落ちる空と、防空壕
足の裏がアスファルトから数ミリ浮いているような、気味が悪いほどの軽さ。
ポケットの奥で丸まる通信制高校の願書など、もう俺の重りにはならない。
目の前を歩く、擦り切れひとつない、真新しいリクルートスーツの背中。この命を、今の俺は右腕一本で自由にできる。
残りの距離は三メートル。二メートル。
指先が、黒い布地に触れる寸前。
俺はこの狂った世界の重力を、完全に支配したと錯覚していた。
その直後、空が落ちてきた。
風の鳴る音すら前兆を伴わない。鼓膜を内側から破いたのは、熟れた果実がコンクリートに叩きつけられて弾けるような、生々しい破裂音だった。
俺の指先からわずか数センチ先。
上空から降ってきた数十キロの肉の塊が、真新しいスーツの肩を真上から押し潰した。
飛び散った赤黒い飛沫が、神様気取りで差し出していた俺の右手をべったりと濡らしていく。
ビルの屋上から降ってきた見知らぬ死体と、エリートだったはずの青年。二つの肉が不気味に絡み合い、あり得ない角度で静止している。
悲鳴が上がるまでの数秒間、交差点の音がすべて消え去った。
青年の肩にへばりついていた不安感は、混ざり合う血の海の中で、満足げに溶けて消え去った。
俺が運命を書き換える?
神様を気取っていた数秒前の自分が、ひどくちっぽけな道化に思えた。俺の助走も、突き飛ばす計算も、上から降ってくる圧倒的な重さの前では、ただの安いパントマイムに過ぎなかった。
他人の絶望すら、ただの「凶器」に変えて、この世界は、あいつを殺した。俺は神様ではない。血の匂いの特等席に座らされただけの、無力な肉の塊だ。
アスファルトに這いつくばり、俺は胃液が空っぽになるまで嘔吐を繰り返した。
パトカーのけたたましいサイレンが、硬直していた交差点の時間を無理やり動かし始めた。
俺は吐瀉物と血だまりから這いずるように身を起こし、逃げるようにその場を離れた。背後では、駆けつけた警察官たちが事務的な手つきでブルーシートを広げ、二つの肉塊を世界から隠そうとしている。
スマートフォンを掲げる無数の野次馬たち。駅前の大型ビジョンは、そんな足元の惨状などお構いなしに、明るいポップミュージックに乗せて清涼飲料水の広告を流し続けている。
交差点を一つ越えると、そこにはもう「日常」があった。
誰も数メートル先で人がミンチになったことなど知らない。イヤホンで音楽を聴きながら、同じ歩幅で、淀みなくアスファルトの上を流れていく。
部品が一つ二つ欠けたところで、この巨大な機械は一秒たりとも止まってはくれないのだ。
パーカーのポケットに手を突っ込む。指先が、茶封筒のざらついた感触に触れた。
通信制高校の願書。この世の中に、もう一度自分を組み込んでもらうための哀れな嘆願書。
吐き気が再燃した。あんなに正しく生きようとしていた同い年の男が、他人の絶望に巻き込まれてあっさりゴミのように捨てられたのだ。
俺は何になろうとしていたのだろう。震える足を引きずりながら、俺は逃げ込むように夜の街の暗がりへと歩き続けた。
深夜。ネットカフェの狭いバックヤード。
蛇口から吐き出される冷水で、何度も手と顔を削るように洗う。頬の血は落ちたはずなのに、爪の間にこびりついた鉄錆の匂いが、いくら石鹸を泡立てても消えない。
目を閉じると、二つの肉体が重なって潰れる重い音と、あの赤黒い飛沫が脳裏に張り付く。
息がうまく吸えない。いくら空気を飲み込んでも、肺の底がずっと冷たいままだ。壁が迫り、四方から俺を押し潰そうとしてくる。濡れた手のまま、俺はリノリウムの床にうずくまった。
怖い。
明日は俺の番だ。背中にノイズが張り付いたとき、俺は一人で、あんな風にすり潰されるのを待つしかない。
耳を塞いでも、骨が砕けるあの破裂音が内側から響き続ける。狂いそうな頭を抱え込んだ、その時だった。
「間宮さん」
静かで透き通った声が、、頭上から落ちてきた。
入り口に、雨宮が立っていた。いつものダボついたパーカー。彼女の目は、血の匂いに怯える俺の惨状を見ても、驚きも蔑みもしない。何度も見てきたものを見るような、凪いだ目。
彼女は無造作にしゃがみ込み、自動販売機で買ったらしいスチール缶を俺の震える手に押し付けた。コーンポタージュ。火傷しそうな熱が、凍りついていた血液を無理やり溶かしていく。
「……死んだんだ」
痙攣する喉から、懺悔が漏れた。ただの事実じゃない。俺の奥底で腐っていた、一番醜い本音の塊。
「俺、あいつの命を握ってるって、神様にでもなった気でいたんだ。俺は特別で、あいつらを見下せる存在なんだって……」
パーカーのポケットから、くしゃくしゃになった茶封筒を引きずり出す。薄っぺらい免罪符。
「でも違った。こんな紙切れ一枚で、真っ当な奴らと同じ側に立てるなんて……馬鹿みたいだ。俺は、上から降ってくる他人の絶望にすら気づけない、ただの……っ」
言葉が嗚咽に詰まる。
雨宮は、願書を握りしめて震える俺の手を、両手でそっと包み込んだ。
生きている人間とは思えないほどの、冷たい指先。だが、その手つきは壊れ物を扱うように、どこまでも優しかった。
「……正しく生きようとするから、死ぬんですよ」
一切の気負いがない、静かな宣告だった。
顔を上げる。雨宮の瞳には、俺を慰めようとする哀れみも、自分の思想を押し付けようとする熱もない。ただ、彼女が身をもって学習した「世界の本当のルール」を、道に迷った子供に教えてあげるような純粋さだけがあった。
「……あっちは戦場だから。」
雨宮の親指が、俺の頬を伝う涙を無造作に拭う。
彼女の言葉は、一般的な道徳から見れば完全に狂っている。
「ここは防空壕です。白線の外のルールなんて、私たちには関係ない。壊れたまま、ずっとここで息を潜めていましょう」
それは、打算でも操作でもない、純度百パーセントの優しさだった。だからこそ、俺の残っていた最後の理性を容易く溶かした。
正しく生きなければならないという呪いを、彼女の狂った倫理観がいとも容易く断ち切ってくれたのだ。
俺の手から力が抜け、くしゃくしゃになった願書が、音もなくリノリウムの床に滑り落ちた。
拾い上げようという気すら起きなかった。俺はコーンポタージュの缶を手放し、彼女の華奢な肩にすがりついた。柔軟剤の匂いに混じる、甘くて冷たい体温。
俺の肺にはもう、彼女の冷たい温度しか入らない。俺は彼女の背中に腕を回し、この狭くて暗い防空壕の底で、声を出さずに泣き続けた。




