第2話:摩天楼の欲望と運命の数列
成田を発ったボーイング777は、定刻通りに離陸した。
エコノミークラスの窓側席。隣は初老の白人男性で、離陸直後から毛布を被って眠り始めた。俺は窓の外を見た。東京の夜景が、みるみる小さくなっていく。無数の光の粒が、やがて一枚の絨毯のように広がり、そして雲の下に消えた。
あの光の一つ一つに、人間が住んでいる。
三ヶ月と三日後、その大半が死ぬ。
感傷を、意識して切り捨てた。今の俺に許されているのは、計算だけだ。感情は後でいい。全てが終わった後、生き残った人間と酒でも飲みながら、いくらでも感傷に浸ればいい。今は一秒が惜しい。
機内食に手をつけながら、俺はスマートフォンのメモアプリを開いた。
やることリストを作る。優先順位順に。
一、メガ・ミリオンズの購入。
二、当選後の換金手続きと匿名化。
三、資金の日本への移動と資産の分散。
四、帰国後、拠点となる土地の選定と購入。
五、要塞化工事の発注。
六、物資の備蓄開始。
七、震源地への遠征準備。
シンプルだ。金さえ手に入れば、後は全て金で解決できる。問題は最初の一手、つまりロトの購入と換金を、いかにスムーズかつ安全に行うかだ。
アメリカのロト事情を、俺は前世の知識でそれなりに把握していた。
メガ・ミリオンズは全米四十四州とワシントンD.C.で販売されているロトで、購入は一口二ドルから。当選した場合、受け取り方法は「一括払い(ランプ・サム)」と「年金払い(アニュイティ)」の二種類がある。一括払いを選ぶと当選額の約六十パーセントに目減りするが、時間的猶予がない今の俺には選択の余地がない。そして州によって税率が異なる。連邦税は一律だが、州税はゼロの州もあれば十パーセント超の州もある。
行き先はフロリダ州と決めていた。
州税なし。法人設立が容易。そして、匿名での当選が認められている数少ない州の一つだ。アメリカでは州によっては当選者の氏名が公開されるが、フロリダは信託を経由することで実質的な匿名化が可能だった。前世でニュースになっていた事例を、記憶の片隅から引っ張り出す。弁護士を立て、信託名義で当選金を受け取るやり方だ。
問題は弁護士だ。
見ず知らずの日本人が、億単位の宝くじを当てた直後に駆け込んでくる。普通の弁護士なら身構えるだろうし、悪い弁護士なら情報を売る可能性がある。信頼できる人間を、どう見つけるか。
答えは単純だ。金を積む。
アメリカの弁護士業界は競争が激しい。特にフロリダは弁護士の数が多く、良質な事務所を探すのは難しくない。問題は、俺が英語でそれなりに交渉できるかどうかだが――前世で軍の任務上、基礎的な英語は叩き込まれていた。ビジネスレベルには程遠いが、明確な意思疎通は可能だ。それで足りなければ、通訳を雇えばいい。金で解決できる問題は、金で解決するのが最も合理的だ。
機内灯が落ちた。多くの乗客が眠り始める。
俺はイヤホンを耳に差し、画面を落として目を閉じた。眠れるかどうかは分からないが、身体を休めておくことは重要だ。これからしばらく、ゆっくり眠れる夜は来ない。
瞼の裏に、数字が浮かんだ。
七、十四、二十一、三十三、四十八、そしてメガボールが十一。
前世のある日、軍の食堂でぼんやりとテレビを眺めていた時に流れたニュースだ。史上最高額のキャリーオーバーが発生し、全米中が沸いていた。当選者が現れないまま数週間が経過して、そのままロールオーバーされ続けた末に、誰かが一人で全額を当てたというニュースだった。その時の俺には関係のない話だったから、深く記憶していたわけじゃない。だがあの数字は、妙に頭に残った。語呂がよかったのか、それとも単純な偶然か。いずれにせよ、今となってはそれが俺の命綱だ。
間違いはない。絶対に。
俺は自分に言い聞かせながら、意識を手放した。
