第15話:完璧なる城塞と、最初の夜
ヘッドライトは、ない。
フロントガラスの向こうは、人類が「夜」と呼び慣れてきたそれとは根本的に異なる何かだった。街灯は一本残らず死んでいる。対向車のヘッドライトが滲む気配もない。山の稜線さえ、厚い雲に覆われた空に溶け込んで輪郭を失っている。ハイエースのエンジン音だけが、その闇の中に低く、執拗に鼓動していた。
長谷部は左手でステアリングを操り、右手はシフトノブに添えたまま、両目を細めて前方を凝視し続けた。両手ともグローブは嵌めたままだ。暗視機能が捉えた林道の輪郭は、モノクロームの輝度差として脳の奥へ直接流れ込んでくる感覚がある。深夜二十三時の山道。木々の枝が風に揺れるたびに、その輪郭がわずかにブレる。長谷部の眼球は微細な揺らぎを追い続け、車体が道の端に寄るたびに、ほとんど反射的にステアリングを修正した。
速度は時速三十キロを超えない。
灯りなしでこれ以上踏めば、路肩の溝に脱輪する。それは許されない。荷台には燃料ドラム缶十二本の重量が乗っている――正確には、指輪の亜空間に格納した強奪品のすべてを含めれば、総重量の計算は相当に複雑になる。が、今この車内に現実として存在している物理的な荷重はドラム缶十二本分だ。缶が転がって車体バランスが崩れれば、暗闇の中での立て直しは難しい。
エンジンがわずかに唸りを上げる。上り勾配に差し掛かった。
長谷部は二速に落とし、アクセルを踏み込んだ。振動が座席を通して骨に伝わってくる。荷重が後輪に集中し、フロントが心なし軽く浮く感触。林道の両脇、暗視が捉える木々の幹が、速度に合わせて後方へ流れていく。
思考は、すでに次の局面へと移行していた。
強奪は成功した。これは揺るぎない事実だ。燃料ドラム缶十二本、携帯式対戦車ロケット弾発射筒四本、無反動砲一門、重機関銃用弾薬箱三箱。前世の記憶が教える人類防衛軍の補給水準で換算すれば、中規模の拠点を半年以上支えられる火力と燃料だ。完璧な成果、とさえ言える。
しかし。
長谷部の思考は、その「しかし」に粘着質に取り憑いていた。
倉庫Cの棚。あの二センチのズレ。
自分はあの倉庫で、確かに痕跡を残した。光学屈折マントが視覚・熱源・電波のすべてを遮断しようとも、物体の位置というのは物理的な現実だ。棚の上の砲弾箱が二センチずれれば、目の利く人間には必ず見える。そしてドラム缶が十二本消えた事実は、どれほど有能な将校が「気のせいだ」と自らに言い聞かせようとしても、台帳の数字と照合した瞬間に「不可視の侵入者」という結論に到達する。
敵の有能な将校は、すでにそこへ辿り着いているはずだ。
前世の記憶を手繰る。中国軍第三非正規部隊の指揮系統。港湾施設を電撃的に制圧するだけの練度を持つ部隊が、あの程度の痕跡を見落とすとは考えられない。軍用犬まで投入してきた判断の速さがその証左だ。アレは優秀な指揮官がいる。必ずいる。
優秀な指揮官は、次に何をするか。
「何が盗まれたかを確定させ、侵入者の目的を推測する」
ドラム缶十二本と対戦車兵器。これは前線の小部隊が個人利益のために盗むような代物ではない。体積も重量も、到底一人の人間が手で運べる量ではない。にもかかわらず、犬の追跡を振り切って完全に消えた。これは組織的な行動だ、と判断する。あるいは、超常的な技術を持つ単独の特殊工作員だと見る。どちらにせよ、導かれる結論は同じだ。
「この近辺に、相応の組織か、相応の能力を持つ拠点が存在する」
そして次の行動は、索敵だ。
長谷部の目が、林道の先の暗闇を見つめながら、静かに細くなった。
港湾倉庫の位置からこの山まで、直線距離で四十キロ強。山岳地形を考慮すれば、徒歩での索敵は非現実的だ。ドローンか、車両での山道の系統的な捜索か。前者なら対空手段が要る。後者なら、林道への接近センサーを今以上に充実させる必要がある。
