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第12話:亡霊の潜入作戦

潮の匂いが、最初に変わった。

山間の要塞を出て三十分、舗装の途絶えた林道の終点に車を隠した時点では、まだ松脂と腐葉土の清廉な匂いが夜気を支配していた。それが今、長谷部雄介の鼻孔を満たしているのは、重油の燻った刺激と、塩気を含んだ海風と、そして――人間の密集した場所に特有の、獣じみた体臭と緊張の匂いだった。

港湾施設まで、残り四百メートル。

長谷部は丘の稜線に腹這いになり、暗視機能付きの単眼スコープで眼下を舐めるように観察した。かつて平和な漁港だったはずのその場所は、一夜にして別の顔を持っていた。岸壁に横付けされた中型揚陸艇のシルエット、倉庫群を結ぶように張り巡らされた仮設照明、そして等間隔で動く人影。

数えた。東側の岸壁沿いに六名。倉庫Aの入口付近に二名。中央の広場と思しき空き地に、少なくとも十名以上の集団。

多い。

前世の記憶と照合する。前世において第三非正規部隊の規模を長谷部が把握したのは、彼らがすでに内陸部へ展開し始めた段階だった――つまり、眼下の「港湾拠点」の詳細な内部構造については、記憶の解像度が著しく低い。これが今夜最大の不確定要素だと、長谷部は既に受け入れていた。

未知の領域に踏み込む。それ自体は恐怖ではない。未知を恐怖に変えるのは準備の不足だ。

長谷部はゆっくりと起き上がり、装備の最終確認を行った。

マントは既に展開している。正確には、「起動」という能動的な表現が正しいかどうか、長谷部自身も確信を持てないでいる。光学屈折マント――前世で中央省庁の倉庫深くに眠っていた情報を回帰後に追跡し、競売に先手を打って確保した国宝級のアーティファクト――は、身に纏った瞬間から、己の意志に応じて「光を曲げ始める」。熱源を散乱させ、レーダー波を吸収し、あらゆる電磁気的な「輪郭」を夜の闇へと溶かしていく。

それは、消えることではない。

透明になることでもない。

光が、自分を「ない」ものとして振る舞うようになる、という感覚だ。

スコープのレンズを通して己の腕を見る。何も見えない。丘の向こうの港湾施設の灯りが、腕のあるべき位置を素通りして、地面を照らしている。それを見るたびに脊髄の奥に走る、うっすらとした全能感。

長谷部はその感覚を、意識的に踏み潰した。

マントは光と熱を欺く。それだけだ。砂利を踏む音は消えない。衣服が草に触れる音は消えない。呼吸の音も、心拍の振動も、重力に従って地面を押す足の重さも、何一つ消えない。前世で橘征司の罠に落ちた一因は、自分の能力を過信した瞬間にあった。そうでなくとも、完璧な装備は人間を慢心させる。

慢心は、死だ。

右足のつま先を地面に置く。荷重を内側のアーチに逃がしながら、かかとを最後に降ろす。軍靴の底が砂礫を感じ取った瞬間、足首の微細な筋肉群が総動員されて、接地面の小石を固定する。音を「殺す」のではない。音を「作らない」のだ。発生する前に潰す。前世の訓練で骨の髄まで刻み込まれた歩法が、夜の斜面を長谷部の体重をのせて静かに滑り降りていく。

三百五十メートル。

仮設フェンスの外周が見えてきた。有刺鉄線が二重に張られている。予想の範囲内だ。

二百八十メートル。

巡回兵の一人が立ち止まり、煙草に火を点けた。ライターの炎が、一瞬、人間の顔を照らす。若い。二十代の前半だろう。制服は正規軍のものだが、疲弊と焦燥が顔全体に貼り付いている。ゾンビ化したパンデミックの初夜を、彼もまた乗り越えてきたのだ。

敵として見ろ、と長谷部は自分に命じる。

感傷は後だ。いや、後もない。

フェンスの東側、仮設照明の死角が形成される地点を前世から割り出していたわけではない。眼下の光源の配置を三十分の観察で解析し、今夜リアルタイムで看破した。倉庫Bの背面と、資材置き場の大型コンテナが作る影の交差点。仮設照明のケーブルが届いていない、約四メートル四方の完全な暗部。

