第16話:偽りの日常と、贅沢な孤独
午前零時前の闇は、山間に静かに積もっていた。
職人たちが仮眠室へ引き上げていった気配が消えて、おおよそ三分。長谷部雄介はプレハブ司令室のパイプ椅子に座ったまま、微動だにしなかった。両手の革グローブ越しに、膝の上で組んだ指の重みをゆっくりと確かめる。革が微かに軋む音が、室内の静寂をかえって際立てた。
天井の蛍光灯が、不規則に揺れた。
ちかっ、と白光が瞬き、二秒の安定を経て、また薄暗さへ沈む。突貫工事の末に配線を収めた配電盤の不備だ。電圧が安定していない。修繕は優先タスクリストの第六位に据えてある。今夜は放置でいい。この程度の明滅で思考が乱される神経は、三年前の特殊任務で完全に焼き切れている。
長谷部は無線機の受信モードを確認した。広域スキャン、周波数は軍用帯から民間緊急帯まで順送りに舐め回している。スピーカーからは断続的な雑音と、ときおり混入する潰れた音声の残骸が滲み出るばかりだ。まともな送受信を維持している局は、すでにほとんど存在しない。
それ自体が、情報だった。
インフラの沈黙は、地上の崩壊が自分の計算より早い速度で均質化していることを示している。前世の記憶では、パンデミック発生から四十八時間以内に主要都市の電力網は段階的に落ちていった。しかし今回は半日の前倒しが全ての前提を狂わせている。送電制御を担う技術者たちが深夜に感染した場合、系統の保護継電器が連鎖的に落ちる速度は倍加する。
長谷部は天井を一瞥し、蛍光灯の次の明滅を待った。
ちかっ。
発電機の燃料残量。強奪した軽油ドラム缶十二本の内訳、要塞の自家発電機の時間当たり消費量、HEPA H14換気ユニット六十台の電力需要。頭の中の計算盤が無音で回転する。換気ユニットの稼働を絶対条件として固定した場合、他の電力消費をどこまで絞れるか。照明は減光でいい。暖房は人体発熱量を合算して最低設定。モニター類は必要最小限のみ電源を入れる。
そうすれば、確保した燃料で十一日以上の自立稼働が可能だ。
十一日。それが現時点での生存保証期間の上限だった。
問題は燃料ではなく、索敵だ。
長谷部の視線がモニターの一角に吸い寄せられる。外部カメラの映像は夜間モードで緑がかった灰色の世界を映し出しており、要塞周囲の擁壁と、その向こうに広がる山林の暗がりが静止画のように続いている。動くものはいない。今はまだ。
しかし港湾の倉庫Cに残してきた「ズレ」が、長谷部の思考に小さな棘のように刺さっていた。
施錠を破った形跡。移動した重量物の擦り傷。消えた燃料ドラムとATM-4の空白。あの場所を管理していた中国軍第三非正規部隊の指揮官が有能であれば、「内部の横領」という線をまず検討し、すぐに否定する。倉庫内に不審な人間がいた痕跡はない。ならば外部からの侵入だ。そして外部から深夜の港湾に単独で潜入し、重量物を跡形もなく持ち出せる存在など、通常の物理的常識では説明がつかない。
だからこそ、厄介だった。
常識の外にある事象は、有能な軍人の思考を逆に研ぎ澄ます。彼らは解釈できない現象を怖れるのではなく、分解して再構築しようとする。持ち出された燃料と兵器の質量から輸送手段を逆算し、夜間に移動可能な方角と地形を絞り込む。山岳地帯。幹線道路から離れた孤立した施設。それが候補に上がるまで、指揮官の優秀さ次第では四十八時間とかからないかもしれない。
前世では、第三非正規部隊の動向をモニタリングする余裕すらなかった。今回は違う。だが「違う」ことが、慢心に直結してはならない。
長谷部は革グローブの指先でデスクを一度だけ叩き、思考を切り替えた。
やるべき残務は二つ。強奪兵器の施錠確認と、無線の傍受ログの記録だ。
