心臓はうるさい
深夜十一時四十五分。蒲田駅前の雑居ビル二階。
薄暗いネットカフェのバックヤードで、支給されたばかりのネームプレートを見つめる。
「間宮」
自分の名前を見るのはいつぶりだろうか。
「間宮君、とりあえず初日なんで、今日はブースの清掃とフロントのパソコンの見方だけ覚えてもらうね。……って、聞いてる?」
「あ、ごめんなさい。大丈夫です!」
俺より年下の、金髪にピアスのバイトリーダーに頭を下げる。
バイトリーダーは見た目に反して二十歳の大学生らしい。現実の俺よりも年下だが、中身の十七歳の俺からすれば年上の「大学生」だ。
社会復帰の第一歩として選んだ、深夜のネットカフェでのアルバイト。
面接では「四年間、入院していた」とだけ伝えた。人手不足の深夜帯のネットカフェなんて、わざわざ選ぶような場所じゃない。昼の世界からこぼれた人間が、流れ着く場所だ。
だから俺みたいな素性の知れないやつでもあっさりと採用されたんだろう。
支給された制服のポロシャツは、俺の肩のラインにどうにも収まりが悪かった。
見慣れないセルフレジの液晶は俺の指を強く弾き,聞きなじみのない若者言葉は俺をよけて飛んでいく。俺のゼンマイは、十七歳から一巻きもされていない。
ーーそのくせ。
病院での一件があってから、自分の中に妙な確信が残っている。
他人の死を知覚できるのは、自分だけなんじゃないか、という感覚。
そんな傲慢な考えを巡らせながら、俺は年下の指示通り、黙々と返却棚のコミックを並べ直していた。
「…じゃあ、俺休憩行ってくるわ。雨宮さん、間宮君のことお願い。よろしく。」
バイトリーダーがバックヤードの奥へと消えると、フロントには俺と、もう一人のアルバイトだけが残された。
雨宮、と呼ばれたその少女は、少し長めの黒髪を後ろで束ね、細く白い首筋を覗かせていた。年齢は俺と同じか、少し下ぐらいだろうか。肌は異常なほど白く、薄暗い蛍光灯の下では、目の下の微かなクマが痛々しく見えた。
深夜のネットカフェという、社会から零れ落ちた人間たちの吹き溜まり。無数のパソコンが発する低い排熱音だけが響く窓のない無機質な箱の中では、彼女の存在は今にも消えてしまいそうだった。
「間宮さん、ですよね。雨宮です。……まみや、に、あまみや。なんだか紛らわしいですね。」
彼女は抑揚のない声でそう言うと、小さく頭を下げた。
「あぁ、よろしくお願いします。」
俺はうまく笑うことができなくて、ただ短く返すことしかできなかった。
雨宮はふいっと視線を外し、フロントの奥で作業をしている先輩の背中を一度だけ見た。それから、俺にだけ聞こえるような小さな声で口を開く。
「……店長や先輩が、遠くから「まみやさーん」とか「あまみやさーん」って呼んだ時、どっちを呼んでるか分からないこと、絶対あると思うんです。」
「……あぁ、たぶん。」
「だからもし、それがめんどくさそうな雑用の呼び出しだったら、お互いに「自分のことじゃない」って顔して無視することにしませんか。」
「え?」
「私、面倒なことは嫌いなので」
そう言うと、彼女は口元にそっと人差し指を立てて、今日初めて、ほんの少しだけ悪戯っぽく笑った。
冗談なのか本気なのかわからない。ただ、大理石のような肌に浮かんだその小さな共犯の合図が、俺の網膜にやけに鮮明に焼き付いた。
深夜二時を回った頃だった。
客の出入りは完全に無くなり、店内には冷たい空調の風だけが巡っている。
ふと隣を見ると、雨宮が返却された漫画の山に手をつき、小さくふらついたのが見えた。額にはうっすらと汗が浮かび、肩で浅い息をしている。
普通の大人なら、息をするように、社会人としての適切な同情を示せるのだろう。
半開きの口からは、ただ乾いた空気が漏れるだけだった。四年の空白は、こういう時の『大人としての正解』を俺から完全に奪っていた。
「……雨宮さん」
「……はい?」
「顔色、すごく悪い。さっきからカウンターに寄りかかってるし、立ってるのも辛そうだから……裏で休んできたほうがいい」
なんとか絞り出したのは、お世辞にも優しいとは言えない、ただの不器用な事実の指摘だった。奥歯を強く噛み締める。棘のある事実しか口にできない不器用さに、胃の奥が嫌な音を立てて軋んだ。十七歳の頃から、俺はずっとこうだった。
