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神様ごっこ  作者: K-Log


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3/5

夜の底の白線

 エレベーターホールにへたり込む男を見下ろし、ポケットの中で拳を強く握りしめていた俺の背後で、バタバタと大きな音が近づいてくる。


「おい、間宮!今のすごい音、何――うわっ、大丈夫か!?」

 血相を変えて飛び出してきたバイトリーダーの先輩が、ぽっかりと口を開けた真っ暗な縦穴を見て絶句する。


 それからの数時間は、慌ただしく、そして滑稽だった。

 ビル管理会社への連絡、パトカーと消防車の到着。幸い落下者は出なかったものの、老朽化したビルの構造上の危険が指摘され、雑居ビルは一時的に完全封鎖されることになった。

 狭い路地裏ではパトカーの毒々しい赤色灯が、ネズミの群れを蹴散らしてゆく。深夜の居場所を奪われ、不安げな顔で外へと誘導されていく客たちを眺めながら、俺はひどく冷静だった。


「……悪い、今日はもう営業中止だ。二人とも、着替えて上がっていいよ。店長が給料は朝までつけとくって。間宮君は初日からごめんね。」

 青ざめた顔の先輩にそう告げられ、俺の社会復帰初日は、数時間で唐突な終わりを迎えた。


 バックヤードの狭い更衣室で、窮屈だった制服のポロシャツを脱ぎ、自分の薄いパーカーに袖を通す。


「初日から、すごいことになっちゃいましたね」


従業員口から外に出た瞬間、横から抑揚のない声が降ってきた。

 私服の黒いオーバーサイズのカーディガンを羽織った雨宮が、先に外で待っていたらしい。深夜三時半。四月に入ったとはいえ、深夜の裏路地を抜ける風は凍えるほど冷たく、彼女は寒さを凌ぐようにカーディガンの萌え袖から指先だけを出し、自分の肩を抱いていた。


「……ああ。誰もケガしなくてよかった……」

「間宮さんが引き止めてなかったら、あのお客さん、落ちてましたよ。……間宮さんって、ああいう時、咄嗟に体が動くタイプなんですね」

「そんなんじゃない。ただの偶然だよ。」


 にやけそうになる口元をパーカーの襟で隠し、俺は視線を逸らして吐き捨てた。

 雨宮はそれ以上追及するでもなく、「ふうん」とだけ短く息を吐いた。


「始発まで、あと一時間半ですね」

「そうだな」

「……駅の方、行きますか。開いてる店、あるか分からないですけど」

「ああ」


どちらから誘うでもなく、俺たちは並んで歩き始めた。

 立入禁止の黄色いテープが張られた雑居ビルを背に、人気のない蒲田の裏路地を抜けていく。シャッターの降りたビル群が、巨大な黒い影となって道の両側に立ち並んでいた。昼間はあれほど息苦しかった街が、今はひどく静まり返っている。

 まるで世界から人間がごっそりと消え失せてしまったかのような暗闇の中を、俺と彼女の影だけが並んで歩いていた。

 彼女の歩幅に合わせて、アスファルトを擦る二人の心地よい足音だけが、等間隔で夜の底に響き続けていた。

 やがて、点滅する黄色の信号機だけが規則的に光を放つ、大きな交差点に差し掛かった時のことだ。


ふと視界の端で、雨宮の動きが不自然に止まった。

 横を見ると、彼女は少し下を向き、横断歩道の白い塗装の部分に両足を揃えて立っていた。そして、黒いアスファルトの部分を避けるように、白い線から次の白い線へと、ぴょん、と小さく跳ねるようにして移動した。


「……何やってるんだ」

「白線渡りです。黒いアスファルトを踏んだら、見えないワニに食べられて死ぬルール」

 彼女は前を向いたまま、ひどく真面目なトーンで答えた。


「子供かよ。二十歳にもなってやることじゃないだろ。」

「年齢なんて、ただのシステム上の数字じゃないですか。……おっと」


雨宮は少しバランスを崩し、両手を広げて白い線の上でぴたりと止まった。オーバーサイズのカーディガンが夜風にふわりと揺れ、長い黒髪から微かにシャンプーの匂いが漂ってくる。