立ち上がり、司令室の隣に設けた武器庫の扉へ向かう。分厚いスチール製の扉は、後藤たちに取り付けさせた南京錠と電子錠の二重ロックで閉じられている。電子錠のテンキーに革グローブ越しに触れ、暗証番号を入力する。グローブ越しではタッチパネルの反応が鈍い。長谷部は迷わず親指の付け根、手首に近い革の薄い部分を押し当て、圧力で入力を通した。
扉が内側に開く。
AT-4対戦車ロケット、そして細長い木箱に収められた複数の携行品。それらが金属棚に整然と並んでいるのを、蛍光灯の明かりで確認した。ロック機構のすべてに異常なし。後藤たちはこの部屋の存在は知っているが、中身の全容は把握していない。「PMCの支給品の一部」という説明だけで、それ以上の詮索をする者は昨夜の時点で誰もいなかった。
人間は、信じたいものを信じる。
地獄の入り口に立たされた者ほど、救いの物語に縋る。後藤が涙目で頷いた瞬間の顔が、長谷部の記憶にまだ鮮明に張り付いていた。あの従属は本物だ。恐怖と安堵が混合した化学反応で固められた服従は、そう簡単には剥がれない。しかし「PMCのコネクション」という嘘は、諸刃でもある。今後の物資調達、食糧の出どころ、外部との連絡手段、あらゆる説明がその嘘の整合性に縛られる。
自分が架けた橋の上を、自分が渡り続けなければならない。
長谷部は武器庫の扉を閉め、再び電子錠をかけた。
無線機へ戻り、傍受ログを確認し、記録媒体へ書き出す。これで深夜の残務は終わった。
壁の時計は午前一時十七分を指していた。
長谷部はパイプ椅子に深く座り直し、背もたれに体重を預けた。両腕を胸の前で組む。革グローブが微かに鳴る。蛍光灯がまた揺れた。
眠る。
感傷でも疲労の告白でもなく、それは純粋な意思決定だった。身体は消耗品ではない。整備しなければ最適な性能を発揮できない機械だ。軍にいた頃に身体へ叩き込んだ原則で、死の直前まで長谷部がそれを守り続けたからこそ、最後の瞬間まで思考が正確だった。
問題は、夢だ。
眠ると、見る。前世の断片。橘征司の顔。自分の胸に当てられた銃口。あるいはもっと不規則な、意味を持たない人間の顔の羅列。それらは睡眠の質を毀損し、覚醒時の判断精度を僅かに落とす。僅かで十分だ。戦場では僅かが死に直結する。
だから長谷部は、夢を見ないよう脳を調教していた。
具体的な手法は単純だ。入眠直前に、翌朝の行動リストを頭の中で反復する。抽象的な感情や記憶の断片が侵入する隙間を、具体的なタスクと数字で埋め尽くす。意識が薄れていく過程で思考の回路を「処理モード」のまま維持し、夢という名の非論理的な映像生成をシステムレベルで起動させない。
長谷部は目を閉じた。
明朝六時、起床。換気ユニットの圧力ログ確認。発電機の燃料残量チェック。外部カメラの録画データのスクリーニング。後藤への朝の指示出し。午前中に擁壁の硬化状態を確認し、追加の補強工程を後藤に割り振る。正午前にドローンによる周辺索敵。午後、倉庫Cからの中国軍の索敵展開が山岳側へ伸びている可能性を想定した対応策の策定。
数字と動詞が頭の中を均等に埋めていく。
蛍光灯の明滅が瞼の裏で一度だけ滲んで、消えた。
目が覚めた時、時計は五時五十八分だった。
アラームは六時に設定してある。身体が二分早く覚醒したのは、前世の頃からそうだった。生体時計の精度は、訓練によって研磨される。長谷部は瞼を開いたまま、天井の蛍光灯を見上げた。明滅はまだ続いている。昨夜より周期が短くなっている気がした。配線の接触不良が進行しているかもしれない。
今日の追加タスクに「配線確認、後藤に指示」を加えた。
起き上がり、パイプ椅子の背もたれから体を離す。司令室に仮眠したのではなく、昨夜のうちに職人たちの仮眠室とは別棟に設けた自室へ移動していた。八畳ほどのプレハブ空間に、折りたたみ式のコットと、小型のロッカーと、外部カメラのサブモニターが一台。それだけの部屋だ。後藤たちはこの部屋の存在は知っているが、中に入る許可は与えていない。