そこへ向かって、長谷部は最終アプローチを開始した。

二百メートル。

ディーゼル発電機のアイドリング音が、低い唸りとなって腹に響いてくる。港湾特有の金属臭と海水の腐食が混じった空気。波が岸壁を叩く不規則なリズム。それらすべてが、長谷部の耳に入ってくる音の「総量」を押し上げ、自分の立てる微細な音を自然にマスキングしてくれる。

環境音は味方だ。

フェンスに到達した。有刺鉄線の下端、地面との隙間。測定していた数値と一致している。長谷部は伏せ、最小限の動作でその隙間を通過した。鉄線の先端が、マントの素材を一ミリも引っ掛けないよう、呼吸を止め、腰を一センチ単位で制御しながら。

内側に入った。

潜入完了。

だが、これは終わりではなく、始まりだった。

倉庫Bの陰から、長谷部は内部の配置を再スキャンする。発電機は北側の屋外に設置されている。燃料の備蓄は、最大の倉庫――岸壁に最も近い倉庫Aだろう。兵器類の集積は、通常、燃料から分離して保管する。爆発事故のリスク管理の基本だ。ならば倉庫Cか、あるいは岸壁に横付けした揚陸艇の船腹。

判断材料が足りない。

もっと奥へ入る必要がある。

コンテナの角を回り込んだ瞬間、七メートル先に人影が現れた。

長谷部の全身が、即座に硬直する。

巡回兵ではない。二人組で、何かを運んでいる。木箱だ。弾薬箱の規格に近い、あの寸法と重量感。二人はぼそぼそと言葉を交わしながら、長谷部の正面を横切っていく。

動くな。

意識が命じる前に、体が既に「木」になっていた。重心は両足の間。呼吸は最小限の鼻呼吸に切り替え、胸郭の動きを外から見えない範囲に圧縮する。マントが光を欺いても、七メートルの距離で人間の「気配」を感じ取る者はいる。前世で長谷部が部下に教え込んだことだ。

二人は通り過ぎた。

長谷部が呼吸を再開したのは、彼らの足音が十分に遠ざかってからだった。

無線機のノイズが、突然、すぐ頭上から降ってきた。

「――確認しろ、北側のルートはどうなってる」

中国語。長谷部の語学スキルが、即座に内容を和訳する。

「まだ封鎖できていない、人手が足りない」

「馬鹿野郎、日が明けたら周辺集落の掃討を始めるんだ。夜明けまでに全ルートを押さえろと言ってるだろうが」

「了解、了解――ただ、田中班が戻っていない」

「戻っていない?」

「最後の通信から四時間が経過している。あの山の方向へ向かって、それきりだ」

沈黙。

「……ゾンビか」

「わからない。ゾンビなら通信機器を残して倒れているはずだが、回収に行く余裕が」

「後回しだ。今は物資を優先しろ」

ノイズが消えた。

長谷部は動かない。

田中班、という日本語名の班が四時間前に消息を絶った。その方向は「山の方向」。要塞のある方向だ。彼らが偵察か何かで山間部へ向かい、ゾンビの群れにでも遭遇して壊滅したとすれば――前哨部隊の損耗は、指揮系統の焦りをさらに加速させる。

夜明けまでに全ルートを押さえる。

周辺集落の掃討を日が明けたら開始する。

タイムリミットが設定された。

長谷部の思考が、一段、高速化する。感傷の余地はどこにもない。自分の要塞に保護した七名の職人たち、あそこには単なる「物資の価値」以上のものがある。彼らを守るためではなく――今の段階では守るための戦力が足りない、という純粋な戦略的判断として――夜明け前に敵の機動力を削ぐ必要がある。

目的は変わらない。最深部の兵器・燃料庫を特定し、「時空間の指輪」に収納できるだけ収納して撤退する。敵がなくなった弾薬と燃料を朝に気づいた時、次の急襲の優先度がどれほど低下するかは、言うまでもない。

長谷部はコンテナの影を伝い、倉庫群の中心部へと足を進めた。

倉庫Aの側壁に手を触れずに沿いながら、長谷部は角を回り込んだ。

眼前に広がったのは、港湾施設の心臓部だった。

中央広場と呼ぶにはあまりにも物騒な空間。岸壁クレーンの脚部を背景に、軍用トラック三台が縦列で停車している。荷台には、ブルーシートで雑に覆われた積み荷。ブルーシートの端から覗く金属の輝きは、長谷部の目に弾薬箱の角として映った。その周囲に、六名の兵士が焚き火を囲んで座っている。夜間の焚き火は愚策だ、と長谷部は思う。遠距離からの狙撃者に光源を提供するに等しい。しかし彼らには今、寒さと恐怖と疲弊を凌ぐ方が優先されているのだろう。パンデミックの初夜を生き延びた人間が陥る、精神の弛緩。前世で何度も見た光景だった。

