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第11話:狂乱の幕開けと火事場泥棒の決意

 音が、先だった。

 視覚より、嗅覚より、理性より、ずっと先に——耳が世界の終わりを受け取った。

 コンクリート擁壁の向こうから届くそれは、打撃音でも爆発音でもなかった。もっと生理的な何かだった。肉が、石に叩きつけられる音。骨が、砕けるのではなく、ひしゃげる音。そして数十という質量が一斉に斜面を転がり落ち、壁の北面へと堆積してゆく、くぐもった圧迫の響き。擁壁全体が低く、長く、腹の底に届く周波数で振動していた。

 長谷部雄介は暗視スコープを左目に押し当てたまま、微動だにしなかった。

 擁壁の天端まで約四メートル。打設からまだ三十九時間しか経過していない生コンクリートは、設計強度の三分の一にも達していない。養生中の壁に許容される側圧など、計算するまでもなかった。現場監督の後藤が「三日は絶対に触るな」と念を押していたあの壁が、今、数十体のLevel 1ゾンビという肉の錘を受け止めている。

 北側の斜面は傾斜三十度。通常の人間であれば滑落どころか近づくことすら躊躇する、暗闇の急勾配だ。だがLevel 1には痛覚がない。恐怖もない。斜面の先に温度があれば——正確には、かつて生きていた頃の本能が遺した熱への引力があれば——転げ落ちながらでも向かってくる。岩に頭をぶつけながら。腕の関節が逆方向に折れながら。

 緑がかった暗視映像の中で、斜面を滑落してくる影が見えた。

 一体。また一体。三体まとめて。

 長谷部は静かに息を吐いた。

 指に力を込める前の、あの〇・二秒。前世で何千回と繰り返した感覚が、筋肉の記憶として蘇る。引き金は引くものではなく、握り込むものだ——訓練教官の言葉が耳の奥で響く。

 消音器付きのアサルトライフルが、くぐもった低い排気音を発した。

 サイレンサーは音を消すのではなく、減衰させるだけだ。それでも夜の山間に響くそれは、人間の耳には「木の枝が折れた」程度の音にしか届かない。暗視スコープの先で、先頭の影が静止した。斜面の途中で、まるで電源を切ったかのように動きを止め、そのまま慣性に従って転がり続けた——今度は脅威ではなく、ただの重さとして。

 長谷部はボルトを引かず、次の照準へ移った。セミオートの利点はそこにある。思考と射撃の間にある、あの無駄な動作を省ける。

 二体目。三体目。

 夜気は冷えていた。十一月の田辺市の山間部は、日が落ちると容赦なく気温が下がる。長谷部の吐く息が白く、暗視映像の端でわずかに揺れた。土の匂いがした。湿った腐葉土と、生コンクリートの石灰臭が混ざり合った、独特の現場の匂い。そこへ今夜から、新しい匂いが加わっていた。金属と、有機物が錆びる前の、あの生臭さ。

 長谷部はそれを意識の外へ押しやった。

 前世でも、そうやって生き延びてきた。

 問題は数ではなかった。斜面を転がり落ちてくる速度と角度が、擁壁への衝突ベクトルを決める。頭部を潰して斜面の途中で止まってくれれば理想的だが、すでに死んでいる体は、死んでからも転がり続ける。壁への到達を完全に防ぐことはできない。

 だから長谷部は二つのことを同時にやっていた。

 右手でライフルのグリップを握り、トリガーを引く。そして左の薬指。安物の指輪に見えるそれを、誰も見ていない夜の中で、わずかに回転させた。

 感覚は説明しがたい。重力そのものをつまむような、あの奇妙な抵抗感。

 異能——長谷部がそう呼ぶことを内心で拒んでいる、その力——は、前世から持ち越してきた唯一の超常だった。「重力磁場」。物理法則の完全な逸脱ではなく、局所的な重力ベクトルをミリ単位で歪める能力。効果範囲は半径二十メートルが限界で、大きな質量を動かすには相応の集中を要する。だが転がり落ちる五十キログラム前後の物体の軌道を、二〜三度だけずらすことは——できた。

 斜面の途中で、落下してくる影がわずかに進路を変えた。擁壁の正面ではなく、側面の岩頭へ。

 鈍い音がした。擁壁への圧力ではなく、岩への衝突音。

 長谷部は表情を動かさなかった。

 この作業を、夜明けまで続けた。


 土曜の空が白み始めた頃、北側斜面は静かになっていた。

 静か、というのは語弊がある。正確には——動くものが、なくなった。斜面のあちこちに、夜の間に転がり落ちてきた物体が散在していた。長谷部はそれを数えなかった。数える必要はなかった。擁壁はまだ立っていた。それだけで十分だった。