長谷部は革グローブを両手から引き抜いた。
素手になった右手の指が、冷えた空気に触れる。HEPA換気ユニットが送り込む清潔な空気は、外気より数度低い。長谷部はロッカーの扉を開け、奥の空間に視線を向けた。そこには何もない。棚も、収納物も。
しかし、左手の薬指に嵌まった「時空間の指輪」が、微かに反応した。
正確には、反応するのは指輪ではなく、それを媒介とする亜空間だ。長谷部の意識が収納を命じると、指輪の内側に存在する不可視の空間が展開する。その逆もしかり。素手の皮膚と指輪が直接触れていることが、唯一の作動条件だった。革グローブを嵌めていては、何も出せない。
長谷部は右手の親指と人差し指で指輪の輪郭をなぞり、展開を意識した。
ロッカーの前の空間に、質量が現れた。
陶器の皿。その上に、赤みを保ったサーロインステーキが一枚。二百八十グラム、厚み三センチ。土曜の朝に調達した際、グリルで焼き上げてすぐに収納したものだ。指輪の内部では時間も熱量も完全に停止している。だから今この瞬間に取り出されたそれは、焼きたてのままの温度を保っていた。表面の焦げ目から、微かな湯気が立ち上る。
プレハブの冷えた空気の中で、肉の香りが広がった。
長谷部は皿をロッカーの棚板代わりに使っている板の上に置き、フォークとナイフを取り出した。これも指輪の中に収納してあったカトラリーセットだ。革シートに包まれた六本組で、刃は高炭素鋼製。サバイバルの局面でフォークとナイフの質に拘るのは、ある種の病かもしれないと思う。しかし思うだけで、こだわりは捨てない。
一口切り取り、口に運ぶ。
熱が舌に広がった。
肉の繊維が奥歯の圧力に崩れ、脂の甘さが鼻腔へ抜ける。焼き加減はミディアムレア。外側の焦げ目がメイラード反応の香ばしさを閉じ込め、内側の赤みが水分を保っている。この一皿の価格は、パンデミック以前の市場価格で六千円を超えていた。
今となっては、価格などというものは存在しない。
それが、この世界の正確な現状だった。
長谷部は咀嚼しながら、頭の片隅で指輪の残容量を再計算した。現時点で亜空間に収納されている物資の総重量を差し引いた空き容量は、重量換算でおよそ二十九キログラム。この皿を戻す際にはステーキの質量分が若干回収されるが、実質的な数字は大きく動かない。
二十九キロ。
それが、現在の長谷部の「不可視の手札」の総量だった。
軽対戦車兵器一基が約七キロ。携帯型のHEPAユニットが一台あたり十二キロ前後。医療用の陽圧テントが圧縮収納で八キロ程度。全てを同時に収納することは不可能だ。優先順位をつけ、展開するたびに計算し直し、常に最適解を更新し続ける必要がある。
そして今後、要塞の防衛を強化するための対空資材や追加センサー類を外部から調達する局面が来た時、その重量が指輪の容量を圧迫する。調達した物資をどの順番で収納し、どのタイミングで展開するか。亜空間という絶対的な特権は、使い方を誤れば最大の足枷になる。
エリクサーは、使わなければ意味がない。しかし使い切ってしまえば、最後の切り札を失う。
長谷部はナイフで次の一切れを切り取りながら、その矛盾の中に静かに座っていた。
外では、夜明けが始まっていた。
ステーキを食べ終えた皿を指輪へ戻し、素手のまま革グローブを再び両手に嵌めた。指先まで革が密着する感触を確認し、長谷部は自室を出た。
廊下に相当するプレハブの接続通路は、幅一・二メートル。天井が低い。HEPAユニットの送風口が頭上に二カ所あり、フィルターを通過した清潔な空気が一定の圧力で押し出されている。その微かな気流が、常に廊下の外側へ向かって流れていた。陽圧環境の証明だ。内部の気圧が外より僅かに高く保たれているため、隙間があれば空気は常に外へ漏れる。外気が内部へ侵入する経路は、物理的に存在しない。
