第1話:砂時計がひっくり返る時
初めまして、作者のささのはです。
数ある作品の中から目を留めていただき、ありがとうございます。
元指揮官の冷徹なサバイバルと、牙を隠した要塞統治の物語をお届けします。
※しばらくは毎日18時頃に更新予定です。気に入っていただけましたら、応援よろしくお願いいたします
「――砂時計は、ひっくり返った。元少佐の二度目の生存戦略が始まります」
死ぬのは、思ったより静かだった。
泥濘の中に俯せに倒れた俺は、自分の身体から温度が失われていく感覚を、どこか他人事のように観察していた。右肺に風穴が開いている。腹にも二発。三十分前にはすでに防弾プレートが限界を超えていたから、その後に受けた銃弾は全て、肉を素直に貫通していった。不思議と痛みは薄かった。神経が壊れているのか、それとも脳が限界を悟って感覚を遮断しているのか。どちらでもいい。もう、どちらでも構わなかった。
空を見上げることもできない。首が動かない。ただ頬に触れる泥の冷たさだけが、まだ俺が生きていることを教えてくれた。腐った水の臭いがした。廃墟の粉塵と、鉄の臭い。血の臭いは、もう慣れすぎて分からなくなっていた。
レベル4地帯。
この廃墟と化した都市の一区画に、俺たち第七特殊任務小隊が投入されたのは、今から六時間前のことだ。任務名は「残存ゾンビの掃討及び物資の回収」。危険手当が少し色付く程度の、至って標準的な任務のはずだった。小隊規模の戦力で十分にこなせる、数ある任務の中の一つ。そのはずだった。
おかしいとは、思っていた。
投入前のブリーフィングで示された敵勢力の規模が、現場の実態とかけ離れすぎていた。レベル1とレベル2の散発的な個体が点在するだけと説明されていたはずが、いざ降り立ってみれば、街全体が息をするように蠢いていた。路地の影に。廃ビルの窓の向こうに。道路に積み上がった車の残骸の隙間に。どこを見ても、灰色の影が揺れていた。
撤退の判断は、俺が下すべきだった。
だが俺は、進んだ。任務を果たせると信じて。部下を信じて。練度を信じて。二十七名の熟練兵を率いて、俺は廃墟の奥へと踏み込んでいった。
そしてもう一つ。何よりも引っかかっていたことがあった。
部隊員の顔ぶれだ。
エース格が、ことごとく外されていた。今回の任務、参加を打診された人間のリストを事前に見たとき、俺はかすかな違和感を覚えた。精鋭の名前がない。前の任務で活躍した連中が、軒並み「別任務へのアサイン」という理由で外れている。残ったのは優秀だが経験の浅い者、あるいは俺への忠誠心が高い者ばかりだった。
今になって、その意味が分かる。
消耗品として選ばれたんだ。俺ごと。
腹の傷から溢れる血が、泥と混ざり合って黒くなっていく。部下たちの声は、もう聞こえなかった。飯田の怒鳴り声も、朴の冷静な射撃コールも、三宅の馬鹿みたいに明るい笑い声も、何も聞こえない。二十七名。全員、ここに散った。
軍監査部長。階級は少将。名を、橘 征司という。
あの男が「心理透視」の異能持ちだという噂は、就任当初から囁かれていた。対象の思考の断片を読み取り、嘘を見抜き、忠誠心の有無を判定する。異能が一般に知られていない時代ならば、ただの「人を見る目がある上官」として通用しただろう。だが今は違う。俺はずっとその噂を与太話だと切り捨てていた。証拠もない。裏も取れない。何より、そんな便利な力が実在するとは思いたくなかった。
だが実在した。
そして俺が橘の不正を嗅ぎ回っていることを、とっくに看破されていたのだろう。軍の備蓄物資の横流し。民間人の保護を名目にした労働力の搾取。異能獲得アイテムの独占と闇取引。俺が少しずつ集めていた証拠の断片を、橘はとっくに把握していた。そして俺が動く前に、綺麗に処理することにした。
任務という名の、罠。
レベル4地帯という、完璧な言い訳。
戦闘中に全滅した部隊など、珍しくもない。誰も疑わない。誰も調べない。橘は軍の秩序のためには手段を選ばないが、少なくとも、後始末は丁寧だった。
「……くだらねえ」
声に出したつもりだったが、唇がほとんど動かなかった。肺に穴が開いているから、空気がうまく通らない。それでも俺は、薄れていく意識の底で、ただ一つのことだけを考えていた。
橘。
必ず、殺す。
お前が積み上げてきた全てを、お前自身の足元から崩してやる。お前が誇る「秩序」とやらを、お前の手で作ったルールで縛り上げてやる。そしてお前が一番恐れている方法で――全てを暴いて、全てを失わせて、その上で終わらせてやる。
次は俺が、お前の心を読む番だ。
視界が滲んだ。暗くなった。
二十七名の顔が、走馬灯のように流れた。飯田。朴。三宅。木内。渡辺。田島。浅野。川口。全員、俺が選んだ。全員、俺が信じた。全員――
俺は、まだ死ねない。
意識が、消えた。
最初に感じたのは、布団の感触だった。
硬い。安っぽい。スプリングが一箇所、微妙に飛び出している。それが腰の右側に当たって、微かに不快だ。
俺は数秒間、天井を見つめた。見覚えがある。見覚えしかない、染みだらけの天井。向かって左上の角に、入居時からあった不規則な形のシミ。六畳一間。家賃六万二千円。最寄りのスーパーまで徒歩十二分。駅からは徒歩十八分で、雨の日は軽く憂鬱になる距離だ。築二十三年のワンルームマンション。
