第3話:神の資産(メガ・ミリオンズ)と沈黙の勝者
窓の外で、マイアミの朝が動いていた。
水色と白金の狭間で大気が揺れ、ビスケーン湾の海面が早朝の陽光をはじき返す。遠くに見えるダウンタウンのガラス張りのビル群が、鏡面のように空を映していた。
悪くない景色だ、と思う。
三ヶ月と四日後、この光景は消える。
建物は残る。しかし人間が消え、あの穏やかな海の底には夥しい数のゾンビが這い回り、水面に向かって無数の腕を伸ばすようになる。観光客が引き上げた砂浜に、半分腐った死体がうつ伏せで打ち上げられる。
ホテルの七階から見下ろす朝の散歩人たちは、まだそれを知らない。
――俺だけが知っている。
その孤独は、今更ひっくり返すには馴染み過ぎていた。
鏡の前で首元のボタンを留めながら、長谷部雄介は息を吐いた。三十二歳の、どこにでもいる日本人の顔が返ってくる。額に傷はなく、右肺に鉛玉が通った痕もない。肌は荒れておらず、目の下に刻まれるはずだった戦場の疲労が存在しない。
体は生き返っても、記憶は地獄のままだ。
飯田が、朴が、三宅が、二十四人の部下の顔が脳裏を流れた。自分への忠誠心が高かった者だけを選って寄越した橘少将の策謀。全員が死んだ。どこかで腐り、骨になった。
お前が作ったルールで縛り上げてやる。
長谷部は鏡の中の自分の目を見た。
今日、やるべきことがある。感傷は後でいい。
フィッシャー法律事務所は、マイアミのダウンタウン中心部にある複合ビルの十四階にあった。
受付を抜けると、すでにフィッシャー弁護士が会議室で待っていた。昨日の打ち合わせで雇い入れた男だ。四十代、小柄、白髪交じりの髪を丁寧に撫でつけている。ロト宝くじで数億ドル規模の相談を持ち込んでくる客を、眉一つ動かさず迎え入れた男。
「おはようございます、ハセベさん」
彼は流暢とは言えないが丁寧な発音の日本語で言った。長谷部が英語に不慣れな部分を配慮しているのが伝わる。優秀だ。
「おはようございます」と長谷部は答えた。「昨夜、少し動きがありました。確認してほしいことがあります」
テーブルの上にスマートフォンを置く。画面には、昨夜の抽選番号と、当選金の速報が映し出されていた。
フィッシャーは静かにそれを見た。
「……ジャックポット」
低く、確認するように呟く。数字が一致している。長谷部の財布の中の手書きチケット、七、十四、二十一、三十三、四十八、メガボール十一。全部が一致している。
「そのようです」
「一口分、ですね?」
「はい」
「チケットは」
「ここにあります」
長谷部は財布からチケットを取り出した。五百口の束のうち、一番下に挟み込んでいたものだ。手書きの数字が並ぶ、ただの紙切れ。現在換算で二百億円を超える価値を持つ、ただの紙切れ。
フィッシャーはそれを受け取り、一秒も視線を上げずに精査した。ランダム購入チケットとの差異、購入日時のスタンプ、インクの状態。全てを無言でチェックしてから、静かにテーブルに戻した。
「有効です。問題ありません」
プロフェッショナルとは、こういう人間のことを言う。
「では」と長谷部は言った。「昨日ご説明した手順で進めてください。チケットは信託名義で換金し、当選者の実名は一切出さない」
「フロリダの法制上、トラスト経由での匿名請求は認められています。その点は問題ありません」
「その後の資金移動も、昨日の計画通りに」
「段階的に行います」フィッシャーは手元のファイルを開いた。「まず信託口座に着金。その後、シンガポールの法人口座へ分散移動。最終的に日本国内の法人口座へ送金するまでを、私どもが管理します。一度に動かさず、複数の金融機関を経由することで当局の自動検知を回避します」
「期間は?」
「全て完了するまでに、早くて四十五日、遅くとも六十日ほど見てください」
「六十日は困る」
長谷部は言った。フィッシャーの眉が、わずかに上がった。初めてのリアクションだった。
「なぜですか」