 俺の歩幅も、自然と止まっていた。


「大人になるって、つまらないルールを押し付けられることじゃないですか」

 彼女は白い線から落ちないように足元を見つめたまま、ぽつりとこぼした。

「みんなと同じように笑って、空気を読んで、上辺だけの心配をする。そういう『正しい大人』のルールの上を歩かないと、社会から弾き出される。……息が詰まりますよね」

「…………」

「だから、せめてこういう自分のルールで世界を上書きしないと、やってられないんです」


ぴょん、と彼女はまた次の白線へと跳び移る。

 俺は、無言のまま彼女の白いスニーカーのつま先を見つめていた。


他人の死の因果律という究極のルールを書き換えようとしている俺に対して、彼女は「アスファルトを踏んだら死ぬ」という子供じみたルールで世界を上書きしようとしている。

 大人たちの社会に馴染めない彼女は、そうやって自分だけの小さな防空壕を作ることで、この息苦しい世界をなんとかやり過ごしてきたのだろう。


気がつけば、俺も一歩踏み出し、横断歩道の白い塗装の上に立っていた。


「あ、間宮さんもやるんですね」

 振り返った雨宮が、少しだけ目を丸くする。

「……別に。ただ最短距離を歩いてるだけだ」

「ふふっ、そういうことにしておきます。……ワニ、結構口が大きいので気をつけてくださいね」


俺たちは無言のまま、点滅する信号機の下で、白い線だけを踏んで交差点を渡りきった。

 十七歳の俺には、彼女と同じルールの上に立ち、同じ歩幅で白線を踏むことしかできなかった。

 けれど、黒いアスファルトを越えて最後の白い線に着地した瞬間、彼女が俺を見て小さく笑った。

 それだけで、肺の底に溜まっていた重たい空気が、ふっと白い息になって夜闇に溶けていった。


交差点を渡った先、シャッターの閉まった小さなタバコ屋の横で、暗闇の中に一台の自動販売機が煌々と光を放っていた。

 雨宮がその前で立ち止まる。

 小銭を入れる硬質な金属音が響き、ガコン、と重たいものが落ちる音が二回続く。

 彼女は取り出し口から熱気を帯びた小さなスチール缶を取り出すと、振り向きざまに、何の前触れもなく俺の頬にそれを押し当てた。


「熱っ」

「はい、これ。さっきの同盟の記念品です」


驚いて受け取った缶を見ると、それは真っ赤なパッケージの「おしるこ」だった。


「なんでおしるこなんだよ。コーヒーとかお茶とかあるだろ」

「夜中に飲むおしるこって、一番非効率で無駄な味がするんです。それに、最後に絶対、缶の底に小豆が三粒くらい残ってイライラするし」

 雨宮は自分の分の缶のプルタブを開け、両手で包み込むようにして一口飲んだ。

「でも、そういう無駄なものを取り入れてる時だけ、自分が機械の歯車じゃないって思えるから」


彼女は熱いおしるこに口をつけながら、今日一番の、柔らかくて体温のある笑みを浮かべた。

 自動販売機の白い光の下、ふわりと立ち上る湯気の向こうで、不健康なほど白い頬が微かに上気している。ネットカフェの密室で見せていた、あの氷のように冷たくダウナーな空気はどこにもなかった。

 ただの、少し不器用で、ひどく魅力的な一人の少女がそこにいた。


「……甘すぎるだろ、これ」


俺は視線を逸らすようにため息をつきながら缶を開け、そのひどく甘い液体を喉に流し込んだ。

 強烈な砂糖の甘さと、舌に触れる煮崩れた小豆の感触。それは確かに、深夜の乾いた胃袋には暴力的なほどに非効率な味だった。


「底を叩くと、小豆が出やすくなりますよ」

「知ってる。……ほんと、非効率な飲み物だな」

「ふふっ。間宮さん、なんだかんだ言ってちゃんと飲んでくれるんですね」


俺は缶の底を見つめたまま、ずっと胸の奥に抱え込んでいた泥を吐き出すように口を開いた。

「……俺、四年間、病院のベッドの上で寝たきりだったんだ」

雨宮は驚くでもなく、ただ静かに俺の横顔を見つめていた。

「事故だった。目が覚めたら、周りの奴らはみんな大人になってて、俺の時間は十七歳のあの日から一秒も進んでない。体だけが二十一歳になった、ただの不良品なんだよ」

言い終わってから、ひどく惨めな気持ちになった。

俺は缶の底を見つめたまま、ずっと胸の奥に抱え込んでいた泥を吐き出すように口を開いた。

「……俺、四年間、病院のベッドの上で寝たきりだったんだ」

雨宮は驚くでもなく、ただ静かに俺の横顔を見つめていた。

「事故だった。目が覚めたら、周りの奴らはみんな大人になってて、俺の時間は十七歳のあの日から一秒も進んでない。体だけが二十一歳になった、ただの不良品なんだよ」

言い終わってから、ひどく惨めな気持ちになった。

 だが、雨宮は同情するような安い言葉はかけず、「……そっか。だから間宮さんは、大人の嫌な匂いがしないんですね」と、ぽつりとこぼした。


深夜四時分。

 東の空の底が、ほんのわずかに白み始めている。


 ひどく甘くて熱いおしるこの缶を握る右手のひらだけが、火傷しそうなほどに熱を持っていた。その熱が、手首を伝い、腕を這い上がり、空っぽだった俺の心臓を、確かな質量を持って激しく打ち鳴らしている。


 いつもは分厚い氷で覆われているような彼女の瞳が、缶の温もりに溶かされたように柔らかい光を反射している。その無防備な横顔から、俺はどうしても目を離すことができなかった。


 このどうしようもなく不器用で非効率な時間が、永遠に続けばいいのにと。

 俺は無意識のうちに、本気でそんなことを願ってしまっていた。

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