要塞の防衛線。
長谷部の脳内で、地図が展開した。アークブリッジ拠点を中心とした同心円。最外縁、半径三キロ。林道に沿った接近路。崖と沢が自然の障壁となっている方角。逆に、車両が進入可能な経路は二本しかない。そのうち一本は既にバリケードを設置済みだ。もう一本は今自分が走っているこの道で、ここにも簡易センサーを仕掛けてある。
だが、それだけでは足りない。
対戦車ロケット弾の射程は三百メートル。無反動砲は有効射程で四百。重機関銃弾薬があれば、制圧射撃による時間稼ぎも可能だ。問題は、これを誰が運用するかだ。後藤たちは職人だ。軍人ではない。兵器の操作訓練には最低でも数日が要る。トリガーを引くだけなら一日で教えられるかもしれないが、状況判断を含む実戦運用とは天と地ほど違う。
つまり、当面の間、これらの兵器は長谷部一人で扱う前提で考えなければならない。
ステアリングを右へ切る。カーブ。木の根が路面に盛り上がった部分をゆっくりと乗り越える。サスペンションが揺れ、荷台でドラム缶が低い金属音を立てた。
長谷部は音に一瞬だけ意識を向け、すぐ思考へ戻った。
牙を隠す、という原則は変わらない。
敵がこの山を索敵してきた場合、アークブリッジ拠点を「ただの民間人が逃げ込んだ廃工場」として見せきれるかどうか。擁壁とシャッターゲートは目立つが、それ自体は工事現場として説明がつかないこともない。問題は、対戦車兵器の気配が外に漏れた瞬間だ。軍事拠点と認定されれば、交渉の余地なく制圧行動に移行する。それが非正規部隊の論理だ。
ならば、表の顔は徹底して「弱い民間人の逃げ場」でなければならない。
内部の牙は、絶対に、外から見えてはならない。
エンジンの唸りが変わった。勾配が緩んだ。頂上を越えて下りに入る感触。暗視が捉える林道の先、木々の切れ目から、黒い構造物の稜線が見えてきた。
長谷部はアクセルから足を離し、エンジンブレーキで速度を落とした。
荷台のカバーストーリーについても、頭の中で何度も反芻していた。
燃料ドラム缶十二本と対戦車兵器。これを後藤たちにどう説明するか。「指輪」の存在は絶対に秘匿する。強奪の事実も、もちろん言えない。彼らが知るべきは、「長谷部が、崩壊前から張り巡らせていた極秘のコネクションを通じ、アメリカ系PMCが国内秘密倉庫に事前集積させていた物資を、今夜の外出で回収してきた」という話だけだ。
このカバーストーリーの肝は、「自分が常人を超えた先見性と情報力を持っている」という印象を強化する点にある。職人たちはすでに、長谷部の異常な先見性に薄々気づいている。ゾンビパンデミックが始まる前にこの要塞を建設していた、というだけでも十分に異様だ。そこへ「アメリカのPMCとのコネクション」という話を重ねれば、彼らは疑問より納得を選ぶだろう。
人間は、説明が欲しい生き物だ。どれほど不自然な話でも、何も説明されないよりは信じやすい。
長谷部はグローブ越しにステアリングを握り直した。
指輪の残容量は約二十九キログラム。この数字は頭の隅に常に刻んでおく必要がある。今後、要塞の防衛強化や物資の追加確保を行う上で、指輪の容量はもっとも根本的な制約条件だ。今夜の強奪で持ち帰った分を差し引いた残りで、次に何を優先して収納するか。医薬品か、精密機器か、あるいは次の作戦のための消耗品か。
二十九キロ。
決して多くはない。
木々が開けた。
コンクリートの擁壁が、暗視の視野の中に巨大な影として現れた。
高さ四メートル。