「個人的な事情で、九十日以内に日本で大規模な土地と建設業者を動かす必要があります。その前に、手元の資金をある程度確定させておきたい」
フィッシャーは短い沈黙の後、ペンをテーブルに置いた。
「……わかりました。最優先案件として取り扱い、四十日を目標にします。その代わり、追加の費用が発生します」
「問題ありません」
「ハセベさん」
フィッシャーは初めて、書類から目を上げて長谷部を正面から見た。
「先ほどから気になっているのですが」
「何でしょう」
「あなたは今、二億ドルを超える金の話をしている。なのに、顔色一つ変わっていない」
長谷部は少し考えてから、答えた。
「変えても意味がないので」
フィッシャーは一瞬だけ、目を細めた。それから静かに口元を緩めた。長谷部がこの二日間で初めて見た、彼の人間らしい表情だった。
「そうですか」
そう言って、彼は再びファイルへ視線を戻した。
法律事務所を出たのは正午過ぎだった。
マイアミの昼は白く眩しく、外に出た瞬間に熱の壁にぶつかったような感覚があった。肩の上で熱気がふわりと揺れる。長谷部はネクタイを緩めながら、繁華街の中心部へ向けて歩いた。
財布の中にあった手書きチケットはもうない。フィッシャーが預かり、信託の手続きに使う。代わりに、長谷部の手元には領収書と書類のコピーがある。
ゆっくりと、だが確実に、歯車が動き始めた。
ひとまず腹を満たそうと思った。事務所との打ち合わせが予想よりも長引いたせいで、今日はまだ何も食べていない。
近くのファストフード店に入り、バーガーと大きなコーラを頼んで窓際の席に座った。平日の昼時で、観光客らしき家族連れや、スーツ姿の会社員が行き来している。誰もがそれぞれの日常の中にいて、世界の終わりを知らない。
三ヶ月と四日後、何人が生き残るだろう。
長谷部はバーガーを一口かじりながら、スマートフォンのメモアプリを開いた。昨夜作成した「やることリスト」の続きを書き加えていく。
──日本の拠点:山間部か海岸沿いで水源確保可能、アクセスに限界がある広大な土地。
──建設業者:要塞化。コンクリート壁、監視網、自家発電、空調フィルター。
──物資:保存食、医薬品、燃料。分散発注。不審に思われない量に小分け。
──チャーター船:パンデミック前夜の震源地へ。ダイバーの手配。
──人材:前世で信頼した者たちの素性をパンデミック前から把握しておく。
最後の項目で、手が止まった。
飯田、朴、三宅。川口、渡辺、田島。浅野、木内。
前世では彼らと出会ったのはパンデミック後、軍の訓練施設でだった。今回は、それより先に動けるかもしれない。ただし、今の時代において彼らがどこに何をしているかは分からない。前世の記憶は「軍での日常」を中心としたものだから、それより以前の個人情報は断片的にしか残っていない。
三宅は確か、北関東の大学を出て製造業に就いていると言っていた気がする。朴は在日三世で、関西に家族がいた。飯田は東北出身で、東京のどこかで働いていると。
前世で拾い集めた人物の断片が、今となっては貴重な情報になる。
全員を今から見つけ出して囲い込むことは難しい。しかし、少なくとも拠点のある地域周辺に「受け入れる準備」だけしておけば、パンデミック後の混乱の中で自然に辿り着く可能性はある。前世でも彼らは生き残った。それだけの生命力がある。
コーラを一口飲んで、長谷部は視線を窓の外に向けた。
マイアミの青い空。道路を走る車。横断歩道を渡る人々。
全員が、何も知らない。
知っているのは俺だけだ。
その事実は孤独ではあったが、もはや重荷ではなかった。これは圧倒的なアドバンテージだ。知っているから準備できる。準備できるから、生き残れる。生き残るから、橘に辿り着ける。
感傷を抱えるのは、全てが終わってからでいい。
午後の時間を使い、長谷部はシンガポール法人の設立に向けた調査をホテルの部屋で進めた。フィッシャーが案内する法律事務所の提携先を使えば、ペーパーカンパニーの設立そのものは難しくない。問題は、その後に日本国内で同様の法人格を用意することだ。