案の定、雨宮は目を丸くして俺の顔を見つめた。
怒らせただろうか。突き刺さるような沈黙。たまらず手元のレジのモニターへと視線を落とした、その時だった。
「……ふふっ」
彼女の唇から、小さく吹き出すような笑い声が零れた。
「何ですか、それ。普通、そういう時はもっと心配そうな顔で『大丈夫?』って聞くところですよ。……直球すぎません?」
怒っているようではなさそうだった。むしろ、張り詰めていた空気がふと緩んだような気がした。
「……ごめん。なんて言えばいいのか分からなくて。」
「いいんです。間宮さんって、変わった人ですね。」
雨宮はフロントに肘をつき、俺を見上げていった。
「みんな、優しい顔して『大丈夫?』って聞いてくるんです」
雨宮は、少しだけ首を傾げた。
「でも、ああいうのって、結局“心配してる自分”に酔ってるだけで……」
「本当に面倒なことには、誰も近づいてくれないんですよね」
小さく笑った。
——なのに、目は、まったく笑っていない。
「だから、間宮さんみたいに、不器用でも『休め』って言ってくれる方が、私は好きです」
「変に気を使わなくていいから、すごく楽」
「そう……か」
どうやら彼女も、俺と同じ側の人間らしい。
「じゃあ、お言葉に甘えて少し休んできます。間宮さん、先輩が来たら適当に誤魔化しておいてくださいね」
「ああ。」
雨宮は力なく微笑んで、バックヤードへと消えていった。
一人残されたフロントで、俺は無意識のうちに入っていた肩の力を抜き、小さく息を吐き出した。十七歳から止まっていた時間が、ほんの少しだけ動いた気がした。
だがその安堵感は一瞬にして引き裂かれた。
清掃のために薄暗い通路を歩いていた俺は、ふと足を止めた。
心臓を直接氷で締め付けられるような強烈な不安感が、全身を激しく刺してくる。
間違いない。病院で感じたあの死の気配が、今まさにこの薄い扉の向こうで蠢いている。けたたましく跳ね上がる心拍とは裏腹に、指先から急速に血の気が引いていく。
数分後、スライドドアが開き、くたびれたスーツ姿の中年サラリーマンが出てきた。丸まった彼の背中には、すさまじいノイズがびっしりとへばりつき、彼の存在を蝕んでゆく。
男がフロントで精算を済ませるのを、俺は胸を高鳴らせながら見つめていた。
なぜか自然と口角が吊り上がりそうになるのを、奥歯を噛み締めて必死に抑え込んだ。
男が店を出る。
俺は「外の立て看板の様子を見てきます」と先輩に適当な理由だけを投げつけて、静かに男の後を追った。
雑居ビルの古びたエレベーターホール。男はふらつく足取りで下りのボタンを押し、壁に寄りかかって虚ろな目で宙を見つめていた。
間の抜けた到着音とともに、錆びついた金属の扉がゆっくりと左右に開く。
だが、その光景は、俺の背筋に直接、本能的な死の冷気を叩きつけてきた。
開かれた扉の向こう側には、あるはずの『箱』が存在していなかった。照明の届かない、ぽっかりと口を開けた真っ暗な縦穴。底知れぬ奈落が、無防備な獲物を飲み込もうと口を開けて待っていたのだ。
男はひどく酔いが回っているらしく、目の前の以上に気づく様子もない。スマホの画面に目を落としたまま、その暗闇へ向かって、無造作に一歩を踏み出そうとする。
地下深くまで続く真っ暗な縦穴の底へ落ちると、確実に死ぬことになるだろう。
「危なっ」
思考より先に、俺の体が弾かれたように動いた。
奈落へ吸い込まれそうになった男のスーツの襟首を力任せに掴み、後方へと強引に引き倒す。
「ひっ……!」
自分が今、何に足を突っ込もうとしていたのかを理解した男が、真っ青な顔で奈落と俺を交互に見上げた。
「あ、あぁ……っ。俺、今、これ……助かった、のか……?」
「……故障みたいですね。気をつけて」
震えそうになるのを必死に抑え込み、俺は無理やり平坦な声を作って告げた。
男を包んでいたすさまじい不安感は霧散してゆく。首を絞められていたような息苦しさがふっと抜け落ちて、焼けつくような熱い血液が乾ききった血管を駆け巡る。
心臓の鼓動の音は、激しく体を揺らし、乾ききった俺の体は満たされてゆく。
間違いない。俺の力は本物だった。
俺は今、確実に、他人の命を救ったのだ。俺一人の力で。
床にへたり込み、涙目で何度も頭を下げる男を見下ろしながら、俺はポケットの中で拳を強く握りしめた。