前世で長谷部が視察した軍の野戦陣地のコンクリート壁と比べても、遜色のない垂直の壁面が、林道の終端に立ちはだかっていた。人工物の直線と直角が、有機的な木々の曲線に囲まれた山の中で異様な存在感を放っている。暗視が捉えるその表面には、打設時の型枠の継ぎ目が規則正しく走っており、生コンを流し込んだ際の微細な気泡の跡さえ読み取れた。後藤たち職人が、長谷部の要求通りに仕上げた仕事だ。
ハイエースを完全に停止させ、長谷部はリモコンを取り出した。
二段階の認証シーケンス。まず外側のシャッターゲートへ信号を送る。低い電動モーターの唸りが闇の中に響き、鉄製のシャッターが内側へ折れるように開いていく。車一台がギリギリ通過できる幅。長谷部はハイエースをゆっくりと前進させ、第一ゲートを潜った。
内側と外側の間、二メートルほどの空間に車体が収まったところで停止する。
バックミラーで第一ゲートが完全に閉まったことを確認してから、第二のシャッターへ信号を送った。内側のゲートが開く。この二重構造が、万が一の侵入者を外気ごと遮断するエアロックとして機能する。設計段階から長谷部が要求した仕様だ。後藤はその意図を完全には理解していなかったが、「施主の言う通りに作る」という職人の本能が、結果として完璧な構造物を生み出した。
ハイエースが要塞の内部へ滑り込んだ。
エンジンを切る。
静寂。
外の風の音が、壁の向こうへ遠ざかった。内部の空気は、HEPAフィルターを通過した清浄なそれだ。長谷部は一瞬だけ、その静けさの中に座ったまま動かなかった。緊張の糸が、わずかに、ほんのわずかだけ緩む感触があった。
それを自覚した瞬間に、意識して引き締め直した。
緩みは死だ。前世でそれを学んだのは、部下の遺体の前だった。
ドアを開けて降りた瞬間、倉庫の奥の扉が開いた。
後藤が出てきた。
五十二歳、日焼けした顔、がっしりとした体躯。現場監督として三十年を生きてきた男の目が、暗がりの中で長谷部を捉え、そして荷台のドラム缶の影を捉えた。その眼差しに浮かんだものを、長谷部は正確に読んだ。安堵。驚愕。そして、言葉にならない問い。
後藤の背後から、職人たちが続々と顔を出した。七名。全員が無事だ。当然だ、この要塞の中にいる限り彼らに危険はない。だが彼らの顔には、安全な場所で過ごした数時間にもかかわらず、一様に疲弊の色が滲んでいた。
外の世界で何が起きているか、彼らはもう理解している。
窓のない区画に隔離していたとはいえ、音は完全には遮断できない。遠くから届く、説明のつかない声のようなもの。金属が何かに衝突する音。そういった断片が、壁越しに彼らの耳に届いていたはずだ。そしてそれが何を意味するか、長谷部から事前に説明を受けていた彼らには、想像するだけの材料がある。
「お帰りなさい」
後藤が言った。
声が、わずかに掠れていた。
長谷部はグローブを嵌めたままの手で、軽く顎をしゃくった。
「全員揃ってるな」
「はい」
「怪我は」
「誰も」
「よし」
それだけ言って、長谷部はハイエースの荷台へ回った。後藤たちがついてくる。職人の一人、最年少の田中が懐中電灯を持っていた。長谷部は片手でそれを制した。
「まだ灯りはつけるな」
田中が懐中電灯を下げる。
長谷部は荷台のテールゲートを開けた。暗視の中で、ドラム缶十二本の鈍い金属の輝きが並んでいる。後藤が一歩踏み出してその輪郭を確認し、小さく息を呑む音が聞こえた。
「倉庫へ運ぶ。一本ずつだ。転がすな、立てたまま」
長谷部の指示に、職人たちが無言で動き始めた。これが彼らの強みだ。身体を使うことへの迷いがない。何をすべきかが明確であれば、余計なことを考えずに動ける。現場で鍛えられた人間というのは、こういう局面で価値を発揮する。
ドラム缶が一本ずつ荷台から降ろされ、倉庫へ運ばれていく間、長谷部は荷台の奥で作業を続けていた。