日本に戻ったら、まず法人を一つ立てる。表向きは「輸入商社」か「コンサルティング会社」あたりが無難だろう。長谷部が海外から調達した物資や武装の出所を問われた時、「海外コネクションを持つ会社を経営している」という事実があれば言い訳の土台になる。
「アメリカの資産を背景に、極秘の海外コネクションで終末の兆候を察知していた。民間軍事会社を組織しようとしていた」。
いずれ部下になる人間たちへの説明は、それで十分だ。大金と実績と物量があれば、多少の荒唐無稽な説明も飲み込ませられる。人間は「なぜそんな金があるのか」より「目の前に金がある」という事実の方を優先する生き物だ。
長谷部はそれを、前世の軍の中で嫌というほど学んでいた。
夕方、フィッシャーから簡単な経過報告のメールが届いた。信託の設立手続きは順調に進んでいる。当選した事実は公式に確認済みで、今週中に換金手続きが完了する見込みとのことだった。
長谷部はメールを閉じ、椅子の背もたれに深く体を預けた。
窓の外では、マイアミの夜が始まろうとしていた。昼間の白い熱気とは打って変わり、今度はネオンと音楽の街になる。バーやクラブの明かりが遠くに瞬き始め、どこかから低いビートが夜風に乗って流れてくる。
この街も、三ヶ月後には変わり果てる。
だが今夜は、それでいい。
長谷部はミニバーから小瓶のウィスキーを一本取り出し、栓を抜いた。グラスには注がない。ラッパ飲みで構わない。生き延びた記念でも、勝利の宴でもない。ただの燃料補給だ。
液体が喉を焼いて落ちていく。
計画の第一段階が完了した。
金が手に入る。
金があれば、土地が買える。土地があれば、城が建てられる。城があれば、人が集まる。人が集まれば、軍になる。軍になれば、橘に届く。
単純な話だ。
長谷部は静かに目を閉じた。飯田の笑顔が、一瞬だけ瞼の裏に浮かんで、消えた。
翌朝、フィッシャーから電話が入った。
「手続きが一つ完了しました」
「早いですね」
「最優先の依頼でしたから。信託は設立されました。次はシンガポールの法人手配に入ります。提携先の弁護士を本日中に稼働させます」
「結構です」
ホテルの窓から、朝のマイアミが見えた。昨日と同じ光景だ。変わらない街。変わらない空。変わらない人々。
しかし長谷部の手元では、着々と未来が変わり始めていた。
「ハセベさん、一点確認させてください」
「どうぞ」
「日本への最終送金が完了した後、私どもへのご依頼は一旦終了という認識でよろしいですか? それとも、今後も継続的にご利用になる予定はありますか」
長谷部は少し間を置いた。
「継続します」
「そうですか」
「今後も、色々と入り用になると思います。特に物資の調達ルートや、法人管理の名目が。その都度、相談させてください」
「承知しました」
フィッシャーが静かに言った。そこには確かに、プロとして仕事の全貌を察した者の声音があった。何の商売で生計を立てているのか、表立って問いたださないが、大体の輪郭は見えているという種類の、静かな了解。
それでいい、と長谷部は思った。弁護士に必要なのは、守秘義務と有能さだ。道徳的な完全性ではない。
「よろしくお願いします」
電話を切り、窓の外を見た。
マイアミのビル群の向こう、水平線が光っている。太平洋ではなく大西洋だが、海は海だ。どの海も繋がっている。どの海の底にも、今はまだ眠っているものがある。
三ヶ月後、隕石が落ちる。
その海底に、俺が最初に辿り着く。
長谷部は日本行きのフライトを検索しながら、静かに確信していた。
第一段階、完了。
次は帰国だ。
金が動けば、世界が動く。世界が動けば、終わりが始まる。
だが終わりが始まる前に、俺だけの「始まり」がある。
それで十分だった。
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