 彼はライフルを虚空へ戻した。

 「虚空へ」というのも、正確ではない。安物に見える指輪のストーンを押し込む——それだけで、亜空間への扉が開く。重さ四・二キログラムの銃と、消耗した弾倉と、サイレンサーが、音もなく消えた。内部では時間が完全に停止している。次に取り出した時、銃身はまだ夜の温度のままだろう。

 長谷部はジャケットの泥を払い、メイン建屋へ向かって歩いた。

 足音を、意図的に少し立てた。

 内扉を開けると、廊下に人の気配があった。後藤が壁に背をもたせかけて立っていた。五十代のベテランの顔に、一晩の緊張が刻まれていた。目の下が赤く、口元が固い。だがその目は——しっかりと長谷部を捉えていた。

「他の人は?」と長谷部は言った。

「奥の区画に。言った通り、誰も外に出してない」

「よくやった」

 後藤の表情が、かすかに動いた。安堵ではなく、確認するような目だった。現場で三十年生きてきた男の目だ。現場監督というのは、状況を読む生き物だ。嘘と本当の間にある何かを、長谷部は後藤の視線の中に感じた。

 だから先手を打った。

「アークブリッジが事前に配置していた自動防衛システムが機能した。詳細は言えないが、アメリカから直輸入した特殊な装備だ。外の——暴徒は、すべて排除した」

 後藤は一拍、間を置いた。

「暴徒」と彼は繰り返した。

「そう呼ぶしかない」

 また間があった。長谷部は後藤の思考の速度を測っていた。この男は賢い。だが今夜経験したことの意味を、まだ完全には咀嚼できていないはずだ。人間の認知は、あまりにも大きな現実の前では、段階的にしか崩壊しない。

「わかった」と後藤は最終的に言った。「みんなに話す」

「その前に」と長谷部は言った。「一つだけ聞いておけ」

 後藤が目を上げた。

「この建物の外は、もう地獄だ。日本中が。世界中が。だがここだけは——今この瞬間、地球上で最も安全な場所の一つだ。HEPAフィルターが稼働している限り、ここの空気は完全に清潔だ。食料も水も、長期分を確保してある」

 長谷部は一呼吸置いた。

「お前たちはここにいていい。ただし、俺の指示に従うことが条件だ」

 後藤は長い間、長谷部の顔を見ていた。

 品定めするような目ではなかった。どちらかといえば——測るような目だった。この男が何者で、何を知っていて、どこまで信用できるか。三十年間、現場で人を見てきた目が、静かに機能していた。

 そして後藤は、短く頷いた。

「わかりました」

 敬語になっていた。長谷部はそれを指摘しなかった。


 職人たちは奥の区画に固まっていた。

 窓がない。外が見えない。それが長谷部の設計意図だったが、今夜に限っては、その構造が彼らの精神を守っていた。見えないということは、想像するということだ。想像は現実より柔らかい。少なくとも最初の一晩は。

 七人の顔が長谷部を向いた。年齢はまちまちだった。二十代らしき若い職人が二人、三十代が三人、四十代が二人。全員が建設現場で鍛えた体をしていたが、今夜ばかりは、その体格が何の役にも立っていなかった。恐怖というのは筋肉で抗えるものではない。

 長谷部は後藤から聞かせた内容を、もう一度、自分の口で繰り返した。自動防衛システム。アメリカ直輸入の特殊装備。外の脅威の排除。

 説明しながら、長谷部は七人の表情の変化を逐一読んでいた。

 最初は懐疑だった。当然だ。昨夜の音を彼らも聞いていた。壁が軋む音。何かが衝突する音。人間のものではない、あの低く連続した振動。それが「自動トラップ」で解決されたという説明は、にわかには飲み込めない。

 だが——疲労が、懐疑を侵食していた。

 一晩中、恐怖の中で縮こまっていた人間の脳は、信じたいものを信じる方向へと傾く。目の前にいる男は、この山奥に要塞を作り、フィルターを動かし、外の地獄から自分たちを遮断した。その事実は、どう否定しようとしても、否定できない。空気は清潔だ。壁は立っている。そして夜明けが来た。

 二十代の若い職人が、最初に折れた。

「……ここ、本当に大丈夫なんですか」

 問いかけではなく、確認だった。大丈夫だと言ってくれ、という声だった。

「大丈夫だ」と長谷部は言った。迷わず、間を置かず。「お前たちが俺の指示に従う限り、ここは安全だ」

 条件をつけたのは計算だった。無条件の安全を約束する指導者は、いざという時に裏切られる。条件をつけることで、彼らに「役割」を与える。役割は人間に安定をもたらす。自分が何かに貢献しているという感覚は、恐怖の中でも人を立たせる。