後藤たちの背中が倉庫の扉に消えている隙に、長谷部は右手のグローブを素早く外した。
指輪が、夜の空気の中に露出する。
収納展開の作動には皮膚の直接接触が必要だ。それが絶対の条件だ。長谷部は指輪に触れ、意識を集中させた。亜空間が開く感覚。物理的な扉が開くのではなく、空間の位相がずれるような、他に形容のしようがない感触だ。
対戦車ロケット弾発射筒、四本。
無反動砲、一門。
重機関銃用弾薬箱、三箱。
荷台の床の上に、それらが順番に現れた。指輪の内部では時間と熱量が完全に停止しているため、収納前と寸分違わぬ状態で展開される。金属の冷たさも、重量も、全く変わらない。長谷部は最後の弾薬箱が展開されたことを確認し、右手のグローブを再び嵌めた。
所要時間、十二秒。
後藤が倉庫から戻ってきた時、長谷部は荷台の横に無造作に立っていた。
後藤の目が、荷台の奥に積まれた無反動砲の砲身を捉えた。
動きが止まった。
長谷部は後藤の反応を、一ミリも表情を動かさずに観察した。後藤の視線が、発射筒へ、弾薬箱へ、そして長谷部の顔へと移動した。そこに浮かんでいるのは驚愕だったが、それだけではなかった。前世で数百人の人間を観察してきた長谷部の目には、その驚愕の奥にある、複雑に絡み合った感情の層が読めた。
恐れ。
そして、それ以上の安堵。
後藤の背後から他の職人たちも戻ってきて、荷台の中身を目にした途端に固まった。誰も声を発しない。この沈黙は、単純な驚きではなく、外の世界の恐怖と、目の前の兵器の現実と、それをここに持ち込んだ男への根本的な問い直しが、彼らの頭の中で同時に走っている時間だ、と長谷部は読んだ。
長谷部は口を開いた。
「説明する。これ以降、ここで話すことは要塞の外に出ない。いいな」
全員が頷いた。田中はまだ口を半開きにしたままだった。
「パンデミックが始まる前から、私はある筋と連絡を取っていた。アメリカの民間軍事組織だ。連中は崩壊のシナリオを早い段階で掴んでいた。国内の複数の秘密倉庫に、有事用の物資を事前に集積させていた。今夜、その一箇所を回収してきた」
後藤の目が細くなった。
この男は頭がいい、と長谷部は改めて認識した。全部を鵜呑みにはしていない。しかし反論するだけの材料もない。そして今、自分たちが生き残っている理由が、この男の「先見性」以外にないことも分かっている。
「その物資に、これが含まれていたということですか」
後藤が、静かに言った。
「そうだ」
「……どのくらい、外は」
後藤は言葉を切った。続けるべき問いを選んでいるのが分かった。「どのくらい外はひどいのか」と訊きたいのだろう。しかし何と形容すれば正確か、この男自身が分からないのだ。
長谷部は一拍置いた。
「今夜の段階では、まだ混乱の初期だ。だが明日の朝には違う景色になっている」
後藤が目を伏せた。
職人の一人、白髪交じりの森本が、弾薬箱に手を伸ばしかけて止めた。何かを言おうとして、黙った。この男も前線の物資の実物を目の前にして、自分が今いる場所の意味を改めて計算し直しているのだろうと、長谷部には分かった。
「今夜はこれを倉庫の奥に仕舞う。施錠は私がやる。明日、使い方を教える必要があるものについては教える。ただし順序がある。まず全員が十分な睡眠を取れ」
全員が無言で頷く。
長谷部は最後に、全員の顔を一人ずつ、一秒ずつ見た。
恐怖がある。それでいい。恐怖のない人間は判断を誤る。この程度の恐怖を抱えたまま指示に従える人間だけが、長期間の籠城に耐えられる。
「生き残りたければ、私の言う通りに動け。それだけだ」
誰も何も言わなかった。
その沈黙が、長谷部には十分な答えだった。




