしない。

 目を開けると、窓の外は緑が濃くなっていた。

 長谷部雄介は、やることリストの続きを書き始めた。


 和歌山市内のビジネスホテルにチェックインしたのは、夕方の六時を少し回った頃だった。

 シングルルームは六畳ほどの狭さで、窓から見えるのは隣のビルの外壁だけだった。長谷部はスーツケースをベッドの横に立てかけ、コンビニで買った幕の内弁当のパッケージを開いた。冷えた白米と、申し訳程度の鮭の切り身。前世でこれを食えたなら、泣いて喜んだ。今となっては、これすら三ヶ月後には消える日常の一部だった。

 箸を動かしながら、スマートフォンで不動産情報サイトを開く。

 検索条件は絞り込んである。和歌山県、田辺市から新宮市にかけての沿岸部および山間部。面積一万坪以上。用途は「山林・原野・雑種地」。価格帯は問わない。

 ヒット件数は十七件。

 長谷部は一件ずつ、航空写真と地形図を照合しながら絞り込んでいった。道路からの距離、周辺の河川の位置、標高と傾斜、最寄りの集落までの距離。これらの条件をメモに転記し、各物件に点数をつけていく。

 三十分後、候補は三件に絞れた。

 最上位は、田辺市の山間部にある旧キャンプ場の跡地だった。廃業から十年が経過しており、管理棟の建物こそ老朽化しているが、整地済みの平坦地が広く、隣接する沢から通年で水が取れる。面積は約二万二千坪。売り出し価格は一千二百万円。過疎地の大規模土地としては相場通りだが、交渉の余地は十分ある。何より、正面入口が一本道になっており、その道の両側は急斜面の山林だ。

 これ以上の条件は望めない、と長谷部は判断した。

 翌朝、仲介業者に電話を入れる。


 夜の間に、長谷部はもう一つの作業を済ませた。

 「狂気のお買い物リスト」と、彼が心の中で呼んでいるものの、本格的な精緻化だ。

 パンデミックから最初の一年間、生存者コミュニティが必要とする物資を、前世の経験から逆算して全て書き出す。感情は挟まない。純粋に、数量と優先順位の問題だ。

 まず食料。

 長期保存が可能な食料を、人員百名が一年間生存できる量を基準に計算する。カロリーベースで一人一日二千キロカロリー、百名で年間七千三百万キロカロリー。白米に換算すれば約十八トン。これに加え、大豆、乾燥豆類、缶詰類、乾麺、塩、砂糖、食用油。

 ただし、百名というのはあくまでスタート時点の最低ラインだ。アウターへの生存者受け入れが進めば、数は増える。倍の余裕を持つなら、三十六トンの米が必要になる。

 現実的に、今の手元資金でどこまで動かせるか。

 米の業務用卸価格は、一俵(六十キログラム)あたり概ね一万五千円前後だ。三十六トンは六百俵、つまり九百万円。今の手持ちでは届かないが、着金後に優先的に発注すれば間に合う。問題は保管場所だ。土地取得と倉庫整備が先に動かなければ、発注しても置く場所がない。

 順番が肝心だった。土地、倉庫、それから物資の順だ。

 次に医薬品。

 抗生物質は最も重要だ。前世では、ペニシリン系の抗生物質が枯渇した時点で感染症による死者が急増した。傷の化膿、食中毒、肺炎。ゾンビに殺されるより、感染症で死ぬ人間の方が序盤は多かった。ペニシリン、セフェム系、マクロライド系を中心に、三年分の備蓄を目標にする。

 医薬品の大量購入には処方箋や販売資格の壁がある。ここはダミー法人の名目を「医療資材輸入」に拡大して、合法的な卸ルートを開拓する必要がある。フィッシャーの人脈を使えば、海外のジェネリック薬品メーカーとの直接取引も不可能ではない。

 インスリンは別枠で手配する。これは冷蔵保管が必要で、かつ製造元が限られているため、早めに確保しなければ後で手が届かなくなる。

 鎮痛剤、消毒薬、縫合セット、副木、包帯。外科的な処置を可能にするための器具一式も揃える。理想は前世で軍の医療班が使っていた野戦救護セットに近い構成だ。

 燃料。

 自家発電のための軽油を、地下タンクに最低五万リットル確保する。これは建設工事と並行して、タンク埋設を業者に依頼する。太陽光パネルも可能な限り設置するが、あくまでバックアップだ。前世では、太陽光だけに頼ったコミュニティがパネルの破損で一気に詰んだケースを複数見ている。