マイアミ国際空港に降り立ったのは、現地時間の午後二時過ぎだった。
六月の南フロリダは、息が詰まるような熱気に満ちていた。空港を出た瞬間、湿気を含んだ熱風が顔に当たる。東京の夏とはまた種類の違う暑さだ。アスファルトから立ち上る陽炎の向こうに、やたらと背の高いヤシの木が並んでいる。
タクシーを捕まえて、ダウンタウンのホテルへ向かった。
事前に予約していたのは、特別豪華でも特別安くもない、ビジネスグレードのホテルだ。目立ちすぎず、みすぼらしくもなく。宝くじを当てる前の人間として、不自然でない身なりを保つことが重要だった。チェックインを済ませ、荷物を置いて、すぐに部屋を出た。
まず、チケットだ。
メガ・ミリオンズのチケットは、州内のあちこちで販売されている。コンビニ、ガソリンスタンド、スーパーマーケット。俺はホテルから歩いて三分のコンビニを見つけ、入店した。
チケット販売機の前に立つ。
一口二ドル。俺は千ドル分、つまり五百口を購入することにした。全て同じ番号で揃えることも考えたが、それはさすがに目立つ。バラバラの番号でランダム購入したチケットの束の中に、当選番号を記入した一口を混ぜる。それが最も自然だ。
ランダム購入のチケットを四百九十九口。
そして最後の一口に、俺は手書きで番号を記入した。
七、十四、二十一、三十三、四十八。メガボール、十一。
レジに持っていくと、店員の中年女性がガムを噛みながら無表情でスキャンした。千ドルの支払いを現金で済ませ、チケットの束を受け取る。日本円換算で約十四万円。前世の俺なら即座に「馬鹿らしい」と切り捨てる金額だ。だが今は何も感じない。これから手にするものを思えば、誤差にもならない。
ホテルに戻り、チケットを財布の奥深くに仕舞い込んだ。
抽選日まで、三日ある。
三日間で、やることは山積みだ。
俺はベッドに腰を下ろし、再びスマートフォンを開いた。まず調べるべきは、信頼できる弁護士事務所だ。フロリダ州でロト当選者の資産保全と匿名化を専門的に扱う事務所。評判が良く、守秘義務に厳格で、かつ外国人クライアントの対応実績があるところ。
検索を始める。英語での検索は少々骨が折れたが、一時間ほどかけて候補を三件に絞った。翌日、全てに問い合わせのメールを送る。内容は簡潔に。「大規模な資産の信託設立と法的保護について相談したい日本人クライアントがいる」という旨だけを伝え、返信を待つ。
次に、資金移動のルートを考えた。
当選金はドル建てで受け取る。そのまま全額を日本に送金すると、金融機関に大規模な疑義取引として報告される可能性がある。それ自体は違法ではないが、余計な注目を集めたくない。対策としては、複数の法人口座を経由して段階的に移動させるのが定石だ。フロリダに信託を設立し、そこからシンガポールの法人口座へ。シンガポールから日本の法人口座へ。段階を踏むことで、一度に動く金額を分散させる。
合法的な範囲で、最大限に目立たなくする。
犯罪者のようなことを考えているという自覚はあった。だが俺がやろうとしていることは、法的には何一つ問題がない。宝くじを当てて、合法的に換金して、合法的に移動させる。それだけだ。後ろめたさを感じる必要はない。
三日間、俺は動き続けた。
弁護士事務所への問い合わせと選定。信託の仕組みについての理解を深めるための資料収集。フロリダ州内でのダミー法人設立の可能性の検討。並行して、日本に戻った後の拠点候補地についても情報収集を始めた。理想は山間部か海岸沿いの、アクセスが限定的で、広大な土地を持つ場所だ。自然の地形が防壁として機能し、かつ水源と農地を確保できる場所。
夜は眠れなかった。