六名の視線はそれぞれ焚き火に落ちているか、あるいは虚空を彷徨っている。

長谷部は彼らの正面を、十一メートルの距離で横切った。

息を殺して。足裏の感覚だけを頼りに、コンクリートの継ぎ目を避けながら。男たちの会話が、すぐ耳元で聞こえる。

「……家族と連絡が取れない」

「俺もだ。上海は」

「考えるな。任務に集中しろと言われてる」

「集中できるか。世界が終わってるんだぞ」

誰も笑わなかった。

長谷部も笑わなかった。

焚き火の輪を過ぎる。コンクリートから、砂交じりの地面に変わる。足裏のフィードバックが即座に変化を検知し、歩法を微調整する。砂の上では荷重の分散が肝要だ。一点に集中すると、砂が圧縮されてわずかな音を立てる。

倉庫Cが見えてきた。

他の倉庫と比べて、入り口の警戒が厚い。二名の歩哨が、自動小銃を胸の前で抱えて立っている。等間隔に、十五分サイクルで交代している様子ではない――まだ動いていない。新しい配置だ。長谷部が潜入してから、巡回のパターンを頭の中にマッピングし続けてきた結果として、倉庫Cだけが「固定の歩哨」を置かれていることが際立っている。

固定歩哨は、中に何か重要なものがある証拠だ。

やはり倉庫Cか。

問題は、入り口が正面一箇所しか視認できないことだった。背面は岸壁に面しており、海側に回り込むには揚陸艇の係留ロープをまたぐ必要がある。そこに別の歩哨がいる可能性を排除できない。

長谷部は倉庫Cの側面に沿って移動しながら、側壁を視覚的に検分した。

換気口がある。

高さは地上から三メートル。縦四十センチ、横六十センチ程度の金属製ルーバー。老朽化した港湾施設の換気設備は、往々にして防諜上の盲点になる。前世でも、侵入経路として何度か使った記憶がある。ルーバーの固定ボルトが経年劣化で緩んでいれば、外部から静かに取り外すことができる。

問題は高さだ。

三メートルを、無音で登る。

側壁は打ちっ放しのコンクリートだが、建設年代を考えれば表面に細かい亀裂と凹凸があるはずだ。フリークライミングの技術が必要なほどではない。指先と爪先の摩擦、体幹の緊張で制御する、静止した登攀。

長谷部はマントの裾を帯で固定し、手袋を外した。素手の方が、わずかな表面の質感を掌が読み取れる。

右手を壁に当てる。

冷たい。塩害で荒れたコンクリートの表面が、指先の腹にざらついた地図を描く。突起を探す。三センチほどの段差。ここに中指と薬指の第一関節を引っ掛ける。左手も同様に探り、右足のつま先が壁面の微小な窪みを捉える。

ゆっくりと、重力に逆らう。

音は、ない。

衣服がコンクリートに擦れる一瞬を、体幹の収縮で壁との距離を保ちながら回避する。腕力で登るのではなく、全身の筋肉を連動させて「壁に貼り付く」感覚で高度を稼いでいく。前世の訓練施設で、インストラクターに叩き込まれた垂直壁登攀。当時は命綱があった。今はない。

換気口に手が届いた。

ルーバーの端を二本の指で摘み、微細な揺さぶりを与える。

動く。

ボルトが一本、既に失われている。残り三本のうち、上側の二本が経年劣化で噛み合いが甘くなっていた。長谷部は指先だけでボルトを反時計回りに回し始めた。摩擦音が出ないよう、トルクを一定に保ちながら、一回転、また一回転。