この空気の流れが止まった瞬間が、要塞の死を意味する。
長谷部は通路を歩きながら、送風口の音に耳を澄ませた。低く均質な駆動音。異常なし。
共用スペースへの扉を開ける。
八名分の折りたたみテーブルと、プラスチック製の椅子が並んでいる。壁際にカセットコンロと、ステンレスのケトル。天井には蛍光灯が四本、こちらは司令室より安定している。昨日の突貫工事で後藤が優先的に配線を通した区画だ。
後藤がすでにいた。
テーブルの端に座り、両手でマグカップを包んでいる。長谷部が扉を開けた音に顔を上げた。五十代前半の顔に、昨日一日分の疲労が重なっている。しかし目の奥には、昨夜の「絶対服従」を経た後の、奇妙な落ち着きのようなものが宿っていた。
「おはようございます」
後藤の声は低く、静かだった。
「ああ」
長谷部は短く返し、ケトルを確認した。湯が入っている。マグカップを一つ取り、インスタントコーヒーの小袋を開けて注いだ。粉末が溶ける前の、薄い茶色の渦を眺める。
「職人たちは」
「まだ寝てます。六時に起こす予定で」
「七時でいい」
後藤が僅かに目を細めた。「了解しました」と答える。
長谷部はコーヒーを一口飲んだ。インスタントの、平板な苦みが舌に広がる。指輪の中には挽きたての豆と、ハンドドリップのための器具まで収納してある。しかしそれを今ここで取り出す理由は、どこにもない。
後藤の前に、乾パンの袋が置かれていた。封が開いている。半分ほど食べた跡がある。
「それだけか」
「はい」
長谷部は何も言わなかった。後藤も何も言わなかった。二人の間に、沈黙が置かれた。後藤はその沈黙を咎めとは受け取らなかっただろう。あるいは受け取っても、言葉にする選択肢を持っていなかった。
昨日の重火器の展開を見た後の人間は、そうなる。
長谷部は椅子を引いて座り、コーヒーのマグカップをテーブルに置いた。
「後藤、今日の工程を確認する」
「はい」
「午前中に擁壁の硬化状態を全周確認してくれ。打設から四十時間以上経過しているが、昨夜の気温低下で養生が遅れている箇所がある可能性がある。指で押して白く粉が出るようなら、その区画は荷重をかけるな」
「わかりました」
「司令室の蛍光灯が明滅している。配線の接触不良だ。午後イチで見てくれ。感電に注意しろ、必ずブレーカーを落としてから触れ」
「了解です」
後藤がポケットから手帳を取り出し、鉛筆で書き留めている。その動作が、長谷部の目に妙に鮮明に映った。昨日まで現場監督として現場を仕切っていた男が、今は命令を書き留めている。世界が変わったのではなく、後藤の世界における重力の向きが変わったのだ。
「食糧の追加配給は昼に行う。指示があるまで倉庫の封印は解くな」
「……はい」
後藤の声に、ほとんど察知できないほど微細な躊躇が混じった。長谷部はそれを聞き取った上で、何も付け加えなかった。飢餓感は統治の道具だ。飢えさせるのではない。「足りないかもしれない」という不安の中に人を置くことで、与えられた時の感謝が指数関数的に増幅する。
後藤は昨日、重火器の山を見た。ということは、物資が潤沢にあることを知っている。なのに乾パン。その落差は、後藤の中で「長谷部が何らかの理由で制限している」という解釈に自動的に変換されているはずだ。そしてその理由が「PMCの規律」や「物資管理の厳格化」であれば、後藤はむしろその秩序を尊重しようとする。現場監督の血が、そう命令する。
長谷部はコーヒーを飲み干した。
七時半頃に職人たちが共用スペースへ集まり始めた。
六名が昨夜と同じ作業着のまま、一名だけが着替えていた。着替えた男、二十代後半の大工見習いの戸田が、長谷部と目が合った瞬間に視線を逸らした。怯えではなく、畏怖だ。似ているが、方向が違う。怯えは逃げようとする。畏怖は近づきたいが近づけない、という磁場を生む。