 七人が、順番に頷いた。

 後藤が最後に頷いた時、長谷部は内心で静かに確認した。

 最初のアウター要員、確保。


 司令室は建屋の中央部にある。

 窓はなく、壁は二重になっており、換気ダクトはHEPAフィルターを経由している。六面のモニターが並ぶ壁の前に、長谷部は一人で座った。職人たちには休息を命じ、後藤には彼らの監視を任せた。司令室への立ち入りは全面禁止にしてある。理由は「システムの誤操作防止」。本当の理由は、言うまでもない。

 モニターの一面が、衛星回線から引き込んだ映像を映していた。

 長谷部は三秒だけ、その映像を見た。

 三秒で十分だった。

 大都市の映像というものは、平時には情報が多い。建物、人、車、光、色。だが今夜のそれは、逆に情報が少なかった。動くものが、ほとんどない。正確には——意図を持って動くものが、ほとんどない。街路に散らばる影は動いているが、それらに目的はない。信号は機能しているものとしていないものが混在している。煙が上がっている場所が、画面の中に四箇所見えた。東京だと思われた。大阪の映像チャンネルに切り替えると、状況はさらに悪かった。

 長谷部は意識的に視線を動かした。

 河原崎。

 大阪大学大学院、深海結晶加工チーム。前世の記憶の中で、その名前は重要な位置を占めていた。パンデミックが本来の想定通り土曜の昼に始まっていれば、彼女は大阪にいたはずだった。だが今回、勃発は金曜深夜へと前倒しされた。学会のために東京へ移動していた可能性がある。新幹線の中にいたかもしれない。あるいはまだ大阪の研究室に残っていたか。

 情報がない。

 前世では、河原崎はパンデミックから三ヶ月後に長谷部の前に現れた。それまでの三ヶ月をどこでどう生き延びたか、長谷部は知らない。本人が話したがらなかった。

 今世では——まだわからない。

 長谷部はその思考を、意識的に棚上げした。今考えられることではない。

 別のモニターが点滅した。

 暗号通信の受信を示すシグナルだった。発信元コードを確認して、長谷部は片方の眉を、ほんのわずかに上げた。

 フィッシャー。

 マイアミの、F。

 前世で長谷部が命を救ったことがある男だ。救ったというより——ある作戦で、長谷部が撤退命令を無視して陽動を続けた結果、たまたまフィッシャーの部隊が脱出できた、という方が正確だった。だがフィッシャーはそれを「命の借り」と受け取った。アメリカ人らしい、ある種の律儀さで。

 今世でも、長谷部はパンデミックの三ヶ月前にフィッシャーへ接触していた。暗号化された民間チャンネルで、ごく短いメッセージを送った。「三ヶ月以内に西太平洋で大規模な生物災害が発生する。生き延びたければ、内陸の高地へ移動し、HEPAフィルターを確保しろ」。

 フィッシャーが信じたかどうか、返信はなかった。

 だが今、彼は通信してきた。

 長谷部は復号キーを入力した。

 メッセージは短かった。英語で、暗号化されていたが、内容は明瞭だった。

 ——生きている。フロリダ北部の山岳施設に退避済み。警告に感謝する。お前は今どこだ。そして——中国軍の第三非正規部隊が、極東での略奪作戦を承認されたとの情報がある。ソースは確かだ。注意しろ。

 長谷部は、三回読んだ。

 フィッシャーが生きている。それは想定通りだった。情報の信憑性も、フィッシャーのソースであれば、額面通りに受け取っていい。

 問題は後半だった。

 中国軍の第三非正規部隊——それは正規軍ではない。公式には存在しない、グレーゾーンの実力組織だ。前世でも、パンデミック後の混乱期にその名前を何度か聞いた。当時は「噂」として処理されていたが、実際に彼らが日本国内で行ったことの痕跡を、長谷部は後になって知っていた。

 略奪。資源の確保。そして——口封じ。

 返信を打った。短く。「健在。情報に感謝。」

 送信してから、長谷部は別のモニターへ視線を移した。

 要塞の広域無線傍受システムが稼働している。これは表向きの設備リストには存在しない、完全に隠蔽した装置だ。周辺三十キロメートルの無線通信を傍受し、AIが自動でフラグを立てる仕組みになっている。

 フラグが、四十七件立っていた。

 一晩で。

 長谷部はそれを上から順に確認した。大半は崩壊していく日本社会の断末魔だった。警察の通信が途絶える記録。自衛隊の周波数が混乱する記録。民間の無線が意味をなさない叫びに変わる記録。