眼下の歩哨二名は、依然として正面入り口に向いている。

三本目のボルトが外れた。ルーバーが、蝶番の残った一本を軸にして、内側へ静かに傾いた。

長谷部は腕の力で体を引き上げ、換気口へと滑り込んだ。

内部は暗い。

しかし暗視スコープを通した視界が、即座に情報を供給し始める。

倉庫Cの内部は、予想を遥かに超えていた。

床面積はおよそ千平米。その大部分を、規則正しく積み上げられた物資が占領している。弾薬箱は壁沿いに五段積み。中央には、燃料ドラム缶が数十本。さらに奥、最深部には、防水シートで覆われた長方形の物体が並んでいる。あの形状は――携帯式対戦車ロケット弾か、あるいは無反動砲の類だろう。

スケールが、想定より大きかった。

第三非正規部隊は、単なる掠奪部隊ではない。持続的な軍事行動のための、本格的な兵站基地を構築しようとしている。ここにある物資があれば、数週間、いや状況次第では一ヶ月以上の作戦行動を支えられる。

これを敵の手元に残すわけにはいかない。

長谷部は換気口から静かに降下し、積み上げられた弾薬箱の陰に身を潜めた。

「時空間の指輪」を右手の薬指で確認する。安物の指輪に見える、この地味な金属の輪。内部は時間も熱量も完全に停止する亜空間。収納できる量に上限はあるが、この倉庫の物資の「主要部分」を攫っていくには十分だと長谷部は計算していた。

ただし、順序が重要だ。

燃料ドラム缶を先に収納する。燃料がなければ、車両も発電機も動かない。敵の機動力を根こそぎ奪うことが最優先だ。次いで弾薬。対戦車兵器は、長谷部自身にとっても将来価値が高い。

長谷部は立ち上がり、最初のドラム缶へと歩み寄った。

二十リットル缶ではない。標準的な二百リットルのスチール製ドラム缶。重量は満タンで百七十キロを超える。当然、人力では微動だにしない。

ここで「重力磁場」を使うことは、長谷部の中で既に選択肢から外れていた。

精神集中を要する異能を、敵の心臓部で使えば、認知負荷が上がり、周囲への警戒が疎かになる。それが死に繋がった事例を前世で二件、長谷部は直接見ている。どちらも有能な兵士だった。

別の方法がある。

ドラム缶のそばには、港湾荷役用の手動フォークリフト、いわゆるハンドパレットが放置されていた。長谷部はその爪をドラム缶の下へ静かに差し込み、ハンドルを無音に近い速度でポンピングした。油圧が上がり、ドラム缶が数センチ浮く。あとは指輪の亜空間の入り口を開き、収納する。

一本目が消えた。

二本目へ。

作業は、機械的に繰り返された。音を立てないために、全ての動作が三倍の時間をかけて行われる。それでも長谷部の体内時計は正確に経過を刻んでいた。潜入からここまで、四十一分。

十二本目のドラム缶を収納し終えた時、倉庫の正面扉が内側から開く音がした。

長谷部は、コンマ一秒で積み上げられた弾薬箱の最深部に滑り込んだ。

扉から入ってきたのは、三名。

先頭の男は将校だ。腰の拳銃、肩章の意匠、そして他の二名が一歩下がって従う立ち位置が、それを示している。年齢は四十代後半。顔に疲弊はあるが、眼光だけが鋭く生きていた。

「在庫の再確認だ。夜明け前に第二波の輸送を始める」

将校が中国語で命じる。長谷部の脳が即座に翻訳する。

部下の一人がドラム缶の列に目を向けた。

「……」

沈黙が、わずかに長い。

長谷部は呼吸を止めた。弾薬箱の隙間から、男の視線の先を追う。十二本分の空白。ドラム缶が並んでいたはずの場所が、ぽっかりと空いている。

「何だ」と将校が訊いた。

「燃料が……少なくないですか」

「馬鹿を言え、さっき確認したばかりだ」

将校が自ら歩み寄ってくる。

長谷部は弾薬箱の積み重なりの中で、完全に「木」になった。マントが光を欺く。暗視スコープの視界の端で、将校の顔が険しくなっていくのが見える。

「……数が合わない」

呟きは、静かだった。しかしその声のなかに、得体の知れないものへの怖れが混じっていた。

長谷部はその瞬間を、冷徹に計算する。

騒ぎになる前に倉庫を出るか。弾薬箱の収納を続けるか。

答えは明白だった。

欲張りは死を招く。

今夜持ち出せた燃料だけで、敵の機動力は相当程度削がれる。弾薬はまた機会を設ける。長谷部はゆっくりと、将校たちの背後に回り込む経路を組み立てながら、出口へ向けて最初の一歩を踏み出した。

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