長谷部は七名の顔を順に見た。特に何も言わなかった。
それだけで、共用スペースの空気が引き締まった。
後藤が配給を始めた。乾パンと、缶詰の汁気のない固形物。それと水。職人たちは文句を言わなかった。一人が「これだけですか」と言いかけて、隣の男に肘で制止された。
長谷部は壁際に立ったまま、マグカップの空になった底を見ていた。
職人たちの視線が、自分に向かっては逸れる、その繰り返しを皮膚で感じていた。彼らは長谷部に何かを聞きたいのだと分かる。外はどうなっているのか。この先どうするのか。家族は。街は。
誰も聞かなかった。
昨日の夜に見た重火器の列が、その問いを全て飲み込んでいた。あの男は知っている。あの男には計画がある。あの男に従っていれば生き残れる。その信仰が、恐怖を蓋していた。
長谷部はマグカップをシンクに置き、共用スペースを出た。
司令室のマルチモニターに、朝の外界が映っていた。
ドローンは夜明け前から自動周回させていた。稜線の向こうに広がる市街地方向のカメラが、白みかけた空の下に広がる光景を送ってくる。
道路が詰まっていた。
正確には、動いていない車列が幹線道路を塞いでいた。渋滞ではない。運転手が発症した、あるいは逃げた、あるいは車内で死んだ車が、任意の場所で停止し、そのまま道路の一部になっている。何台かのドアが開いたままだ。荷物が散乱している。
その車列の隙間を、何かが歩いていた。
Level 1だ。
生前の記憶で分類した言葉が、自動的に浮かぶ。瘴気に感染して即死した者ではなく、感染後に運動機能だけを残して再起動した個体。歩行速度は遅い。判断能力はない。しかし嗅覚と音に対する反応は鋭く、生者の気配を感知すると直進する。
モニターの中で、その個体は車の間をゆっくりと歩いていた。行先を持たない歩行だった。誰かの夫か、父か、あるいは全く無関係の他人か。長谷部には判断する材料がなく、判断する必要もなかった。
別のカメラ映像に切り替える。
港湾方向、稜線から二十キロ以上離れた位置に向けたカメラには何も映っていない。当然だ、解像度と距離の問題で、そちらの詳細な動向はドローンを直接飛ばさなければ確認できない。しかしそれをするには電力と時間と、何より索敵されるリスクがある。
中国軍の動向を確認しにいくことで、こちらの存在を教える可能性がある。
それが今の長谷部の딜레마だった。
指揮官の思考を想像する。倉庫Cの異常を発見した時刻は、おそらく昨夜の深夜から今朝早朝の間だ。報告が上がり、現場を確認し、状況を整理する。内部犯の可能性を検討し、棄却する。外部侵入者という結論に至り、その移動手段と方向を逆算する。山岳地帯という候補が浮上するまで、あと何時間残っているか。
楽観的に見て、十二時間。
悲観的に見て、六時間を切っている可能性もある。
長谷部は椅子の背もたれに体を預け、天井の蛍光灯を見た。また明滅している。今度はさっきより周期が短い。
配線の問題ではなく、この不安定な光の中で自分は何を考えているのか、と一瞬だけ思った。
すぐに打ち消した。
やるべきことは決まっている。感傷は燃料を消費するだけで、出力を生まない。
長谷部は革グローブの右手の指先でキーボードを叩き、ドローンの周回ルートを更新した。港湾方向への直接偵察は避け、山岳地帯の稜線より内側の監視密度を上げる。侵入者を探しに出るのではなく、自分の庭に入ってくる者を待つ。それが今の戦力と物資のバランスから導かれる最適解だった。
外のカメラが、日の出を映し始めた。
山の稜線の向こうから差し込む光が、止まった車列の金属の表面を鈍く反射している。その光の中を、Level 1の個体がまだ歩いていた。同じ速度で、同じ方向に向かって、誰でもない何かを目指して。