眠れないのは不安のせいではなく、純粋に思考が止まらないからだ。やるべきことが多すぎる。考えるべき変数が多すぎる。パンデミック後の世界を、俺は一度経験している。だからこそ、今から積み上げられるアドバンテージの大きさが分かる。そして、それを取りこぼした時の損失の大きさも。
三日目の夜、俺はホテルの窓から外を眺めた。
マイアミの夜景は派手だった。ネオンが瞬き、音楽が遠くから流れてくる。人々が笑い、飲み、騒いでいる。この街の誰も知らない。三ヶ月後、この光景が消えることを。この音楽が止まることを。この笑い声が悲鳴に変わることを。
告げることはできない。告げても信じてもらえない。信じてもらえたとしても、それが何かを変えるとは思えない。隕石の落下を止める手段は、俺には存在しない。パンデミックそのものを防ぐ方法を、俺は知らない。
できることは、備えることだけだ。
生き残れる人間を、一人でも増やすことだけだ。
そのためには力が要る。金が要る。武器が要る。そして、一切の妥協を許さない冷徹さが要る。感傷は後でいい。今は計算だけをしろ。
俺はカーテンを閉めた。
抽選日の朝、俺は早くに目が覚めた。
今日の抽選は夜十一時だ。結果が分かるまで、まだ十五時間以上ある。だが身体は自然と緊張していた。頭では分かっている。当たることは分かっている。前世で目にした数字が、財布の中のチケットに刻まれていることも分かっている。
それでも、手が震えた。
当たり前だろう、と俺は自分に言い聞かせた。理性と感情は別物だ。分かっていても震える。それが人間というものだ。
長い一日だった。
弁護士事務所との打ち合わせを午前中に入れていた。前日に返信のあった事務所の中から選んだ、資産保全を専門とするフィッシャー法律事務所だ。担当のパートナー弁護士は四十代の小柄な男で、日本人クライアントにも慣れているらしく、最初から通訳なしでゆっくり話してくれた。
「大規模なロト当選を想定した信託設立の相談だ」と告げた時、男は眉一つ動かさなかった。
プロだな、と思った。
打ち合わせは二時間に及んだ。信託の種類、税務処理の方法、匿名化の手順、そして外国への資金移動に関する法的な注意点。俺は必要な情報を全て頭に叩き込み、着手金の小切手を切った。男は「当選した場合はすぐに連絡を」と言い、固い握手をした。
事務所を出た後、俺はカフェに入って時間を潰した。
コーヒーを三杯飲んだ。サンドウィッチを一つ食べた。時計を確認するたびに、針が遅く動いているように感じた。
夜十一時。
ホテルの部屋で、俺はスマートフォンの画面を見つめた。ライブストリーミングで中継されている抽選番組が、陽気な音楽と共に進行していく。司会者が笑顔でボールを取り出すたびに、俺の心拍数が上がった。
一つ目のボールが出た。
七。
二つ目。
十四。
三つ目。
二十一。
四つ目。
三十三。
五つ目。
四十八。
そしてメガボール。
十一。
俺は、一度だけ深く息を吐いた。
財布からチケットを取り出して、番号を確認する。七、十四、二十一、三十三、四十八、メガボール十一。全て一致している。
当たった。
当たり前だ。知っていた。分かっていた。それでも俺はしばらくの間、チケットを握りしめたまま動けなかった。これは現実だ。夢じゃない。回帰した直後のあの朝と同じで、これは確かに現実に起きていることだ。
数百億円が、今この瞬間、俺の手の中にある。
やがて俺は立ち上がり、フィッシャー弁護士の番号に電話をかけた。
深夜の一時を過ぎていたが、男はすぐに出た。
「当たった」と俺は言った。
短い沈黙の後、男は静かな声で答えた。
「明朝、事務所に来てください。全てを整えます」
電話を切って、俺は再びチケットを見た。
これが、全ての始まりだ。
摩天楼の夜景を背景に、俺はただ一人、静かに笑った。
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