 だが——四十七件の中の、三件。

 それだけが、性質が違った。

 暗号化されていた。市販の暗号ではない。長谷部がかつて軍で扱っていた規格に近い、本職の暗号だ。発信位置は特定できなかったが、信号の強度から推測すると——田辺市から東へ、百キロメートル以内。

 長谷部はしばらく、そのデータを見ていた。

 フィッシャーの情報と、この傍受データ。二つを重ねると——絵が見えてくる。

 奴らはもう、日本にいる。あるいは、日本へ向かっている。

 崩壊した国家の資産というものは、想像以上に多い。自衛隊の装備庫。港湾の燃料備蓄。原子力関連の施設。そして——民間の、気づかれていない資産。

 彼らが何を最初に狙うかは、前世の記憶から推測できた。

 武器だ。

 正確には——武器と、それを動かす燃料。国家が崩壊した後の世界で、最初に価値を持つのは暴力だ。それは歴史が何度も証明している。

 長谷部は立ち上がった。

 頭の中で、すでに計算が動いていた。彼らが動くのは夜だろう。今はまだ土曜の午前だ。時間がある。だが多くはない。

 司令室を出て、後藤を探した。後藤は廊下にいた。職人たちはようやく仮眠に入ったらしく、奥の区画は静かだった。

「後藤」

「はい」

「今夜、俺は外へ出る」

 後藤の顔が動いた。昨夜の疲労が残る目が、しっかりと長谷部を見た。

「一人でですか」

「一人で」

「……外は」

「わかっている」と長谷部は言った。「だから一人でなければならない」

 後藤は何かを言いかけて、止めた。この男は賢い、と長谷部は再確認した。言っても無駄だと判断したのではなく——この男には、言っても理解できない領域があると判断したのだ。それは正しい判断だった。

「拠点の防衛を頼む。外部からの侵入があった場合の手順は、このタブレットに入れてある」と長谷部は言い、端末を手渡した。「フィルターの監視を最優先にしろ。もしフィルターの警告灯が赤になったら、全員を第二区画へ移動させろ。それだけ守れれば、後は何もしなくていい」

 後藤は端末を受け取り、一度だけ頷いた。

「いつ戻りますか」

「夜明け前」

 それだけ言って、長谷部は司令室へ戻った。

 日が暮れるまで、やることがある。

 まず、ルートだ。

 田辺市から東へ百キロ以内。暗号通信の発信位置として考えられる候補地をリストアップした。自衛隊の施設が一箇所。廃棄された演習場が二箇所。そして——港に近い、民間の倉庫群が一帯。

 前世の記憶と照合すると、答えは絞れた。

 港だ。

 海からのルートで来るなら、まず港を押さえる。港には燃料がある。倉庫がある。そして——今の日本には、それを守る者がいない。

 長谷部は地図データを暗記し、モニターを閉じた。

 日没まで、四時間。

 彼は仮眠を取ることにした。前世で学んだ習慣だ。戦闘の前に眠れる者が、生き延びる。眠れない者は判断を誤る。恐怖は眠気より強いと思われているが、訓練された体は違う。

 長谷部は椅子を倒し、目を閉じた。

 意識が落ちる直前、脳裏に一瞬だけ——河原崎の名前が浮かんで、消えた。


 日没の三十分前に目が覚めた。

 体内時計は、前世から狂ったことがない。

 司令室の無線傍受データを確認した。新しいフラグが十九件。そのうち、例の暗号化通信が——二件増えていた。発信間隔が短くなっている。何かが動き始めている。

 長谷部は立ち上がり、ジャケットを着た。

 指輪のストーンを押し込む。

 虚空から、光学屈折マントが現れた。

 見た目は薄い。羽織ると、まるで存在しないかのように馴染む。背景と同化する——というより、マントを纏った者が放つあらゆる信号を、表面が吸収して再配置する。視覚。熱源。電波。レーダー。完全遮断。

 長谷部はそれを肩にかけた。

 メイン建屋の出口で、一度だけ振り返った。

 建屋の奥から、かすかに寝息が聞こえた。七人の職人たちが、世界の終わりの中で、ようやく眠っている。HEPAフィルターの低い駆動音が、その息に混じっていた。清潔な空気が、あの区画を満たしている。

 長谷部は外へ出た。

 夜が、待っていた。

 山間の暗闇は深く、星だけが異様に明るかった。人工の光が消えた世界では、空がこれほど近く見える。長谷部はそれを一秒だけ見上げ、視線を水平に戻した。

 マントのフードを被る。

 その瞬間、長谷部雄介は、夜の中に溶けた。

 足音だけが、しばらく枯れ葉の上に残り——やがてそれも、風の中に消えた。

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