長谷部はモニターから視線を外し、無線機の受信ログを開いた。
夜間に拾った断片的な信号の中に、中国語の音声断片が一件含まれていた。解読できるほどの長さではない。しかしその周波数帯は、前世の経験で知っている第三非正規部隊が使用していた帯域に近かった。
近い、ではない。
一致していた。
長谷部は数秒間、その事実を頭の中で転がした。感情は動かなかった。ただ、計算が更新された。楽観的な十二時間という見積もりを、長谷部は静かに棄却した。
要塞の外で、山の朝が深まっていく。
無線機のログを閉じ、長谷部は立ち上がった。
革グローブの右手の甲で、こめかみのあたりを一度だけ押さえる。頭痛ではない。思考の密度が一定の閾値を超えた時に出る、身体の癖だ。軍にいた頃からそうだった。橘に嵌められた夜も、銃口を向けられた最後の瞬間も、こめかみが同じように重くなった。
それを感じた時が、本当の意味で「動く時」だった。
司令室の扉を開け、通路へ出る。HEPAユニットの駆動音が、低く均質に満ちている。長谷部はその音を確認しながら歩いた。音が変わっていない。圧力が維持されている。要塞はまだ生きている。
後藤を探した。
擁壁の確認作業に出ているはずだ。外周へ繋がるエアロック式の鉄製シャッターゲートの前に立ち、内側のインターフォンで呼び出す。
「後藤」
数秒の間があり、返答が来た。
「はい、外周の北面にいます」
「戻れ。話がある」
「今すぐですか」
「今すぐだ」
シャッターゲートの二重構造は、エアロックとして機能する。外扉と内扉の間に一畳半ほどの空間があり、外扉が閉まってから内扉が開く仕組みだ。後藤が外扉を通過し、密閉空間に入り、外扉が完全に閉まるまでの十秒間、長谷部は内扉の前で待った。
内扉が開いた。
後藤が入ってくる。作業着の肩に朝露が光っていた。
「擁壁の状態は」
「北面と西面は問題ないです。東面の隅に一カ所、表面が白く粉っぽい箇所があります。指示通り、荷重はかけていません」
「範囲はどの程度だ」
「横幅で一メートルほどです。深さは表面だけで、構造には影響ないと思いますが」
「思います、では困る。午後に改めて確認しろ。それまでその区画には近づくな」
「了解しました」
後藤は手帳に書き込みながら答えた。鉛筆の走る音が、通路の静寂の中で小さく響く。長谷部はその音が止まるのを待ってから、本題に入った。
「今日の午前中に、俺はドローンで周辺の索敵を行う。お前たちには建屋の内部作業に集中してもらう。外周への出入りは、俺の許可なく行うな」
後藤の目が、僅かに動いた。
「何か、外に」
「予防措置だ」
それだけ言った。後藤は一秒ほど沈黙し、「わかりました」と答えた。それ以上は聞かなかった。現場監督として三十年近く生きてきた男の勘が、何かを察知しているのかもしれない。しかし聞かない、という選択をした。それが今の後藤にとっての正しい判断だと、長谷部は評価した。
「配給は昼に行う。それまでは各自、建屋内の整備作業を進めてくれ。作業リストは共用スペースのホワイトボードに書いておく」
「はい」
「以上だ」
後藤が一礼して共用スペースの方向へ歩いていく。その背中を見送りながら、長谷部は自分が今告げた「予防措置」という言葉の薄さを冷静に測っていた。嘘ではない。しかし真実でもない。中国軍の周波数帯と一致した無線信号、という事実を後藤に伝える意味は、現時点ではどこにもない。情報は統治の資源だ。与えすぎれば恐慌を生み、与えなさすぎれば不信を育てる。今の後藤たちに必要なのは、「長谷部が全てを把握して対処している」という確信だけだった。
長谷部は司令室へ引き返した。
