盲目の羊飼い
第四話 盲目の羊飼い
主を失った静寂だけが、巨大な空洞のように家全体を支配している。
わずかに開けた遮光カーテンの隙間から、暴力的なほどに鋭い春の陽射しが、磨き上げられたリビングのフローリングに落ちていた。光の帯の中を、無数のホコリが微かな気流に乗ってあてもなく浮遊している。
俺は広すぎるダイニングテーブルに向かい、安物のボールペンを握りしめていた。手元にあるのは『広域通信制高校 入学願書』と印字された紙の束だ。
氏名、間宮透。年齢、二十一歳。最終学歴、中学校卒業。
大人の骨格を持つ手が、十七歳のあの日から一秒も進んでいない自分の時間を無理やり動かそうとする。インクが紙を擦る不格好な摩擦音が、錆びついた歯車を素手で回すようなひどい精神の軋みとなって、静まり返った部屋に響いた。
二十一歳の消えない空白を、「高校生」という三文字で無理やり塗り潰そうとするこの行為は、滑稽を通り越してひどくおぞましい。
なぜ今更、こんなことをしているのか。
目を閉じると、深夜の交差点で白い横断歩道の上を危うげに跳ねていた、雨宮の姿が浮かび上がる。
大人たちの社会から完全に弾き出され、黒いアスファルトを踏んだら死ぬという、子供じみたルールの防空壕に引きこもる少女。俺はあの日、彼女の隣にいる時だけ、自分が社会の不良品であることを都合よく忘れられたのだ。
彼女を守りたいとか、社会のレールに引き戻してやりたいとか、そんな美しい理由ではない。彼女の不健康なまでの白さに寄りかかり、あの心地よい泥水のような共犯関係の中にずっと居座り続けるために、最低限の「学生」という身分が欲しかった。
俺の空っぽな四年間の空白を隠すための、ただの隠れ蓑だ。
最後の一文字を書き終え、俺は願書の捺印欄に三文判を押し当てた。
朱肉の赤い円が、真っ白な紙の上にぽつりと不器用な血を流す。たったそれだけのことで、大量に血を抜かれたような疲労感が全身にのしかかった。
願書の入った茶封筒を薄いパーカーのポケットに突っ込み、玄関のドアを押し開けた。
時刻は昼の十二時半。外に出た瞬間、強烈な太陽の光が網膜を容赦なく突き刺す。夜の底の静寂に慣れきった俺の体にとって、白昼の街はあまりにも凶暴だった。
駅前へと続く大通りには、パチンコ店から漏れ出す電子音と、大型ビジョンから絶え間なく降り注ぐAIの広告音声が濁流のように渦巻いている。
行き交う人々は皆、見えないメトロノームに合わせているかのように、同じ歩幅で黒いアスファルトの上を淀みなく歩いていた。迷いなく手元の画面をかざし、短い電子音とともに改札やレジを滑らかに通り抜けていく。
彼らと肩がぶつかりそうになるたび、呼吸が浅くなる。完璧に統率された群れの中で、俺の足音だけが不格好なズレを響かせている。ポケットの中で願書の封筒を握る掌に、じっとりと冷たい汗が滲んだ。
信号は赤。数十人の群衆が、見えない壁に阻まれたように交差点で足を止めている。
俺もその波の最後尾に混ざり、早く青に変わってくれと祈りながら足元のアスファルトを睨みつけていた。
――その時だった。
春の生暖かい風が吹いていたはずの交差点で、突如、全身の神経をびりびりと焼かれるような圧倒的な恐怖が叩きつけられた。
皮膚で感じる寒気や痛みではない。生存本能そのものが致死量の危険を察知し、脳髄の奥深くで「今すぐ逃げろ」と絶叫している。
悲鳴を上げる細胞を押さえ込み、群衆をかき分けるように視線を走らせて、俺は「それ」の震源地を見つけた。五メートルほど斜め前。交差点の最前列に立つ青年の背中。
黒いスーツに身を包んだその姿は、周囲の人間となんら変わりない。しかし、その背中に視線を合わせた瞬間、俺の脳髄が「今すぐここから逃げろ」とけたたましい警鐘を鳴らした。五感のすべてが正常に機能しているのに、あいつの周囲だけが決定的に終わっているという、理屈を超えた絶対的な不安感。
青年の背格好は、今の俺と同じ二十一、二歳だ。
擦り切れひとつない真新しいビジネスバッグと、少し窮屈そうなスーツの肩のライン。俺が病室のベッドで無駄に腐らせた四年間を、この男は間違いなく、正しく積み上げてきたのだ。俺が永遠に失った真っ当な未来へと続く道を歩く同い年のエリートは、自分の背中に死神が張り付いていることなど露知らず、のんきにスマホの画面をスワイプしている。
だというのに。
俺の口角は、無意識のうちに醜く、三日月のように吊り上がっていた。
昼間の街を歩くことで感じていたあの惨めな劣等感が、一瞬にして反転していく。冷え切っていた胃の底から湧き上がってきたのは、ドロドロに溶けた鉛のような、重くて、甘くて、どうしようもない「狂気的な高揚感」だった。
ああ、なんだ。
ワイヤレスイヤホンで流ちょうに会話をする大人も、窮屈なスーツを着ている同い年のエリートも、結局のところ何も見えていない、ただの盲目の羊じゃないか。
誰も気づかない。誰も知らない。この狂った世界の真のルールを観測できるのは、今、この瞬間、俺だけだ。俺だけが、あの順風満帆な青年の命のタイムリミットを握っている。
ドクン、ドクン、と。
自分の心臓の音が、周囲の雑踏を完全に掻き消して耳の奥で狂ったように鳴り響き始めた。
ポケットの中の願書など、もうどうでもよかった。俺は今、社会の底辺を這いずる惨めな不良品から、他人の運命を書き換える絶対的な羊飼いへと戻ったのだ。
『カッコウ、カッコウ』
歩行者用信号が青に変わる。
人を急かすような無機質な電子音が響き、群衆が一斉に黒いアスファルトの上を歩き出す。ノイズを背負った就活生も、スマホから目を離さないまま、ゆっくりと横断歩道へ足を踏み出した。
交差点に突っ込んでくる暴走車か? それとも上からの落下物か?
なんでもいい。どんな不運が降ってこようが、この俺がその運命を容易く握り潰してやる。
俺は小さく息を吐き、口元に傲慢な笑みを浮かべた。
怖いものなど何もない。距離はたったの五メートルだ。あの病院の時のように、ただ腕を伸ばして突き飛ばすだけでいい。
他人の運命を弄ぶという狂気すら、今の俺にはただの退屈な遊戯だった。口元に醜い三日月を浮かべ、まるで春の陽だまりを散歩でもするかのように、俺は交差点の中央へと駆け出した。