俺の、部屋だ。
「は」
声が出た。ちゃんと出た。喉が動く。肺が動く。右肺に風穴は開いていない。
跳ね起きた。全身を確認する。両手を開いて、閉じて、また開く。傷がない。痛みがない。腹を触ると、柔らかい腹筋があるだけで、銃弾の感触も、縫合の跡も何もない。さっきまで泥の中に倒れていたはずなのに、身体は清潔で、パジャマを着ていて、布団の中にいた。
スマートフォンを掴んだ。
日付を見た瞬間、俺は呼吸を止めた。
パンデミック発生の、三ヶ月と四日前。
会社員時代だ。俺が中堅企業の営業職として、特に不満もなく特に希望もなく、毎日を惰性で過ごしていた頃。軍に入隊する前。世界が終わる前。全てが、まだあった頃だ。
スマートフォンを持つ手が、震えていた。
俺は、回帰した。
三ヶ月と四日後、この世界は終わる。太平洋の西側、日本列島の南方沖に、極小の隕石が落下する。人間の観測網にはほとんど引っかからない、拳大ほどの隕石。だが、それが深海に着弾した瞬間、「瘴気」と呼ばれるウイルスが放出される。海流に乗り、大気に溶け込み、気がつけば世界中に広がっていく。感染した人間は、耐性のない者から順に死んでいく。世界人口の九十九点九パーセント以上。そして死んだ者たちは、ゾンビとして歩き始める。
俺は知っている。全部知っている。
どこで最初の感染者が出るか。政府がどう対応を誤るか。軍がどう組織され、どう腐敗していくか。橘がどこで台頭し、どこで牙を剥くか。レベル3の個体がどこに出現し、レベル4地帯がどう広がっていくか。どの道を通れば生き残れて、どの判断が死を呼ぶか。
そして何より――隕石が落ちた震源地の、深海に何が眠っているかを。
震える手を、意識して静める。何度か深呼吸をした。今は混乱している場合じゃない。感傷に浸っている時間も、泣いている時間も、一秒たりともない。三ヶ月と四日。それだけしかない。やるべきことを、順番に片付けていくだけだ。
まず、金だ。
全てのリソースは金から始まる。今の俺の貯金は、端数を切って五百万円。長年の節約癖と、残業代の積み立て。我ながら褒めてやりたい金額だが、これから俺がやろうとしていることには、ゴミみたいな数字だ。拠点の取得。要塞化工事。数年分の食料と物資の備蓄。武装。人材。そして、橘への対抗手段。全てに金がかかる。途方もない金が。
五百万円では、話にならない。
だが、俺には前世の記憶がある。
米国のメガ・ミリオンズ。次回の抽選の当選番号を、俺は知っている。記憶の中に、はっきりと焼き付いている。あの日、軍の基地でニュースを流し見していた時に、画面に映った当選番号。誰も名乗り出ず、史上最高額のキャリーオーバーが発生した回だ。当選金額は、日本円換算でざっと二百億円を超える。
二百億円。
それだけあれば、全てが変わる。
拠点を作れる。武装できる。物資を揃えられる。信頼できる人間を集められる。そして何より、橘と軍が相手でも対等以上に渡り合えるだけの「力」を、ゼロから構築できる。前世の俺は何も持っていなかった。軍の組織の中でしか動けなかった。だから嵌められた。だから死んだ。
今度は違う。
今度は、俺が盤面を作る側だ。
スマートフォンを置いて、俺はベッドから立ち上がった。全身が軽い。傷一つない、三十二歳の身体。明日も仕事がある。上司の小言がある。取引先への頭下げがある。月末のノルマがある。
全部、どうでもいい。
クローゼットを開けた。スーツが三着、並んでいる。その隣に、旅行用のキャリーバッグ。俺はキャリーを引き出して、床に置いた。次にパスポートを探す。引き出しの奥、保険証と一緒に仕舞い込んであるはずだ。最後に使ったのは四年前、友人の結婚式に合わせて行ったグアム旅行だったか。随分と遠い話に思える。
パスポートを見つけた。有効期限は、まだ六年ある。
俺はそれを握りしめたまま、スマートフォンで航空券の検索を始めた。明朝一番、成田発のアメリカ行き。どの便でもいい。とにかく飛べる便ならば。
鏡を見た。
引き戸の裏に取り付けた、安物の全身鏡。そこに映っているのは、営業職の、平凡な三十二歳の顔だ。くたびれた顔。疲れた目。特徴のない顔立ち。どこの街にも二十人はいそうな、何の変哲もない男。
だが俺は、その目の奥に燃えているものを知っていた。
橘。
お前はまだ、俺が生きていることを知らない。三ヶ月後の地獄が始まるまで、お前は俺のことなど欠片も思い出さないだろう。レベル4地帯で綺麗に片付いた案件として、書類の山に埋まっていくだろう。
それでいい。
その間に、俺は全てを揃える。金を。土地を。武器を。仲間を。そして、前世では手が届かなかった「本物の力」を。震源地に眠るものを、誰よりも早く手に入れる。
次に会う時、俺たちの立場は逆転している。
お前が俺を嵌めた方法で、俺がお前を終わらせる。
俺は鏡から目を離し、航空券の決済ボタンを押した。画面に「予約完了」の文字が光る。出発は明朝六時五十分。今から逆算すると、準備に使える時間は五時間ほどだ。
砂時計がひっくり返った。
零れ落ちる砂を数えるのは、今度は俺の番だ。
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