 農業資材。

 種子は可能な限り多品種を揃えるが、優先するのは短期間で収穫できる作物だ。ラディッシュ、ほうれん草、小松菜、大根。主食系はジャガイモとサツマイモが最優先だ。米の作付けは水田が必要で、土地の地形次第になる。肥料は化学肥料を大量に確保しつつ、堆肥化の設備も整える。

 通信と電子機器。

 衛星通信機器を最低三セット確保する。前世では通信インフラの崩壊が初期の混乱を加速させた。孤立したコミュニティ同士が連携できないまま、各個撃破されていった。外の情報を取り続けることは、戦術的な優位に直結する。

 ドローンは複数機用意する。偵察用の小型機と、より長距離の飛行が可能な大型機の両方だ。前世では入手が間に合わなかったが、今なら市販品の高性能機を今のうちに大量に買い込める。

 夜中の十二時を回った頃、長谷部はスマートフォンを置いた。

 総額の概算を弾くと、最初の一年間の物資調達費用だけで、日本円換算で十億円を超える。フィッシャー経由で入ってくる資金の大半を、最初の二年間はこれに充てる計算になる。

 それでも余る。

 二百億を超える資金は、物資調達を終えてもまだ莫大な額が残る。残りは要塞の拡張工事と、武装の確保と、そして将来の遠征費用に回す。

 金は腐らない。が、時間は腐る。

 長谷部は電気を消し、枕に頭を沈めた。


 翌朝、六時半に目が覚めた。

 体内時計は、軍にいた頃のままだった。二度寝をするという習慣が、前世で完全に消滅した。

 シャワーを浴び、コンビニで買ったブラックコーヒーを飲みながら、長谷部は今日の段取りを確認した。

 午前中に司法書士事務所へ電話を入れ、法人登記の依頼を確定させる。午後は、昨夜リストアップした旧キャンプ場跡地の仲介業者へアポを取り、週内に現地を確認する。建設業者については、地元の中小ゼネコンを三社当たって、最も話の通りが良さそうなところと話を進める。

 並行して、前世の記憶にある部下たちの現在地の洗い出しも始める。

 飯田は、パンデミック前は東北から上京して都内に勤務していたはずだ。ただし、今この時点では長谷部は飯田と面識がない。前世と今世は別の時間軸だ。いきなり接触しても、不審がられるだけで終わる。

 接触のタイミングと方法は慎重に考える必要があった。

 理想は、パンデミック後の混乱の中で「偶然」助けに行く形だ。前世の記憶から、飯田がパンデミック当日にどこにいたかは把握している。その場所へ、適切なタイミングで向かえばいい。ただしそれは今すぐの話ではなく、まず受け入れる器を作ることが先だ。

 朴と三宅についても同様だ。彼らは今この時点では、長谷部の知らない日常を送っている。三ヶ月と少しの間、彼らには彼らの人生がある。長谷部には、それに踏み込む権利はない。

 ただ、踏み込む準備だけは、今から整えておく。


 コーヒーの底を飲み干した頃、スマートフォンに通知が入った。

 フィッシャーからのメッセージだった。暗号化されたメッセージアプリを通じた、簡潔な英文だった。

「信託の設立が完了した。最初の分散送金フェーズを開始する。予定通り、四十日以内に全額着金の見込み。問題があれば即座に連絡する。――F」

 長谷部は画面を三秒見た。

 返信は一言だった。

「了解した。」

 それだけで十分だった。フィッシャーは余計な言葉を必要としない人間だ。それが長谷部がこの男を選んだ理由の一つでもある。

 スマートフォンをポケットに戻し、長谷部はカーテンを開けた。

 和歌山の朝は、薄く靄がかかっていた。遠くに山の稜線が見える。あの山の向こうのどこかに、まだ誰も知らない長谷部の城が建つ。

 四十日。

 それだけあれば十分だ。

 長谷部雄介は、コートを掴んでドアを開けた。やることリストの、最初の一行を潰しに行く時間だった。

読んでいただきありがとうございました!


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