ドローンのコントローラーを手に取り、革グローブ越しに操作する。モニターの一角にドローンカメラの映像が立ち上がった。機体は稜線の内側、要塞から三キロほどの地点を自動周回中だ。
長谷部は手動モードに切り替え、高度を上げた。
山肌が眼下に広がる。針葉樹の緑が朝の斜光を受けて陰影を作り、谷筋に薄い霧が残っている。人工物は見えない。道路も、建物も、この稜線の内側には存在しない。それがこの場所を選んだ理由の一つだった。
ドローンをゆっくりと港湾方向へ向け、稜線の手前三百メートルで停止させた。それ以上進めれば、稜線の向こう側からカメラアングルに入る可能性がある。それはこちらが見るということと、こちらが見られるということを同時に意味した。
現時点では、見ない。
稜線の手前で旋回させ、山の中腹から要塞方向へのアプローチルートを確認した。林道が一本、南から延びている。前世の記憶では、この林道は地図データにも載っていない作業用の私道だった。それがこの場所を選んだ最大の理由だ。衛星画像でも判別困難で、地元の林業関係者でなければ存在を知らない。
しかし今は、地元の林業関係者は存在しない。
どこかで誰かが地図データと地形を照合した場合、この林道は候補から外れる。しかし優秀な指揮官が現地の地形を実際に歩かせた場合、発見される可能性は排除できない。
ドローンを林道の上空に移動させた。
カメラが林道の路面を映す。轍の跡がある。昨夜の自分のハイエースが残したものだ。昨夜の移動は無灯火だったが、路面の泥を踏んだ痕跡は消えない。雨が降れば消えるが、今日の天候は晴れの予報だった。前世の記憶が正しければ、この山間部では今後三日間、まとまった降水はない。
轍は残る。
長谷部はドローンを自動周回モードに戻し、コントローラーを置いた。
轍の問題は、今すぐ解決できる性質のものではない。林道を歩いて泥を均すという選択肢は、それ自体が人の往来の痕跡を増やすだけだ。降雨を待つか、あるいは林道へのアプローチ手前に別の問題を置くか。後者の方向で考えることにした。具体的な手段は、今日の午後に詰める。
モニターに視線を戻す。
外部カメラの一つが、道路沿いを映していた。先ほどのLevel 1の個体は、もう画角の外に出ていた。代わりに、別の個体が映り込んでいた。今度は二体だ。互いに認識している様子はなく、それぞれが無関係な方向を向いて、緩慢に動いている。
二体が、四体になるのにどれくらいかかるか。
Level 1は他の生者を感染させる能力を持たない。感染は瘴気による空気感染だ。つまり今映っている二体は増殖しているのではなく、もともと感染していた個体がこの場所に流れ着いてきているだけだ。密度が上がっているということは、周辺地域からの拡散が進んでいることを示している。
市街地方向からこの山へ向かうルートに、Level 1の密度が高まっていく。
中国軍の索敵部隊が山へ入ろうとした場合、その部隊もLevel 1と接触するリスクを負う。それは長谷部にとって、わずかな時間的猶予になるかもしれない。あるいは、優秀な指揮官ならLevel 1の分布を回避するルートを選択し、むしろ人間の動線から外れたアプローチを取るかもしれない。
どちらに転ぶかは、相手次第だった。
長谷部は無線機の受信モードを確認し、スキャン周波数を昨夜一致した帯域に固定した。雑音が続く。音声の断片は、今のところ混入していない。
時刻は午前九時十二分だった。
要塞の外で、朝が完全に明けていた。止まった世界の上に、二日目の太陽が昇り続けている。その光の下で、中国軍の指揮官がどこかで地図を広げているかもしれない。あるいはすでに部隊を動かしているかもしれない。
長谷部はモニターから目を離さないまま、革グローブの指先を静かに組んだ。
見えない時計が、音もなく刻み続けていた。




